覚えているよ。
あの時の空の色、燃え盛る積乱雲にあてられた君のふるえる睫毛、僕たちを包んでいた空気に含む水分の粒子の数まで、僕は何もかも、覚えている。
僕のオフィーリア
「好きです」
君がそう言った瞬間、遠くでカラスが鳴いて笑いそうになった。僕は常識人だから、このセリフの後にどんな理由があれ笑って返すなんてことはできなかったから、目線を君の後ろにやった。
君の後ろで大きな積乱雲が燃えていて、あまり出会ったことのない景色だったものだから少しの間見蕩れていたんだっけ。
「私、小川くんを幸せにしたい」
意外にも男前なこの一言に驚かされて、彼女が呼んだ夏風が自身の艶のある髪の毛を攫っていった。
一世一代のセリフのせいなのか、それとも8月の夕焼けのせいなのか、僕のために勇気を出してこんなに真っ赤になった彼女を手放したくなかった。
「うん、じゃあそうしてもらおかな」
「え?」
「僕を幸せにして、名前ちゃん」
喜びより何より驚愕が勝ったみたいで大きな目をさらに大きくして、僕はそんな彼女の前で止まった時間をどうやって動かそうか考えていた。
そんな衝撃的な出来事から1年と6ヶ月、僕たちは順調に絆を深め、恋人というよりは親友に近い関係になっていた。
喧嘩をすることもあったが片手で収まるほどで、僕の幼さや拙さをいつも大人びたまるっこい笑顔でくるんでくれる。
あの時の言葉どおり、僕はまんまと彼女の手によって幸せになった。
「ただいまあ」
「おかえり」
「はい、これおみやげ」
「わーいありがとう。 お風呂? ごはん?」
「んー…… 風呂?」
「よっし、すぐ入れる」
東京に行ったら老舗店の芋羊羹を買うのが決まりになっていて、これを食べ終わるまでは名前の機嫌が極限レベルに良くなる。「アホな女やと思ってるやろ」と本人に言われたが、そのアホさに救われて、そのアホな笑顔に助けられていることまでは気付いていないようだった。
「仕事してたん?」
「あ、ごめんすぐ片付ける」
「忙しいねんな、最近」
「前に比べたらね。拓文の前で忙しいなんか言われへんわ」
「いや言うてよ、無理してへん?」
軽く尋ねた何気ない気遣いの言葉が異様に際立つほどの沈黙が流れて、思わず彼女の整った横顔を数秒眺めた。
名前を呼ぶと不穏な表情で僕の目を一瞥して、んー、と唸ってソファに腰を沈めた。
「どないしたん、言うて?」
「や、仕事内容とかではないねんけど」
「うん」
「職場でちょっとね」
「え、何」
分かりやすい大きなため息を吐き出した後、携帯を触り始めたかと思いきや誰かとのメッセージのやり取りを見せてきた。
名前からして男性なのを理解すると、すぐに脳が大きくぐらついた。
やり取りを読み進めると、男が名前に執拗に食事に誘っている内容の文章が、日にちを区切って送っていることが記録されている。
「何じゃこりゃ」
「職場の子、望月くんて言うねんけど…… この子が最近しつこくてさ」
「なんやねんそれ、彼氏おるって言うててこのしつこさ?」
「うん、やばいやろ。おっても関係ないと思うタイプなんか知らんけど、遠慮とか一切なくて断るこっちがしんどいねん」
「いくつ?」
「23」
「ガキやんけ」
「勘弁してほしいわ。今の若い子何考えてるか分かれへん」
彼女は男に彼氏がいること・その彼氏ともうすぐ結婚することをしっかり伝えており、どの角度から読んでも期待をさせないように配慮された返事をしていた。
仕事に差し支えないように名前なりに言葉を選んでいるのに、それを無視して自分の気持ちばかりを優先させるこの世間知らずのクソガキに怒りを覚えた。
「ごめんな」
「何が?」
「……結婚、もうちょっと待ってな」
「ええんよ。ごはん作るわ」
この話題の時の名前は、笑っているのに泣いているように見える。
1ヶ月前久々にお互い丸1日の休みが被り、何ヶ月ぶりかのデートらしいデートの終盤、晩ご飯を食べ終わった帰り際に彼女からこう言われた。
「結婚せえへん?」
寒さとかではなく、緊張で脚が震えたのは初めてだったと後日笑いながら話してくれた。「今は仕事に向き合いたい」と、僕は彼女の気持ちを突き返したのに。
僕が結婚したら、僕たちの今の仕事は、立場は、応援してくれている人たちは、一体どう変わってしまうのだろう。
それらと彼女を天秤にかけて結果、変わらず隣にいてくれるであろう名前に寄りかかること以外、甘ちゃんの僕に選択肢はなかった。
案の定名前は、「大丈夫、お互い仕事がんばろね」と笑ってこの話題を終わらせた。
あれから1ヶ月、名前の笑顔は変わらず僕の隣にある。僕はこの笑顔を守るために、死ぬ気で仕事を頑張らなくてはならない。脚や唇が震えないように、彼女と同じ言葉を伝えたいから。
「あ、そうそう」
「ん?」
「25日のお昼、すみちゃんとランチ行ってくる」
「25…… あさってか。ええやんか、楽しんどいで」
「うん。拓文はこの日から地方やったよね」
「そー。1週間帰って来られへん」
「1週間なんてあっちゅう間よ。気をつけてね」
「はーい」
お風呂がわきました。
会話の最後は機械のこのセリフだった。
僕はあたたかい風呂で仕事の疲れを癒やし、できたての食事にありついて、ベッドメイクされた清潔な布団に入って眠りについた。
彼女は少しだけ仕事をする、と言ってパソコンを開いて眼鏡をかけた。
その時着ていたのは確か、僕と付き合う前に友達と行った首元がよれた夏フェスのTシャツ。
そんな日常に転がる奇跡みたいな一瞬を形に残しておけば良かったと、1週間後僕は後悔することになる。