衝撃的な出来事からやっと10時間が経った。結局一睡もできず朝を迎え、最低最悪のコンディションで現場へ行くことになった。
周囲の人たちは声すらかけられなかったみたいで、全部の仕事が終わった後に下田に声をかけられた。


「何があったん」


お互い放任主義だったはずなのに、下田にこんな気色悪いセリフを吐かせてしまうほど僕は参っていたのだろう。みっともない。


「大丈夫やから」
「そうは見えへんけど」
「ちょっと体調悪いだけやから、気にすんな」


仕事が終わった僕が向かうところはひとつしかなかった。
一日中覚醒状態だったが、眠気を感じるどころか活動状態は良好だった。僕は、僕の中の感覚を信じていた。


「出えへんか……」


彼女の家の最寄駅に着いた瞬間電話をかけるが、もちろん出ない。そこまでは想定内だった。
家にいてくれたら、と願った矢先、ガラス張りのカフェ店内で引っかかる顔があった。目を凝らし一点に集中すると、見たことない表情をした望月がいた。気持ちが昂り、焦りが見える彼と対峙していたのは、何を隠そう今から僕が会おうと考えていた恋人だった。


「拓文」


僕の登場で声が出なかったのは名前ではなく、望月の方だった。僕を見るなり彼の顔色はみるみる青くなり、背もたれに何もかもを預けて目線を下に落とした。


「名字さんが呼んだんですか」
「うん」
「……ほんまに戻ったんですね、記憶」


名前の眼光は静かに空気を切り裂いて、確実に彼の気力にダメージを与えている。僕が来る前に何を話していたのかは分からないが、彼の血の気のない表情と声色でだいぶ察しがついた。


「もういっかい伝えてもいいですか」
「答えは変わらへんよ」
「いいんです。九条さんも聞いといてください」


望月は僕に座るよう促し、名前の隣の空いている席に座った。彼女のオーラが僕の半身をびりびりと焼くようで、落ち着かない。
そんな僕に目もくれず、望月は分厚い辞書をひくかの如く一枚ずつ丁寧にページをめくるよう話し始めた。


「……僕、会社に入りたての4ヶ月、めちゃめちゃしんどかったんです」


静かな水面にしずくがぽつんと落ち、純粋に、残酷に、そして確実に波紋を作る。


「怒られへん日がなくて、遅くまで残業して、家に帰って晩ごはん食べる時間すら惜しくて、風呂入ってすぐ寝てました。眠りに落ちる瞬間思うことは、“明日も仕事や”ってことと、名字さんの励ましの言葉でした。ミスをした時も、取引先の方に迷惑かけた時も、朝会社に着くまでの道中で偶然お会いした時も、絶対名字さんから声をかけてくれました。最後には必ず“大丈夫、そのミスで相手は死なへんから”って締めくくってくれて、僕は名字さんにどれだけ助けられて、救われてたか。名字さんがおってくれたから、辞めずに今会社にいられるんです」


僕は望月から目を逸らせないでいた。だから名前がどんな顔をしてこの話を聞いていたかは分からない。
程よく空いた駅中のカフェは、三拍子のワルツと様々な雑音が混ざって僕の耳の中でカフェオレのように溶け合う。


「好きになるのに時間はかかりませんでした。彼氏がおるって言われても結婚するって言われても、なぜか名字さんのことだけは諦めきれませんでした。どんな汚いやり方を使ってでも、あなたを、僕だけのものにしたかった。助けられたぶん、僕も名字さんを、たすけたかった。名字さん、九条さん…… ほんとうに、申し訳ございませんでした」


望月は起立し、僕に向かって深々と頭を下げた。テーブルにぽつぽつと、2滴雨水が落ちた。
名前がブラックティーを喉に流し込んで、僕に声をかける。


「拓文からなんかある?」
「え?」
「彼と、会うん最後やと思うから」
「ああ……」


鼻をすする彼を見て気の毒に思ったのは確かだが、たかが2滴の涙で許せるような行為ではない。許せないのだが、僕の隣で彼と対峙する名前を見て、ほんの少しの違和感を抱いた。


「ないなら行こう。話はもう終わっとるから」
「え? あ、うん……」


終わりを告げる時は、一思いにすっぱりと。相手が私を恨んでも次に行きやすいようにするのが礼儀だと、記憶を失う前の彼女がよく言っていた。
振り返ることなく店を出た名前は、しばらく歩いて僕の名前を呼んだ。


「で、何か用?」
「え?」
「私に会いに来たんやろ? 私、もう拓文のこと振ったやんね」
「僕は諦めてへんよ」
「やめて。迷惑やねん」
「……振った僕のこと、利用してたやん」
「え?」
「僕のことなんかほんまは呼んでないくせに、望月に呼んだって嘘ついてたやん」


目を伏せ黙ってしまった名前を見て、胸が張り裂ける思いだった。
僕は本来の目的であるあのセリフを言うため、黒く濁った酸素を吸った。


「荷物」
「え?」
「名前の家にある荷物、ちょっとずつ持ち帰るわ。このまんまじゃ寒いし、一旦家戻ろう」







自宅までの距離がこんなに長く感じたのは初めてだった。会話はなかったが不思議と歩幅がきれいに合って、女性と歩くことに慣れているんだなと何の変哲もない街灯を見ながら思った。
エントランスをくぐり、エレベーターに乗り、自宅の鍵を開け玄関の照明をつける。


「どうぞ」


バタン、と地獄の門が閉まる音がした。
私が先に部屋に入りリビングに向かおうとするが、彼は靴を脱ぐ素振りも見せず立ち竦んでいる。声をかけようとしたその時、狭い玄関に力無くしゃがみこむ彼を見て私は驚きを隠せないでいた。


「な、に…… どうしたん……」


あんなに大きな彼が、膝を抱えてしまうとこんなにも小さく見える。予想もしていなかった出来事に、私の心臓はどくどくと大きな音を立てながら脈打つ。
彼の元まで駆け寄ると、弱々しい彼はうるんだ赤い目で私を見つめた。


「名前」
「何?」
「名前」
「何」
「名前」
「……何よ」
「たまごアレルギーの名前」


ぐす、と鼻をすする彼はそのきれいな手で光る粒をぬぐって、目を伏せたまま私の名前を繰り返し呼んだ。
たまごアレルギーの私。ワニとオオサンショウウオが好きな私。美術館が好きな私。
私の特徴がつらつらと羅列されてゆき、相槌を打つタイミングも図れないまま彼の声だけが時を進めていく。


「名前、知ってる?」
「何を?」
「僕の知ってる名前は、彼氏しか家にあげへんねん」


その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、酸素の濃度が急激に薄くなった。呼吸の方法も忘れてしまうほど、何もできないまま彼の目を見据えていた。


「名前は彼氏しか家にあげへん」
「…………」
「意味、伝わってるやろか」
「…………」
「僕のことをもう彼氏と思ってない名前は、たとえ荷物があるからあがらせてって言うたとて、絶対に断ってたはずやねん」
「…………それは、」


彼の喉仏が上下したのを確認して、手のひらから汗が湧き出る気がした。瞳が震える感覚があり、フローリングから足底を劈く冷たさは、肉や骨を凍らせてしまうほどの力を持っていた。
お願い、言わないで。


「記憶、戻ってへんのやろ?」


神様なんかいなくて、いたとしても私のことなんて何一つ応援していない。
拓文くん、そんな悲しい顔をしないで。あなたの心の平穏は、私がいないことで叶えられるんだよ。私にあなたの幸せを願わせて。
神様どうか、あなたの中から私の存在を消させてください。







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