名前は僕をソファに座らせ、2冊のノートを手渡した。


「読んでいいの?」


力無く首を縦に振った名前を見て、悪いことをしている気分になる。
ノートの表紙をめくる前に、待ち望んでいた声が僕の鼓膜を震わせた。


「お風呂に入ってきます」
「今?」
「私がおらん方が、きっといいと思うから」


名前は猫みたいに静かにリビングから消え、遠くでシャワーが床を打ちつける音が聞こえてきた。
古びたノートを開くと、僕がよく知る彼女の筆跡が、泣いたばかりの弱い男を迎えてくれた。







201X年1月5日
仕事始めしんど。しかもお正月明けで2キロ太ってた。ダイエットせなあかんけど、頑張れる理由がないよー。
神様〜私にモチベーションをください……


201X年1月15日
激務乗り越えた〜。気になってたお店に行くとめっちゃ小川くんに似てる人がおって、思い切って声をかけたらほんまに本物やった!!!!
昔好きだった人に会えるなんて、こんなチャンスを逃してたまるかと思い連絡先交換した。激務乗り越えたらこんなええこと待ってるなんて……
返事返ってきますように。


201X年1月16日
返事返ってきてとりあえず安心。彼女おらんこと確認済。絶対次に繋げられるようにしたいけど、どう誘ったらキモがられへんやろか……
もうちょっと前に会えてたら誕生日きっかけで誘えたのに〜〜〜〜
でもダイエットのモチベーションができた! 次会うまでに目指せマイナス5キロ!


201X年1月20日
決まりました。2月4日、まさかのお昼からデート。
美容院の予約もしたし、服買いに行って、食生活気をつけて肌管理せな。
ベストコンディションで小川くんに会えるように努力欠かさない! 私ならできる!


201X年2月5日
デートでした。アホほど楽しかった。今さらやけどちゃんとここに書いとく。私、小川くんのこと好き。
ライバル多いやろし、私のことなんかただの同級生としか見てへんの分かってるけど、頑張ってみたい。
おい待ってろ小川拓文! 絶対あんたを惚れさせたるからな!



「ふ、待ってろって」



201X年8月4日
只今1時35分。寝なあかんけど寝られへんから気持ちを落ち着かせるために書く。
今日はいつもみたいに小川くんと出かけて、夕方くらいに川沿い歩いてたら周りに人が誰もおらんことに気付いて、言うてもうた。「好きです」「小川くんを幸せにしたい」って、なんも考えず。
言うた直後にカラスに鳴かれてほんま空気読んで欲しかったけど、小川くんは笑って私の気持ちを受け止めてくれた。
「僕を幸せにして」やってさ。
する、必ず! 私、小川くんを幸せにするまでは死なへんから!
どうしよう、幸せすぎる。明日になって嘘でしたとか言わんでな。
うわ、私ほんまに小川くんの彼女になったんや。もう今日は寝なくていいや。


201X年12月20日
世間のクリスマスムードについていけないでいる。M-1終わって、年始まで仕事漬けなんやろなあ。
我慢せな。私は芸人の恋人なんやから。今できること考えて、自分磨かな誰かにかっさらわれる。愚痴はここに書いてればいーよ。


202X年1月2日
年末年始からずっと仕事。体壊さへんか心配やなあ。拓文とのこと、誰にも言うてないから自分ひとりで解決せなあかんのもかなりしんどい。
人気者と付き合うのってつらいこと多いなあ。私は九条ジョーと付き合ってんのやなくて、小川拓文と付き合ってんのに。


202X年1月7日
久しぶりに拓文に会えて初詣行けた。行けると思ってなかったからほんまに嬉しい。
おみくじ大吉やって幸先ええやん思った瞬間、焼き鳥一口食べて全部落としてもうた。道路に落ちた焼き鳥拾ってたら拓文が爆笑してた。食べられへんかったのはショックやけど、元気そうで良かった。


202X年1月30日
2月の真ん中あたりに1週間休みができたらしい。京都旅行の計画立ててくれてた。
「いつも寂しい思いさせてごめん」って言うてくれて、私が口に出さんくても分かってくれてるんやなと思って感動した。
これモチベーションにして仕事がんばろ。


202X年2月9日
拓文を駅まで迎えに行ったあと、ちょっと遠回りしてビール飲みながら帰った。職業柄なんか分からんけど、私にカメラ向けること多い気がする。ただビール飲んでるだけやからなんもおもろいことできん。
拓文は22時から先輩に呼ばれて飲み行ってもうた。撮りためてたドラマ観よ。


202X年3月12日
タモの結婚式! 家族より先に泣いてしまった。
ナカちゃん、ミズノ、サクめっちゃ久しぶりやった〜 大学卒業ぶり?
二次会終わって駅着いたら拓文いてて、心臓飛び出るかと思った。みんなにバレんくてよかった……
ドレス姿見たかったから来たって言うてたけど、写真見せるし家戻るまで待ってて欲しかった。芸能人としての危機感持ってくれ〜
でも引き出物重かったからちょっと助かったのは内緒。



「なつかし。あったなあ」



202X年3月5日
あかん、今回の生理えげつない。情緒の不安定さが過去最低レベル。拓文が地方行ってるから喧嘩にはならへんけど、変な想像ばっかして毎日泣いてる。
拓文に会うまでは元気な私でおらんと。


202X年5月12日
今日初めて人事の新卒の子と喋った。死にそうな顔してたなあ……
「人事課長のコウバラさんやりづらいよね〜私めっちゃ嫌い」て言うたら少しだけ笑ってた。上手くやっていけたらいいけど。


202X年6月1日
最近望月くんと社食でよく会う。話してるとこ見てたタカハシに「好かれてるんちゃう?」って言われたけど、もしかしたらそんな感じもあるかもしれん。
まあ彼氏おることも結婚することも言うてるし、メッセージしつこかったらきっぱり言うたらええか。


202X年1月26日
とりあえず落ち着く。
何の考えもなしにプロポーズした私が悪い。拓文の仕事とか考えへんかった私が悪い。
……悪い?
待って、悪くはないよ。私の結婚したい気持ちが悪なわけない。ただ、タイミングが悪かっただけ。
だから、泣くな。いや、いいや、泣いても。ただし1週間まで。そして、拓文の前以外で。







「拓文くん」


振り返ると、生命力なんてかけらもない僕の彼女がいて、僕の目を見た後にノートに視線を移し、ごくんと喉を鳴らした。


「席外そうか?」
「いや、大丈夫」
「ノート、持って帰ってくれていいよ」
「うん」


僕が立ち上がると自然と名前の目線が上がって、髪の毛から水滴がパタパタっと2粒落ちフローリングを濡らした。
僕が両手を広げた時、名前の唇は酸素を求めるように薄く開いた。手のひらが湿った髪の毛を包んだ時、知ることのできない彼女の事故現場が脳の中を駆け巡って、僕は半分もたれかかるように強く抱きしめた。


「つめたかった?」
「え?」
「痛かった?」
「……拓文くん?」
「ごめん」
「拓文くん」
「ごめんな、名前、」


あの日、地方の仕事が入らなければ。
あの日、雨が降らなければ。
あの日、ランチの約束なんかしてなければ。
携帯操作に夢中で赤信号に気付かなかった軽トラさえいなければ。
記憶がなくならなければ。
恋人と名乗る男が登場しなければ。
僕が芸人じゃなければ。
名前が僕のことなんて好きじゃなければ。
僕が名前のことなんて好きじゃなければ。


「僕があの時、名前と結婚していれば……」


袖口が髪の毛の水分を吸って、僕の筋肉の動きを止める。
分かっている。僕が100のたらればを口に出したとて、名前の現状は変わらない。名前の記憶は戻らない。
古びた日記は、記憶がなくなった名前を昔の名前にそれっぽく形成する鍵にはなったのかもしれない。それもこれも、名前が僕を思って取った行動だ。
僕はもう、とっくの昔に限界を迎えていたのだ。


「拓文くん」


涙の海でゆがんでしまった名前が、僕の冷えた唇をあたためるように重ねた。
酸素が渡った僕の体は桃色を帯び、視界が晴れてゆく。


「もうこれ以上、拓文くんのそんな顔見たくない」


そんな顔をしながら、そんなことを言わないでよ。僕は名前と一緒にいられるなら、いくら傷ついたって構わないんだ。
ほんとうだよ。嘘じゃないよ。


「日記を読んで、過去の私になってみて分かったの。拓文くんが幸せになる方法」
「そんなん、僕が一番分かってる」
「それは思い違いだよ」
「なんで。僕のことは、僕が一番分かってる。僕の幸せは、名前とずっと一緒におることや。それ以外の一番なんかない。記憶がなくなったって、名前は名前や。その真実は変わらへん。僕はこれからも、名前と、いっしょに、」


呼吸が、上手くできない。言葉が濁流のように僕の唇を滑っていく。
きれいなものも汚いものもきちんと排出されず喉の奥で堰き止められ、僕の息の根を止めようとしている。
君の、名前の何かが欲しい。僕を本能的に生かすことができる、名前の一部が。
何か言ってくれ。そうじゃないと僕は、
……僕は、


「拓文くんは、そう思おうとしているだけ。自分で自分を洗脳してるんよ。“僕には名前が必要”って」


なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
なんで、ぼくはそのことばをきいて、すこしあんしんしたんだ。こきゅうがらくになったんだ。すくわれたとかんじたんだ。かのじょは、ぼくのいちばんだいじなひとなのに。かのじょがいないじんせいを、いっしゅんでもおもいえがいてしまうなんて。
ぼくは、さいていだ。


「ありがとう、拓文くん。もうがんばらなくていいよ」
「ちがう、ぼくは、ぼくが、名前を、名前のことを…… あ、ああ、ああちがう、ちがうねん、名前、名前……」


いきることは、こんなにもくるしいことだったのだろうか。
すって、はく、すって、もういちどはく。そのくりかえしは、いまのぼくにはいみがありすぎた。
せなかから名前のたいおんがつたわってくる。じょうげにうごくそれは、たえずぼくのなかのたいえきをそとにほうしゅつするてだすけをする。
からっぽになったぼくは、きえゆくいしきのなかでたしかにきいた。


「私、拓文くんを幸せにしたい」


確かに、名前の声で聞いたのだ。
純度200%の愛が含まれた、世界で一番悲しい「さようなら」を。







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