「すみません、わざわざ来ていただいて」
「いえ、いいんです」
「では、お返事をお聞かせいただけますか?」
「……はい、ぜひよろしくお願いします」


相手の安堵した表情に、私も少し胸が下りた感覚がした。
テーブルに紙とペンを置かれ、手に取ろうとした瞬間名前を呼ばれた。


「名字さん、本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「快く承諾してくれて感謝しています。不安なことや心配なことがあったらすぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます」


私は主治医のそのあたたかい言葉を飲み込み、治験参加承諾書にサインをした。
明るい未来が見えるわけではない。ただ、暗いトンネルの中で足踏みをするだけの自分を変えたかった。
やらなければならないことがあると、悲しいことも忘れられるはずだから。


「約三年間の定期通院、一緒にがんばりましょうね」
「はい、よろしくお願いします」


新薬の効能を試す投与試験の話をもらったのは、自宅で日記を見つけた少し後だった。
開発された薬の安全性と有効性を確かめるべく、投薬データを人の体を使って収集する。
今の私ができる、唯一の社会貢献だと思った。


「あら名字さん、久しぶり」
「お久しぶりです」
「……なんか、目赤い?」
「昨日夜ふかししたからかな?」


彼と、拓文くんとはあれ以来会っていない。ほぼ毎日交わしていたメッセージも、屍人のように何も言わなくなった。
この一ヶ月、ベッドに入ると同時に涙が止まらなくなるようになり、眠ることが怖くなった。
眠ると必ずあの人が私の隣にいて、「幸せだ」と言うくせに悲しい横顔を見せるから。


「治験、受けることにしたのね」
「はい」
「名字さんの事前検診の結果がかなり良好やったんで、先生が“是非受けていただきたい!”って前のめりになってたんよ。喜んでたでしょ」
「どうやろ、先生ポーカーフェイスやから分かんなかった」


運動、食事制限、毎日の日誌記録、二週間に一回の通院が求められるこの治験は、事故に遭う前の記憶が戻るというものではない。
その可能性は極めて少ないが、未来の記憶は健常の人と同じレベルで留められるかもしれない。
その説明を聞いた時、私が思い浮かべた未来には彼がいた。


「気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます」


しかし、その未来は薄っぺらいカーテンを引くみたいに乱暴に閉ざした。
私が本当に望む未来。それは、記憶の蓄積。
記憶が蓄積されることで、過去の拓文くんとの思い出は薄くなり、いずれ消失するはず。そうすれば私が苦しむことも、拓文くんを苦しませることもなくなる。


「幸せにしたい、か」


記憶をなくした前も後も、私は私なんだと実感するのがこの言葉の重みを感じる時だ。 私は自分より、自分以上に好きな人の幸せを願っていた。過去も今も、そして未来も。
彼から便りがないことは、私が切望する彼の幸せと比例する。だから、現状はとてもうまくいっているのだ。
こんなうららかな春の兆しの中、外で声を上げて泣けてしまうほどに。







コウテイ解散。
このニュースがお笑い界隈を震撼させた同時期、僕は肉体的にも精神的にも経験したことのない絶望的な状態に陥っていた。
周囲の人間は解散が原因でやつれてしまったのだと疑わなかったが、その心労より、僕の幸せを願って身を引いた彼女の濡れた髪の方が、よっぽど僕の血色を削ぐものだった。


「九条」
「はい」
「……大丈夫か?」
「大丈夫です」


この業界にいるとどこかのコンビがくっついた別れたなんてよく耳にする話だから、ウチが解散したところでそんなに騒がれないだろうとたかをくくっていた。


「そらABC優勝するレベルのコンビが解散するってなったら話は別やろ」


世間の評価と僕の自負では乖離があったみたいで、気を遣って話を逸らしたり、逆にずけずけと明るく振る舞われたり、それらに対応することに必死だった。
僕のためを思って開かれた飲み会に行かないわけにもいかず、酒とたばこと女の量が自ずと増えた。


「やっぱ九条が来るって言うと女の食いつきが全然ちゃうわ」
「そっすか」
「どれ持って帰る?」
「んーーーー…………」


人は、没落するとここまで脳が働かなくなるのか。
一番好きな人との結婚を断った最低の僕だが、断ったからこそ他の女性と遊ぶなんて考えもしなかった。
名前に胸を張ってあの言葉を返せるように、一人前になれるように必死だったから遊んでいる暇なんてなかった。
そんな僕が、このザマだ。情けない。


「あたし、九条さんの気持ち分かるんです」
「なんで?」
「あたしも最近、相方さんと同じくらい大事な人と別れちゃったから」
「そうなんや、彼氏?」
「んー、そんなとこ!」


明確に合わない場合は、セフレが不倫相手だろう。それか、何の意味もなさない駆け引きの言葉か。


「だから今日は慰め合いましょ」
「そうやなあ、どうしようかなあ……」
「もっと言うと、ね」


女の薄い手のひらが、僕のたばこくさい指を撫でる。気味が悪い。


「あたしがこれからの九条さんをずっと支えたいな、なんて」


反射的に女の手を跳ね除け、僕は立ち上がったまま動けないでいた。
僕も驚いていたが当然周りの人間は僕以上に驚いていて、その視線に屈することもせず、先輩に金を多めに渡し店を後にした。
向かう宛などない。夜の繁華街をひたすら、脳に酸素を送るようにただひたすら歩いた。
…………支える? お前が? 僕を?


「なめんなよ、クソビッチが」


怒りと、罪悪感。
今僕が体内から産生し排出しているのは、この二つだけだった。
記憶をなくした恋人と同じ姿形をした、他人同然の名前といることは正直つらかった。
小さな希望を抱いて過去の写真や動画、思い出の場所に一緒に行ったが、記憶が戻る兆しは見えなかった。


「お兄さん、イイコいますよ、どうですか?」
「いい、要らん」


無理に笑うことも、落胆することも、真実を言えば名前に苛立つことさえあった。
その事実に、僕は自分の喉を強く掻き切ってしまいたくなるほどの自責の念に駆られた。
いや、その事実以上に僕の希死念慮を動かすものがある。それは、そんな醜い感情を持った僕に気付いても尚、僕を気遣う名前の優しさだった。


「九条さんをずっと支えたいな」


さっきの甘ったるいセリフが、頭の中で何度も流れる。
僕は反射的にこの言葉を聞いて怒りの神経回路が放電した。なぜなのかと自分に問うてみたら、動かしていた脚が徐々に遅くなり、ついには電信柱の影に弱々しくへたりこんでしまった。


「お兄さん酔ってる? 大丈夫?」


言葉だけを耳で受け取って、返事はしなかった。足音は、遠のいていく。
僕がここまで落ちぶれてしまった理由、それは、支えたいと思う彼女がいなくなったから。
僕は、名前を支えることで自分を支えていた。彼女が僕の前からいなくなるということは、生きるうえでの支えがなくなったということだ。


「拓文くん」


堕落した僕が思い出す名前は、決まって記憶がなくなった後の呼び方をする名前だ。
他人が聞いたら笑ってしまうほど、僕たちは愛することが下手だ。
だって僕たちは互いのことを一番大切に思っているのに、二人で手を取り合うのではなく、互いを思って一人になった。
最低ついでに、この際言ってしまおうか。


「名前…… 記憶がなくなる前の名前は、今の僕になんて言うてくれる?」









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