25日は雨が降った。
この時期にしてはなかなかの雨量で、起きて早々自宅で髪型に困っている名前の顔が目に浮かんだ。
僕は行ってきますのメッセージを送ることなく、会社が用意した車に乗り込み駅を目指した。
お昼前に名前から「雨えぐい」と動画が送られてきていて、サイレントで確認する。


“そっちやばいな、こっちは快晴やで”


全く思い入れのない土地の青空を、映り込んでしまったモブ芸人たちを添えて名前に送る。こういうやり取りは大体どちらかが返すと、既読がついて終わりになる。
下田の秘密主義には驚かされたが、僕も負けじと彼女との関係を誰にも漏らしていない。名前の気遣いのおかげで携帯を触る時間は他の芸人に比べて少ないこともあり、たぶん誰にもばれていないはずだ。


「大阪今めっちゃ雨らしいで」
「ほんますか。帰る頃の夜にはさすがに止んでますよね」
「たぶんな。新幹線止まったら敵わんし、早よ止んでほしいわ」


仕事開始から3時間が経った。
先輩芸人から何気なく伝えられたその情報は特に僕の胸を揺さぶるようなものではなく、1日目の仕事が終わるまで至極フラットに仕事に取り組めた。
ホテルに向かうまでの移動時間に少しだけ眠って、部屋に着くと同時に動画を撮る。今回はわりと当たりのホテルで、部屋の内装や数、窓からの景色などが分かる動画を送ると名前は喜ぶので、初めて行った土地では動画を撮って送ることが日課になっていた。


「あれ?」


違和感を覚えたのは、メッセージ画面を開いてすぐだった。
こっちに着いてすぐ送った写真と、僕の味気ない文章の横にいつも付いているあのマークが見当たらない。メッセージが返ってこないにしろ、その日のうちに既読マークが付かないなんてことは今までになかった。
すみちゃんと盛り上がって夜までコースになったのか、仕事が立て込んでいるのか、いろんなことを思い巡らせたが、今日の疲れが全身を蝕んだ。
とりあえずテレビをつけて、静寂を散らす。


「西日本では局地的に大雨となり、荒れた天気となりました。この雨は週末頃まで続くおそれがあります。大雨で地盤が緩んでいる所や河川が増水している所があるため、土砂災害や氾濫など厳重な警戒が必要です」


テレビに日本地図が大きく映っていて、どうやら僕が住んでいる大阪は赤い色の雲が飛んでいるみたいだった。
もしかしたら電車が動いてなくて帰れていないのかもしれない。
部屋の動画を送った後に、メッセージを送る。


“雨すごそうやけど大丈夫?”


僕が心配したところで彼女を迎えに行くことはできないのだけれど、疲労回復アイテムは名前が送ってくるメッセージということを僕は知っている。自分勝手な僕は、彼女からの反応を待った。
風呂に入って、髪を乾かして、弁当を食べて、歯を磨いて、携帯を充電して、眠りにつく直前まで彼女とのメッセージ画面を見ていたが、結局次の日の朝になっても既読マークが付くことはなかった。





「おざます」
「おう。……お前昨日夜ふかしした?」
「え、してないっすよ」
「まあ、あんまやいやい言いたないけど、大事な時期なんやから遊ぶの大概にしてくれな」
「遊んでないですって、ほんまに」


他人から指摘されるほど僕の顔はやつれていたみたいだった。たった1日既読が付かない程度でこうなってしまうなんて、大人として情けない。名前に言ったら、声を出して笑われそうだ。
心が乱れると僕は行動に出るみたいで、昨日と比べると落ち着きがなく、話しかけても返事は上の空で、何より携帯を見る頻度が比べ物にならないくらい上がったらしく、昨日遊んだ女の子はどんな子だったんだ、そんなによかったのかと四方八方から問いつめられた。
笑って返すも楽しい気分にはなれず、不安は心臓から生まれ血管を巡って、全身に運ばれた。


「おーし、全員揃ったし行こか」


時間が経つのが早く感じて、気付いたら仕事は終わって帰りの車の前だった。
新幹線の座席に座っているときも心ここに在らずで、流れていく景色だけをただ見送っていた。
それでも名前が喜びそうなご当地ビールをおみやげに買うことだけは忘れておらず、誇張でもなんでもなく、1秒でも早く彼女に会いたかった。


“今から行くよ”


見慣れた街が僕を迎えてくれ、少しだけ不安がやわらいだ。
お疲れ様です、が飛び交い合って、僕は誰にも見つからないように自宅とは真反対の名前の家に向かった。大きな荷物とこぢんまりとしたおみやげを抱えて。
一駅ひと駅の間がこんなにも長く感じたのは初めてで、名前のない焦燥感みたいなものが僕の周りだけを取り囲んでいた。
名前の家は駅から徒歩6分。その時間を削りたくて自慢の長い脚を駆使して、早歩きをした。


「……なんで出えへんねん」


駅に着いた瞬間に電話をかけてみたが、どんなに長くコールしても名前は出なかった。
あの角を曲がると、彼女の家が見える。そこから見える飴色の窓明かりが僕は好きだった。


「え……?」


5階の、右から3番目に光るところが名前の部屋だ。
見上げると、マンションにはそこだけ穴が空いたようにぽかんと落ち窪んでいて、抑えていた騒めきが一気に放出した。
早歩きから駆け足になり、エレベーターが降りてくるちょっとの待ち時間ですらいらいらした。
彼女の部屋の鍵を取り出し、決して丁寧とは言えない手つきで扉を開けると、そこには冷えきった真っ暗な酸素が浮かぶ、気味の悪い墓場のような部屋が僕を迎えた。


「名前?」


電気をつけると廊下が暖色の明かりで染まり、残光で照らされるリビングルームには人影が見当たらない。
僕は部屋にあるすべての電気のスイッチを入れて、彼女の名前を呼んだ。
リビング、寝室、キッチン、書斎、トイレ、風呂場、ベランダさえも確認した。


「なに、どないしたんそんなおっきい声出して?」


前髪を上げ、よれたTシャツを着た彼女がそう言ってひょこっと出てくることを期待していたが、どれだけ探しても彼女は見つからなかった。
テーブルの上には朝飲んだのであろう薬のゴミと、シンクにはコーヒーカップのつけ置きが残されていた。
一定のリズム音で鳴り響くコール音が何度も何度も切れるまで彼女の声を待ったが、僕がどんなに切望しても名前の声が耳に届くことはなかった。









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