「やば、今何時やねん……」


見慣れた天井、どこに何があるかはっきり分かる室内、ふたつある歯ブラシ、畳まれた僕の下着、どこに目をやってもここは名前の家で、ここに一番なくてはならない彼女だけがいない。
朝の7時、メッセージ画面は相変わらず既読の文字が付かないままだった。寝ぼけた脳みそがこれを現実だと受け止めたくないみたいで、確認した後すぐに携帯をソファに投げた。


「……掃除しよかな」


名前がいつ帰って来てもいいように、帰って来た時一番に笑顔が見られるように、片すところがほぼない彼女の部屋を整えることにした。
まずはテーブルに転がっている薬のゴミに手をつけたその時、僕の冴えない頭が何かを叫んだ。


「もしかして、……」


理由なんてない。理屈もない。
ただ僕の中の彼女を求めるすべての細胞が泣き叫んでいた。こんな感覚になったのは初めてで、僕は彼女の主治医がいる総合病院に向かうことにした。
名前が飲んでいるのは婦人科系の薬で、病状は重くはないが投薬治療をしなければいけない病気に罹っていた。
病院に行くとなると、あまり目立つ格好はして行かない方がいい。金色の髪を帽子で隠し、眼鏡と、白と黒のカラーレスの服装でタクシーに乗った。
ここの病院に来るのは初めてで普段の僕なら緊張したかもしれないが、今はそんな感情すら失くしていた。


「あの、名字名前さんいてますか」
「お待ちください。 ……恐れ入りますが、その方の生年月日をお伺いしてもよろしいですか」


彼女の生年月日を伝えると、受付の女性がうんうんと頷いた。その無音のジェスチャーに、僕は膝をついて泣いてしまいたいくらいだった。彼女はここにいるんだ。
面会票を記入し、面会証を首にかけて伝えられた病室まで向かう。目に刺さるほどの痛々しい白で造られた清潔すぎる病室がずらりと並ぶ様子は、ついさっきの歓喜をかき消してしまうようだった。
315号室の前に着くと確かに彼女の名前が書いてあって、震える暇もなく僕はドアに手をかけていた。


「名前!」


白いベッドにはメイクを落とした名前がいて、普段読まないような雑誌を手に持って僕の情けない声に驚いていた。
近づくにつれ、頭や腕に包帯が巻かれていたり手の甲に擦り傷があったりして、僕の胸にまた暗雲が立ち込め始めた。


「何これ、どないしたん?」
「ああえっと、交通事故に遭ったみたいで……」
「事故!?」


病室のテーブルには名前がいつもお出かけ用に使っているバッグが置かれてあって、傍には粉々になったスマホが保存袋に入ってあった。
連絡がつかなかった理由は分かったが、聞きたいことが山ほどある。名前に向き合って椅子に座ると、ノック音が鳴ってドアが開いた。


「名前、調子どう?」
「あら、お客様がいらっしゃる」


僕はこの人を知っている。名前のスマホで何度も見た、彼女のお母さん。
反射的に背筋が伸び、帽子を取る。僕の金色の髪の毛を見て、お母さんの横の男性が目を見開いた。
花瓶に生けてある花を持つ彼は、話に聞いていた弟だろうか。


「来てくれてありがとうね。名前の母です」
「小川です。いつもお話に聞いてます」
「ああ、そうなんやね。望月くん、知ってはる?」


名前を呼ばれて、心臓と喉が大きく跳ねた。
まず苗字で呼ばれている時点で家族でないことが分かって、さらにその苗字から放たれる不穏感も、ついこの間味わったあの感覚だった。


「小川さん初めまして。名前さんの恋人の望月と言います」


爽やかに挨拶する彼の右手、笑顔、服の裾、履いている靴、すべてが気持ち悪かった。
何も言わない名前に顔を向けると、不思議な顔をして僕達を見つめていた。
望月が上から下まで目線を動かすと、僕の視線を捕まえて片方の口元だけを上げた。これは僕しか気付いていなかったはずだ。


「望月さん、ちょっとお話しさせてもうてええですか」
「奇遇やなあ。僕も小川さんと話がしたかったんです。お母さん、ちょっと席外します。名前、ちょっと待っとって」


名前は彼の言葉に頷き、お母さんは笑顔を向けた。
廊下に出た瞬間、気に入らないそのシャツの胸ぐらを掴んでやろうとしたが、彼の右手に制された。
望月の右手はそのまま外の非常階段を指し、空を切った僕の左手は怒りだけを掌でつぶして扉をくぐった。


「おまえどういうつもりやねん」
「や、待って待って」
「名前に気色悪いメッセージ送ってた奴やろ。どういうつもりやて聞いてんねん」
「ちょっと、一旦落ち着いてくださいよ」
「やかましいわボケ。名前の彼氏は俺や」
「……僕もちょっと言いたいことあるんですけど、いいですか」


シャツを掴む拳に力が入る。
奥歯で笑いを堪えるこいつの頬を殴ってしまうことは簡単だったが、今はその感情を手懐けなければ。


「九条やんな、コウテイの」
「ああ?」
「彼氏おるとは聞いとったけど、名字さん芸人と付き合ってたんや、ははっ」


喉でくつくつと笑っていた望月は、いよいよ声に出して笑い始めた。血管が切れそうだったが、こいつが名前の彼氏のふりをしていることは明らかになった。
油断した僕の掌を振り払って、またあの蛇のような視線で僕の全身を舐め回した。


「僕から伝えられるんもあれかと思うんですけど、言うときますね。名字さんは、記憶障害になってます」
「……は?」
「ざっくり言うと、事故の恐怖と衝撃から自分を守るために記憶を消したんやと医者が言うてました」
「なんやねんそれ、そんなこと、」
「そうですよね、驚かれますよねこんなん。僕も驚きました」
「それでなんでお前が名前の彼氏になってんねん。記憶なくなったからってなんでそうなんねん!」
「……九条さん僕ね、1回好きになったら諦めるのに時間かかるんですよ」
「は、何を言うて、」


名字さんてそもそもかわいいでしょ。もうね、僕のドンピシャ。めっちゃ好きなタイプなんです。それでいて性格さっぱりしてて、頼りがいがあって、なのに守ってあげたくなるような儚さがあって、僕の目に映る彼女はそんな女性なんですよね。僕、絶対彼氏になりたくて、入社してわりとすぐに告白したんですよ。したらもう彼氏がおって、悲しかったですけどまあこんなきれいな人やったら彼氏おるんが当たり前やなと思ったんです。それでもその彼氏より僕がええ男やったら、振り向いてくれるかもしれないでしょ。それからずーっと、アホなふりして名字さんにアプローチしてたんです。彼氏と結婚すんねんて言われても何ヶ月経っても指輪ひとつ付けてけえへんし、意外といけるかも、と思ってた瞬間、こんな悲しいことが起きて。ほんま残念です。名字さんが記憶障害になったて聞いた時は、心臓が止まりそうになりました。話ちょっと変わるんですけど、僕昔から地頭がいいって言われるんです。その自慢の地頭がね、今回役に立ったわけです。


「記憶なくなった名字さんの彼氏のふりして、ほんまに彼氏になったろうって思ったんです」


何を言っているのか分からなかった。
頭いいでしょ?、と無垢な笑顔で、傷だらけの名前を見てそんなことしか考えられないこの男が、どうしても恐ろしかった。
言葉を失う僕に、望月は続ける。


「日跨いでも本物の彼氏がけえへんから、彼氏って嘘やったんかなとも疑ったんですよ。周りの人間、彼氏の存在だあれも知らんかったみたいなんで。1週間経ってやっとお出まししたと思ったら、芸能人来てはるやないですかあ。うっわ僕ラッキーやなと思いましてね、」
「黙れ」


僕を見上げる彼は、僕の手によってコンクリートの冷たい壁に自身の背骨が潰されていることすら楽しんでいるようだった。


「忙しいんですね、芸人て。まあその忙しさのおかげで、僕は名字さんにもお母さんにも自分を売ることができたんで、九条さんには感謝してます」
「こんなんいつかばれるに決まっとる。お前がやっとることなんか、」
「付き合ってること、誰にも言うてないんでしょ?」


東の空には墨色の雲が漂っている。細い電気のヒビが空に亀裂を作り、唸る。


「名字さん、ほんまに従順ですね。九条さんが言わんといて欲しいって言うたんでしょう」
「…………」
「九条さんの言う通り、記憶が戻ったりばれてもうたら僕の作戦はおじゃんです。それはそれとして、もし戻らずにこのままやったとしたら。僕は何事もなく名字さんの彼氏のままでおれるんです。分かりますよね、九条さん」


爆発に近い雷が鳴り響いて、粒の大きな雨がわっと降り始めた。彼女はこんな激しい雨に打たれて冷えた道路に倒れていたのだと思うと、体の震えが止まらなかった。
しゃがみ込んだ僕の肩に、ぬめった手が置かれた。


「あんたには一生他人でおってもらう。俺の幸せのために」


ああこいつも、感情が昂ったら一人称が変わるタイプなのか。
非常階段のドアの開く音、閉まる音、名前の記憶が消えてしまったこと、この世の全てが嘘であって欲しいと願った。










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