「こちらに仰向けになってください」
「楽にしててくださいね」


ゆったりした診察着に着替え、清潔でぴかぴかの院内をあちこち曲がってたどり着いた脳神経外科の検査室。脳の輪切りの写真を撮ります、とだけ伝えられ大きな機械に吸い込まれる。
賢い大人たちが私のすけすけの脳の写真を見て、顎に手を当てたり腕を組んだりして難しい顔をしていた。
なんだか、悪いことをしている気になる。


「今日はいろんな人がお見舞いに来られましたね」
「そうですね」
「今朝の金髪の人」
「はい。えっと、お名前なんでしたっけ……」
「あの人ね、芸能人ですよ」
「えっ?」
「芸人のね、コウテイってコンビの九条さん。病室入ったらいててびっくりしましたよー」
「へえ、そうなんですか……」


検査が終わって病室に戻る際のエレベーターで看護師さんが笑顔で話していて、人気の芸能人なんだろうな、と予測したが、使えない私の記憶をフル回転させても不可解なことがあった。
私はどうやって、そんな芸能人さんなんかと知り合いになれたのだろう。
部屋に戻ってまだいらっしゃったら、お話を聞いてみよう。


「あ」
「おかえり」


病室には九条さんだけがいて、望月さんも母も仕事に戻ったと言っていた。九条さんは今日の仕事は夜からみたいで、触っていたスマホをポケットにつっこんで私から目を離さなかった。
看護師さんは「疲れたでしょ、ゆっくり休んでてね」と言葉をかけ、部屋には私と九条さんだけになった。


「体調どう?」
「はい、平気です。ありがとうございます」
「、そう。よかった」
「……九条さん、は、芸人さんなんですか?」
「え、なんでそれ……」
「さっき看護師さんから聞いて」
「ああ、そういうことね」


表情が明るくなったと思った瞬間、私の一言できれいな顔に翳りが見えた。ちくっとした痛みが胸に走る。
芸人とは思えないほど整った顔と羨ましいスタイルを持っていて、モデルと言われても信じてしまうほどだった。
私が声をかけると、翳った表情を携えつつも少し嬉しそうな声で私に相槌を打つ。


「私と九条さんって、どうやって知り合ったんですか?」
「僕と名前はね、高校の同級生やったんよ」
「そうなんですか」
「そう。当時はそんなに仲良くなくて、なんなら1回も喋ったことなかったんちゃうかな」
「へー、なのに今はこんなに仲良しなんですね。何かきっかけがあったんですか?」
「卒業してかなり経った後にたまたま行ったお店にお互い1人で飲みに来ててね、名前が僕に気付いてくれたん」
「じゃあそこからお友達になったんですね」
「……うん、間違いではないなあ」


あ、またまつ毛を伏せた。どの発言が彼の気持ちに陰を落としたのだろう。
私も彼と同じような顔をしていたのだろう。九条さんは私の手を取り、そんな顔しんといて、と泣きそうな笑顔で呟いた。


「さっきの、望月くんやっけ」
「はい」
「あの人のことは覚えてんの?」
「いえ、全く。でも彼曰く、彼と私は恋人やって言っていました」
「何か納得できるような、証拠みたいなものがあったん?」
「私の知らない私の情報はたくさん持ってました。私の好きな芸能人とか、キャラクターとか、よく行くお店とか……」
「そっか。名前の携帯壊れてたんやっけね」
「はい」
「僕も名前と仲良しやから、名前の記憶が戻るお手伝いしたいねん」


そう言って九条さんは私が帰ってくるまでいじっていたスマホを無造作に取り出す。画面が明るくなると、車内で手をつないでいる写真と今の時刻が映し出された。
写真がずらりと並んだページを上から辿っていくと、そこには私の知らない私がたくさん収められていた。


「私がいっぱい……」
「僕たち、誰よりも仲良しやから」
「これ動画ですか?」
「うん、見る?」


再生された私は黄色いマフラーをつけて、鼻を赤くして歩きながらビールを飲んでいた。カメラを回している人にしきりに話しかけて、その人も楽しそうに私と喋っている。



「拓文も動画ええから飲みいよ」
「飲むよ」
「ずっと撮ってるやん」
「酔っぱらいとの思い出撮ってんねん」
「要らんことせんといてっ」



私は手でカメラを暗くして、2人の笑い声とノイズが響いて動画は終わった。
残念ながら思い出すことは何ひとつなかったが、動画を見て分かったことがひとつある。


「これを撮ってたのは、九条さん?」
「うん」
「九条さんの下のお名前は、たくやさんて言うんですね」
「うん、九条は芸名やから、ほんまは小川拓文て言うねん」
「あ、そういえばさっき小川って……」
「そう。よかった、ちょっとでも覚えてくれてて」


九条さんの声色から伺える緊迫感が少し弛んだ気がした。
私が何かを覚えていると、九条さんは安堵する。
九条さんのフォルダには私の写真がたくさんあって、それぞれに思い出を交えながら語ってくれた。


「ここの動物園、めちゃめちゃ空いててほぼ貸切状態やってん。この日猛暑日やったからみんな出歩いてへんかったんやろけど」
「これは京都行った時ので、外国人観光客に写真撮ってあげてる名前を僕が撮ったやつ」
「これは名前が友達の結婚式に行った後駅に迎えに行った時の。どうしてもドレス見たくて勝手に迎えに行ってちょっと怒られた」
「これは初詣行っておみくじで大吉引いた時の名前。帰りに焼き鳥買ってんけど一口食べて残り全部落としてん」
「これは温泉行った時、部屋風呂にテンション上がってる名前で」
「これは昼寝してる時の名前で、」
「あの、九条さん」


私の制止のせいで、九条さんは言葉を紡ぐのを止めてしまった。でも、それで良かったかもしれない。私が止めなければ、九条さんは帰る時間が来るまで喋っていたはずだから。そう思わせるほど、私の話をする時の九条さんは時間を忘れて懐かしんでいた。
まるで、恋人かのように。






彼女は僕を当たり前のように九条さんと呼ぶ。
「九条」になる前からお互いを知っていたが、そんなもの最初から夢でしたと言われているようだった。この真っ白な部屋に。薬品のにおいに。かたいベッドに。やわらかいカーペットに。薄っぺらいスリッパに。
誰でもいいから、この状況を否定してほしかった。


「聞きたかったことがあってん」
「はい」
「からだ、大丈夫?」
「え?」
「大丈夫なわけないことは分かってんけど、怪我とか、こころとか、大丈夫やったかなって」
「はい…… 大丈夫やと思います」


何言ってるんだろうこの人。そんな目をしていた。
大丈夫なわけない。
僕は弱いから、彼女の口から彼女の声で「大丈夫」と言って欲しかっただけなのだ。不本意でも僕が僕で保っていられるのは、形ばかりの空っぽのこの言葉しかないとどこかで感じていた。


「僕に何かできることがあるんやったら、ぜんぶするから」
「ありがとうございます」
「名前」
「はい」
「ありがとう、生きとってくれて」


情けない。こんな声じゃあ、人を笑わせるどころか後ろの席にすら声が届かない。
仕事の時間が差し迫るのと同時に、名前の食事と検査の時間がやってきた。僕はメモ用紙に名前と電話番号を書いて彼女に渡した。当たり障りのない笑顔から発せられるありがとうございますを受け取り、僕は劇場に向かった。
涙を隠す余裕は、今の僕にはまだない。










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