記憶の外にある本当の私はきれい好きだったみたいで、整理整頓が行き届いた清潔な部屋が他人の私を迎えてくれた。お邪魔します、と心の中でつぶやき、荷物を下ろす。
病院以外の場所で過ごすのは、2ヶ月ぶりだ。
静まり返った室内にはところどころ目に留まる箇所があった。食器棚に陳列されたふたつのコップやお茶碗、洗面所にある並んだ歯ブラシ、そういえばスリッパは玄関に二足並んで置いてあった。
これは一体、“どっち”の物なんだろう。


「……なんにも懐かしくないな」


母(と呼んでいる人)に疲れたからひとりでいたい旨を伝えると、心配されながらも私の願いを受け入れてくれた。
冷たいベッドにもぐりこみ、目を閉じて深呼吸する。私が暗闇の中で一番に思い出す人は、誰なんだろう。
深く息を吸った瞬間、新品のスマホから着信音が鳴った。見覚えなんてあるはずもない数字の羅列に心臓は波打ち、教えてもらった方法で電話に出る。


「もしもし」
「あ、つながった。僕…… ああ、分からへんか。望月です。名前の恋人の」


電話の主は望月さんだった。
厚みのない真新しい記憶のページをめくったのに、彼の顔はぼんやりとしか浮かんで来ず架空の人物と喋っているみたいだった。
記憶障害のこともあり、とりあえず仕事の方は休職という形を取ることになった。
ひいてはその諸々の手続きを行うために私と会わなければならないと、望月さんは言った。


「時間ある?」
「えっと、今日は14時から用事があるんです」
「じゃあ今から行ってもええ?」
「……はい、大丈夫です」
「名前の好きなプリン買ってく。待っとって」
「はい」
「“はい”ばっかりやん」
「すみません」
「謝らんでええよ。あと敬語も後々なくしていこな。僕ら付き合ってんねんから」
「はい」
「また“はい”や」


……電話の切り方、いまいち分からない。






夢みたいだ。今から名字さんの家に行けるんだ。
パソコンに映る社員名簿の彼女の住所をメモして、地図アプリに読み込ませる。
彼氏なら恋人の家を知っているのは当然。いくら記憶をなくした名字さんでも、それくらいの常識は携えているはずだ。
僕が当たり前のように彼女の家に到着することで、ますます僕を恋人だと強く思うだろう。
記憶が蓄積される前に、記憶を思い返す前に、彼女の心をあいつから奪うんだ。


「こんにちは。どうぞ」


彼女の部屋は僕の想像通り、清潔でセンスが良く、行き届いていて、良い香りがする場所だった。
部屋をじろじろ見回さないように、彼女の顔に一点集中した。ああ、やっぱりめっちゃ好きな顔。
おみやげに持って行ったプリンを不思議そうに見つめて一口食べた後、見たことない表情をされた時にはどうにかなってしまいそうだった。


「元気そうでよかった」
「はい、わりと」
「あの人、九条さん。あれから何か連絡ある?」
「いえ、特には」
「特には? 何回かあったってこと?」
「や、ないです、1回も」
「……そう。なんか不誠実な人やね」
「そうですね」


名字さんは彼のことなど気にする様子もなくコーヒーを飲んで、僕の持ってきた書類をゆっくり一つひとつ記入した。
本来の用事が終わって濁った空気が流れ始め、不意に彼女の名前を呼んだ。
僕の言った通りに動く彼女に、僕の欲求はさらに昂っていることが分かった。
気がつくと僕は彼女の頬に触れようと手を伸ばしていて、それに勘付いた彼女は咄嗟に距離を取った。


「あ、すみません、つい……」
「大丈夫。ちょっと傷ついたけど」
「すみません……」
「次会った時は、前みたいに触らせてな」
「……あの、」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
「なんやの、変な名前」


僕が笑うと、彼女も口元を綻ばせる。
何十回と妄想したやり取りが誰にも邪魔されることなく続いていることが嬉しくて、14時ギリギリまで彼女の家に居座った。
玄関で見送られた笑顔を脳に焼き付けてエントランスに出ると、僕たちを引き離そうとする厄介者と出会った。


「こんにちは」
「……家まで知ってんのか、お前」
「初めて人事の仕事してて良かったと思いましたよ」
「失せろ」


14時からの用事は、本物の彼氏とだったらしい。
背が高くて顔が小さい。芸能人らしい整った顔立ちをしていて、まともに戦ったら僕なんて確実に選ばれるはずないよなあ。彼とすれ違う時、シンプルにそう思った。
でも僕は、勝ち目のない彼を前に犯罪紛いのやり方を使ってでも、名字さんを手に入れたいのだ。






「こんにちは」
「こんにちは」
「……えっ、と」
「体調どう?」
「はい、大丈夫です」
「嘘つけ。疲れてるやろ」


望月さんにはああ言うしかなかったけど、九条さんとのやり取りは毎日の日課になっていた。
昔の私の写真と思い出を毎日ひとつずつ送ってくれていて、このおかげで私がどんな人間だったのか少しクリアになっていっている。
玄関に立ったままの九条さんが私とは別のところにピントを合わせたと思ったら、彼の顔がみるみる青白くなっていった。


「名前」
「はい」
「プリン食べた?」
「? ……はい」


テーブルに乗ってあるプリンの瓶を見るなり、きれいな顔の血という血が引いていってしまっているのが分かった。
訳がわからないまま九条さんを見つめていると、表情とは真逆の手つきで私の手を取った。


「なんもない?」
「え?」
「赤くはなってないな…… どっかかゆいとかない?」
「あ、そういえばさっきからちょっと喉が……」
「食べたの1個だけ?」
「はい」
「すぐ水飲んで」


あがっていい?、と私に尋ね、頷くとすぐにシンク下の戸棚を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
まずそこに水があったことにも驚いたし、彼が迷わずそこにたどり着いたことにも驚いた。
手渡されたコップに口をつけると彼の肌から熱が戻るような温度感が伝わり、水を飲み干した頃には2人ともどこか安堵した表情をしていたと思う。


「ごめん、一番先に言えばよかった」
「はい」
「名前、たまごアレルギーやねん」
「えっ!」
「量食べへんかったら今みたいに喉痒くなったり蕁麻疹出たりする程度なんやけど、たくさん食べてもうたらまた救急車乗らなあかんことなんねん」
「そうやったんですか……」
「救急車、乗るん嫌やろ?」
「はい」
「まあ良かった。何ともなさそうで。名前、プリン好きなのに僕が心配であんまり買わへんかったから。うまかったやろ」
「……めっちゃおいしかったです」


安心した九条さんはソファに腰を沈め、大きく酸素を吸って二酸化炭素を吐いた。
喉の違和感が落ち着いた私は、九条さんのさらさらの金色の髪に吸い寄せられるようにふらふらと彼の元へ歩いて行った。
寄るだけ寄って何も発さない私に疑問を抱くのは当然で、私は彼に見上げられたまま尚突っ立っていた。


「ありがとうございます」
「何が?」
「アレルギー。知らなかったら死んでるとこでした」
「生きとってくれてよかった。これ自分で買うたん?」
「いえ、頂き物で」
「望月くん?」
「…………」
「ええんよ、ほんまのこと言うてくれて。名前を思って買うてきてくれてんもんな」
「……はい」


ひとつ分かったことがある。
九条さんと望月さんの狭間に立たされている時は、なんだか具合が悪くなる。
2ヶ月前の私にどちらが本当の恋人なのかと尋ねるも返ってくることはなく、彼らに対面するたびに脳が疼く感覚がしていた。
それにほんのり気づいてくれているのは、たぶん九条さんだ。彼は一度たりとも自分の我を通すことなく、どんな時だって私の同意を伺ってくれる。
これも、昔の私がそうさせるのだろうか。


「今日の23時からな、僕テレビ出るねん」
「そうなんですか。見ますね、必ず」
「この時間になったらリモコンの8番押して待っとって。僕と、僕の相方が名前を笑わせるから」
「はい」
「プリン食べて機嫌良さそやな」
「ふふ、おいしかったんでご機嫌かもです」
「こっちの気も知らんと笑いよってこいつ!」


俯瞰で見下ろしていた私が言う。
声出して笑ってるの、久しぶりだね。記憶をなくしてからは初めてだね。
九条さんといると、心地良いね。
彼と一緒にいられる時間は少ないが、そのたった数十分でも彼は忙しい中会う時間を作ってくれて、私もそれに応えたいと思う。
ふんわりと、九条さんが私の恋人だったらいいのに、と願うようにもなっていた。


「じゃあ仕事行ってくる。今日の夜また連絡するな」
「はい。あの……」
「ん?」
「……いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
「うん。名前がおってくれる限り、僕は死なへんよ」


夜、あなたをテレビ越しで見た。
赤いお洋服を着て、髪の毛をきっちり整えて、いろんな人があなたに注目して笑顔になっていた。
今日のお昼に、プリンを食べた私を叱っていた人とは思えなくて、あなたのことをもっと知りたくなった。











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