記憶をなくしてから、日記をつけることにしている。
過去のことはもちろん、昨日あった短期的な記憶もぽろぽろと抜け落ちてしまうことがあって、どこに何があるかとか、洗濯機の使い方とか、生活に必要な部分も忘れてしまうことがある。最近滋賀がどこにあるかを知って、母に苦労をかけていることを実感した。
ひとりで立たなければいけない。


「薬は左から2番目の棚、タオルはお風呂場の引き出し……」


メモを見ながらなんとか日常生活を送れている。その様子を母や主治医に伝えると、みんな安心した顔をしてほっとため息をつく。私もその反応を見て、生きていてよかったと少しだけ思えるのだ。
9時になった。
この時間になると、必ず九条さんからメッセージが届く。


“おはよう”


私のスマホが復活してから、一度も途切れることなく続けてくれている。
日記を辿ると彼は不規則な生活を余儀なくされているらしいのに、朝は9時に、夜は日が変わる前に必ずメッセージをくれる。


“おはよう”


芸人さんだからお話上手で、相手の心を開く魔法でも持っているのか、私と彼の間にはもう敬語の壁はなくなっていた。
九条さんは私が思っているよりももっと人気の芸人さんで、そんな人が毎日私にメッセージを送って、私のことを考えてくれているなんて、何かの間違いのように感じていた。


「間違いやで」


望月さんに社内に置いていた私物を届けてもらった時ふと本音を漏らしてしまった。その本音を真っ向から打ち砕いてくる彼に、妙な恐ろしさを感じてしまった。
彼は笑顔を絶やさず淡々と、彼の存在に鋭利な針を刺していく。


「望月さん」
「ん?」
「……私、水の場所忘れてしまって」
「水? 水道?」
「ミネラルウォーター。どこにあるか分かりませんか?」


私はてっきり、冷蔵庫かどこかを探して墓穴を掘るとばかり思っていた。
実際彼はソファから一歩も動かず、私の脳内を暴くような目つきで全身を舐め回した。


「そんな試すようなことせんといて」
「え?」
「水の場所なんて、分かってんねやろ?」
「いえ、あの、か、彼氏なら、分かってくれてるかなと思って……」
「分かってるよ。でも僕が口出したら名前は覚えへんやろ?」
「……そう、かな」
「そうやろ。僕に頼るんじゃなくて、いっしょに探そ」


口答えはさせない、と言っているような、圧を感じる笑顔だった。
私はシンク下をあえて避け、遠回りしながらミネラルウォーターを探し当てた。望月さんは「時間かかったけど、自分で探せて良かったね」と私の頭を撫でた。


「九条さん」
「、」
「来てんねやろ? ここに」
「はい」
「ほんっまに、芸人の女癖の悪さ呆れるわ」
「……女癖?」
「知らん? 」


芸人なんて、多かれ少なかれ女を使い捨てのお人形としか見てへん。たとえ彼女がおったとしても遊ぶ用の女の子がいてるし、女の子がどんだけ願っても一番にはなれへん。それでもいいって思える人じゃないと芸人と一緒におるなんて無理やし、大事な時間を無駄にしてまう。


「名前は、それでもええの?」


望月さんの発する言葉が、やけにするすると心臓に浸透していった。
聞きたくもない、信じたくもない話だったし、ましてや九条さんがそうと決まったわけではないのに、体は正直に不安を表す。呼吸ができない。


「すみません、今日はもう帰ってください」
「ごめん、名前。でもこれは早よ伝えなあかんと思っててん。あいつに騙されてぼろぼろになる名前を見たないねん」
「分かりました。私物、届けてくれてありがとうございます」


玄関の扉が閉まる音がするとこわばった体が弛緩して、速まった鼓動も減速していっているのが分かった。







彼女の部屋に明かりがついていたりカーテンが開けられたりしていると、僕は一旦不安とさよならできる。
名前と会う予定がなくても、彼女の安否を目視できなければ僕の日常は回らない。僕の生活の軸は、彼女がすべてだった。


「こんにちは。暇なんですね、九条さん。仕事ないんですか?」


最寄駅で気味の悪い男と鉢合わせても、前ほど心の波は荒れることなく穏やかだった。
名前の記憶がなくなったとしても、僕たちの歴史にぽっと出のこんな男にかき回されるわけがない。その自信だけは確かだった。
目もくれず彼女が住むマンションまで足を進めようとしたら、蛇に手首を掴まれた。


「時間あるなら、ちょっとだけお話ししませんか? 名字さんなら元気にしてはります」


迷いを悟られたのか、ぬるっと笑った後「行きましょう」と先導を切られた。
コーヒーの香りが漂うざわついたカフェで、口火を切ったのは意外にも僕だった。


「何しに行ってん」
「名字さんの私物を届けに」
「ああ…… それはありがとう」
「全部僕と名字さんのためですから」


彼の無表情は恐ろしく冷たい。手に持つホットコーヒーですら一瞬で氷漬けになってしまいそうなほどの雰囲気を放出していた。


「何やねん、話って」
「九条さんって、名字さんのどこが好きなんですか?」


まともにこいつの顔を見たのは、今回が初めてだったかもしれない。色が白くて、清潔感のある今時の若い青年だ。
この答えで、僕はこいつに何を精査されるのだろう。押し黙っていると、長いまつ毛を伏せたまま話し始めた。


「僕はね、名字さんの顔が好きなんですよ」
「顔?」
「そう、顔。九条さんは芸人やから、アイドルや女優さんのきれーな人見慣れてはるんで麻痺してると思うんですけど、名字さんて普通におったらめちゃめちゃ美人さんなんですよ」
「知ってる。学生時代もちゃんとモテてたし」
「なんや。芸能人と比べたりせえへんのですね」
「名前は顔だけやなくて、中身も美しいねん」
「ああやっぱり! そう言うてくれはると思ってました!」


突然大きな声を出したものだから、僕も、左隣で本を読んでいたおじさんも、彼の目をじっと見てしまった。
一瞬だけ見据えた後、おじさんは手元にある文庫本に視線を移して彼から目を離した。


「九条さん、はっきり言いますね。もう名字さんは前の名字さんとは別人なんですよ」
「……は?」
「気付いてないわけないでしょ。今の名字さんは、名字さんの顔をした全くの違う人です」


気付いてないわけなかったし、それを感じない時なんて1秒たりともなかった。それを証拠づけるような沈黙が、彼の口元を緩ませる原因となっていた。
分かっていたが、僕の唇は硬直して動かない。


「九条さんが今の名字さんじゃないとだめな理由ってあるんですか?」


昔の名前を知っているからこそ、声や表情には出さないが今と昔のギャップに痛みが走っているのは事実だった。
家に帰って泣くことなんて日常茶飯事だし、過去に戻りたいと思うことなんて数え切ることすら難しい。そういう時、気付くのだ。僕は過去の名前しか愛していないのかと。
望月は、そんな僕の僅かな隙すら見逃していない。


「僕は彼女のあの美しさこそ至高やと思っています。性格なんてどうでもいいんです。名字さんのあの外見を僕は手に入れたい。だから代わりを探すなんて無理なんですよ」
「名前がお前を選ぶとは思えへんけどな」
「そうですか?」
「……なんでそんな自信あんねん」
「九条さん、ご自分の職業今一度考えてみてくださいよ」


僕の後ろで、若い女の子の声が聞こえる。
望月の目線がその子らに移るのが分かり、ほら見ろ、と言われているようだった。


「芸人なんかに負けるわけないでしょ」


彼が空のカップを持ち席に立った途端、短いスカートをひらつかせた女の子たちが僕の名前を呼び、一緒に写真を撮ってくれないかとお願いされた。
この情けない姿を見て望月は、名前は、一体どう思うのだろう。なんで僕は、今の名前を前にして揺れる必要があるのだろう。
そんな不安定な心が一人歩きしている状態にも苛ついて、半分も減っていないコーヒーを捨てて店の外に出た。










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