「修学旅行生や」
「修学旅行?」
「学校で旅行行くねん。卒業する前に」
「へえ楽しそう。私と拓文くんも行ったん?」
「うん、僕らは北海道に行ったんやで。名前たちのグループは京都から来てた同い年の子らにナンパされてた」
「……ほんまに?」
「僕は嘘つきません」
「拓文くんは?」
「ん?」
「ナンパしたん?」
「僕も名前もされる側」


この動物園に名前と来たのは3回目で、僕の最後の記憶は昨年で一番暑かった猛暑日の時。“初めて来た”名前は、園内すべてが真新しいみたいでしきりに目や首を動かしている。
記憶がなくなってもお気に入りの動物は変わらないみたいで、名前は人気のホッキョクグマやレッサーパンダ、ライオンなどには目もくれずワニやオオサンショウウオをじっと見つめ、時たま僕の名前を呼んで振り返った。


「あっちにレッサーパンダおるよ?」
「拓文くんそっち行きたい?」
「僕は大丈夫やけど、名前はワニでええの?」
「ワニかわいいよ」
「……かわいい?」
「うん、この子も」
「オオサンショウウオ?」
「手見て、みじかくてかわいい」


ガラスケースの向こうの動物たちは、名前が手を振っても名前を呼んでも応えない。
返事がないことに名前は気にしないが、あまりに一人相撲が長いとこの状況にも飽きてくる。
この後名前は、必ずこう言う。


「私のこと好きじゃないって」


記憶が戻ったのかと錯覚してしまうほど、彼女は彼女のままだった。驚いた表情を見透かされたのか、名前の口元が一瞬こわばった。
おなかすいた、と伝えたら、彼女は無垢な笑顔で同調し、動物園に背を向けた。
秋の日差しはもみじの葉脈を透かし、たった一呼吸で空に舞い散らせる。


「拓文くん、ここに葉っぱ入ったよ」
「ん? どこ?」
「これ。なんていうんだっけ」
「フードな」
「フード」


フードより形のきれいな楓が気に入ったみたいで、取り出した葉を親指と人差し指でつまんでくるくる回して遊んでいた。
地下鉄に乗るのは避けた。
退院してから2週間。人馴れしていないだろうし、複雑な形態の電車に乗せるのは少し気が引けた。
記憶がなくなった名前は、以前より声が大きくなっている気がする。


「名前」
「ん?」
「ごはん、うちで食べへん?」
「……うん。でも私あれ食べてみたい、いちごの飴」
「買うて帰ろか」
「うん」


何年か前に流行ったいちご飴を買って、ちょっと高めのスーパーでドリンクとお惣菜を買って、たばこのにおいが迎える僕の自宅にたどり着いた。
記憶がなくなった名前がここに来るのは2度目だ。


「わ、すごい。拓文くんお笑いのコンテストで優勝したんや」
「うん、すごいやろ」


無邪気に喜ぶ彼女。前回も同じ質問をしたことにはまったく気付いていないようだった。
心の傷は治る前にまた新しい傷を作り、僕を蝕む。心の傷なんて、名前を前に何を言うんだと思うかもしれないが、実際僕の精神はピアノ線1本で繋ぎ止められているような状態だった。
いちご飴を笑顔で食べる彼女を見るだけでも胸が痛む。前の彼女は、いちご飴なんかに興味がある女の子ではなかったから。


「拓文くん」
「、ん?」
「どうしたん? 大丈夫?」


そうだ。どうしたんや僕は。
彼女の顔をした別の人格がいるからって、何も動揺することはない。だって名前は名前なのだから。
そう言い聞かせている事実に目を背けることは難しく、違和感を見つけるたび、過去の彼女との相違点を感じるたび、僕の意思とは関係なく身体の下の脈拍は大きく1回跳ねるのだ。


「私、また何か忘れてる?」
「ううん、なんもない。忘れてる物なんかないよ」
「じゃあ今の私が何かしてる?」
「え?」
「今の私が拓文くんを悲しませてるの?」


彼女は前の彼女とは違う人格だが、こういう肝心なところで昔の、僕の好きな名前が顔を出す。
僕の好きな名前は異様に勘が鋭くて、どんな時だって自分より僕のことを考えてくれていた。ただ単純に彼女が大人で、僕が子どもだったからだ。
記憶が消えてしまった幼くて甘い物好きの彼女に気付かれてしまうほど、僕は成長していないのだろうか。


「ごめんね」
「何、名前が謝ることなんかあらへんやんか」
「……記憶が、」






記憶がないからやんね、私の。
自分で言うことすら憚られる。
記憶がないという事実、そして彼に惹かれているというふたつの事実が混ざり合って、私の身体の中で不快なにおいを発していた。
どちらかひとつが消えてくれたらいいのに、朝日と共に目が覚めて一日が始まっても記憶は一向に戻らず、彼への思いは膨らんでいく一方だった。
昔の私も、こんな思いをしたのかな。胸がつぶれてなくなってしまうくらい苦しい思いを。


「これは…… 楓の葉っぱ」
「うん」
「葉っぱが入ってたこれはフード」
「ふふ、うん、そうそう」
「いちごの飴」
「うん」
「拓文くんはお笑いのコンテストで優勝したすごい人」
「そう、あんまり言われると恥ずかしいけど」


長い手足を折って、私の隣に三角座りをした拓文くん。彼の体温や息づかいが感じられるだけで、私の心拍はどんどん速くなる。


「私は名字名前」
「うん」
「通信教育事業の総務課に所属してて、事故がなければ課長補佐に昇進する予定やった」
「……うん」
「お酒を飲むこととお料理をすることが好きで」
「うん」
「美術館に行くのが好きやった」
「そう、美術館に行くときは必ず名前1人やった。僕も行くって言うとちょっと嫌な顔されんねん」
「そんな私が一番好きだった絵は、ミレーのオフィーリア」


過去の私は世界一美しく、世界一詩的な溺死をする彼女、オフィーリアを酷く愛した。後に自分が雨に打たれて冷たい道路で死の淵をさまようとも思わず、無邪気に愛した。
好きなものを挙げているときあなたの名前が出そうになったけど、私は口をつぐんだ。そのまま言葉にしてしまったら、きっとあなたは優しい泣き顔で頷いてくれるはずだから。
そんな嘘の顔なんか見たくはないと出来損ないの小さな脳が叫んでいたので、私は黙って固く目を閉じた。










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