彼と会えない日が1週間続いた。
こんなに顔を合わせないことは初めてで、テレビで見かけるとはいえ少し不安になった。
そんな漠然とした不安を検査の時に看護師さんに伝えると「売れっ子の芸人さんやから」と会えないことが当たり前の肌感で伝えられ、恥ずかしい思いをしたのが今日の私。


「すみません」
「はい」
「南海難波駅ってどうやって行くんですか?」


今日のリハビリは、百貨店でお惣菜を買って帰ること。主治医の先生のお友達がいる地下のお店で晩ごはんのおかずを買うことが私へのミッションだった。
時間はかかったが、なんとかミスなく目的地まで辿り着けた。先生のお友達にお礼を言った後、歩き疲れた脚をどうしようかと彷徨っていた。


「どこに何があるか分からへん」


駅前では老若男女入り混じった何かの団体が、拡声器を使って何かを訴えていた。
脳の奥深くにキンとした痛みが走る不快な音量から逃れたかったので、何の当てもなく商店街の中をふらつくことになった。
平日の昼間だが人通りは多く、たまに体を傾けないといけない程だった。
後ろから走ってくる少女たちに追い抜かれる際聞こえた「ジョーくんおるかな」の声に、私の心臓は体の外にこぼれてしまいそうになった。


「わ、ジョーくんおる見て」
「かっこいー、てか背たかっ、顔ちっちゃ!」


追い抜いていった少女らの後を追うと、大きな機材を持った人たちの中心に“九条さん”がいた。隣には、相方の下田さん。
野次馬のひとりとして彼を見つめていて感じるのは、私と会ってくれている時の拓文くんとは少しだけ雰囲気が違って、それでも私の恋心はこんな時にだって成熟して痛いほどだった。


「はあ? 見えへんやん」


私の背後で聞こえたかわいらしい声。そのかわいらしさとは裏腹にとげとげしたセリフに、私の背筋は一気に凍った。
たぶんこれは私に向けられた言葉だと、背中に目はないがそう確信した。


「あーあ、空気読んで端行ってくれへんかなあ」


わりと大きな声で私に牽制したものだから、周囲のギャラリーもテレビ局のスタッフたちもこちらに視線を向けた。複数のぎょろぎょろした目玉が私を攻撃をしてきそうで、上手く酸素を味わえない。
脚の震えを利用して人混みから抜け出し、騒がしい駅まで戻ってきた。心臓に手を当てると、皮膚を突き破ってきそうなほどだった。


「大丈夫?」


私の様子がおかしいことを察してか、二人組のおばさんが顔を覗き込んできた。私は意識せずも後ずさりをしてしまい、投げるようにお礼を言って地下鉄に乗った。
パニックになっていたくせにきちんと最寄り駅までたどり着いて、夕闇の色に染まった自宅に戻った。やっと初めて呼吸ができた感覚が脳にも心臓にも伝わる。
お惣菜は、少し形が崩れていた。






「うわ、またあの人来てるやん」


下田のその一言だけで、誰が来ているか分かった。“あの人”は20代前半くらいの僕のファンだ。僕らではなく、僕の。
僕のことを長く応援してくれている、いわゆる古参ファンというやつで、劇場だけでなくこういう現場にまでも度々やってきては大きく振る舞っている、スタッフが管理するブラックリストのトップに君臨する奴だ。


「あーあ、空気読んで端行ってくれへんかなあ」


無視できないほどの声量と悪質なセリフに、僕の目線もそちらに向いてしまった。
刃のような言葉を向けられたであろうひとりの女性が野次馬の中から外れていった。
それは紛れもなく僕の彼女で、薔薇が施された紙袋を振り乱し商店街を走って行った。


「どないしたん」
「あ、いや、なんでもない」
「お前もうさっさと結婚せえよ。絶対ダルいファン減るで」
「……せやな」
「ま、まずは相手見つけなな。あの子とかえんちゃう」


下田は僕を見つめる女の子の中から適当な人を選んで、適当に当てがった。本気で言っていないことなんて分かっていたが、僕の脳みそは名前のことだけでいっぱいで、早く仕事を終わらせて彼女に会うことしか考えられなかった。


「はい」
「もしもし名前? 今仕事終わってん」
「ああ、お疲れ様」
「会われへんくてごめんな。声は毎日聞いてたからあんまり久しぶり感ないな」
「そやね」


1週間ぶりに彼女に会えると思うと仕事をしている内にゾーンに入ったみたいで、思った以上に早く終わることができた。
電話越しの彼女の声は、いつもとどこか違う。疲れとか、今日の出来事の動揺がまだ残っているのかもしれない。
早く、名前に会わなければ。


「……お疲れ」


出迎えてくれた名前は声どころか雰囲気も違って、なぜか緊張が走った。
テーブルには昼間に見たあの紙袋が畳んでおいてあって、僕の目が正しかったことと、流れて止まないこの不穏な空気を噛み締めた。


「名前、調子どない?」
「うん、いいよ」
「……今日な、仕事で名前の好きなみかんジュースもろてん」
「ありがとう、ほな氷作っとかなね」


あまりに自然すぎて見落としてしまうところだった。
なぜかというと、記憶がなくなる前の彼女は氷をグラスのてっぺんまで入れてジュースを飲むのが好きだったからだ。
僕の沈黙と表情に気付いたのか、名前は顔を上げる。


「拓文」
「名前……?」
「私、記憶戻った」


僕が電話越しで気付けた違和感は、昔の彼女の幻影が揺れていたからだったのだろうか。
そんなことをしっかり確かめるより、僕は彼女の声でその言葉を聞けた真実が、喉元をぎゅっと締めてしまうほどの感情を連れてくる。


「ほんまに、名前なん……? 前のきおく、思い出したん?」
「うん。ごめんね、たくさん迷惑かけて」
「迷惑なんか思ってへん、生きてくれてて、名前がそばにおってくれて、それだけでぼくは、」
「拓文」


凛とした睫毛は彼女のトレードマークで、そのゆるやかなカーブは傾きかけていた僕のメンタルをまっすぐ戻してくれる。この目に見つめられて、愛を注がれて、僕は僕でいられるのだと改めて実感する。
やわらかい名前の声は、優雅に世界を切り裂く。


「私と別れてほしいねん」











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