彼女の青白い肌が汚い街を照らして、僕の掌にある腑抜けた脆さも暴かれてしまう。


「なん、で…… いや待って、」
「待たれへん。もう待たれへんよ、拓文」


名前は言った。“もう”待てない、と。
部屋の灯りが反射して、名前の瞳はオニキスのように艶やかだ。何かがこぼれそう。


「ほんまは、結婚断られたこと物凄いショックやってん。拓文の前で笑うこともつらかった」
「ごめん…… ごめん名前、結婚なら、」
「記憶が戻って、冷静に考えた。拓文との結婚は考えられへん」
「傷つけてごめん。僕のわがままのせいで名前を待たせてもうてるのは分かってる。だからこそ名前を…… ぼくが、しあわせにしたいねん」


情けない声が壁に、フローリングに吸い込まれる。ひんやりとした静寂が503号室を覆ったが、名前は動じない。悲しいほどに。


「拓文、分かって」
「分かれへん、分かりたくもないこんなこと」
「……記憶がなくなった後の経費はちゃんと返すから」
「そんなこと言うてんとちゃうねん!」


名前は、大きな音や声が苦手だ。
僕の声のせいで肩が跳ね、筋肉は硬直し、まばたきすら忘れた彼女を見て、僕は僕を殺してしまいたかった。
僕はそんな易しい情報すら頭から飛んでしまって、名前を恐がらせてしまっている。


「……ごめん、大きい声」
「大丈夫」
「見返り求めて名前を助けてたんとちゃうよ」
「分かってる。けど、助けてもらったことは事実」
「……名前、」
「大丈夫。拓文は私じゃなくても、絶対に大丈夫」


それはたった一度だけ、僕と名前が大きな喧嘩をしてしまった際に名前が僕に向けて放った言葉だった。
その綿のようにやわらかなナイフは弱い僕を簡単に傷つけ、突き放された僕はその反動を利用して彼女の優しさに縋った。


「明日、仕事何時から?」
「今そんなんどうでもええ」
「どうでも良くない」
「仕事なんか、今はどうでもええねん」
「そのどうでもええ仕事と私を天秤にかけたのは誰よ」


昨日までの名前と本当にすべてが違っていた。
あれだけ記憶が戻ることを望んだのに、このざまはなんだ。僕はただひたすら、名前に謝るしかできなかった。その謝罪だって、名前は身のこなししなやかにさらりと躱していく。謝罪すら受け取ってもらえないことがこんなにも苦しいなんて、今までの僕は考えもしなかった。


「帰って。今日は疲れたから」


名前の髪を撫でると、その嫋やかな髪の毛は鋭い牙を剥き、僕を明らかに拒否した。
排気ガスを纏った大阪の空気、ギラギラ輝く汚れたネオンも、僕の存在を否定していた。
名前と一緒に居られない世界線なんて、何の意味も持たない。






1人になった部屋は寒くて、暗くて、静かだ。足裏から劈くように刺す冷たさが骨まで蝕む。動けない。
テーブルでスマホが叫んだと思ったら見慣れた名前が目に入って、止まった景色が動き始めた。


「……何?」
「とりあえず今日は帰る」
「今日は?」
「僕、諦めへんから」
「……拓文、」
「それだけ。ゆっくり休んで、おやすみ」


ところどころで鼻をすする音が聞こえた。あの人は弱いくせに優しい。弱いから優しいのかだろうか。
……そんなこと、もうどうだっていい。あの人がどうでもいいと吐き捨てた仕事より、どうでもいいのだ。


「名字さん、夜遅くにすみません。今お時間よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「29日に検査予約されたと思うんですが、その日緊急のオペが入りまして。別日に移動していただくことって可能ですか?」
「ああ、全然構いませんよ。私はいつでも大丈夫です」


今日はよく電話が鳴る日だなと、切った後に思った。
スマホをマナーモードにして、今日買ってきたぐちゃぐちゃのお惣菜をお腹に沈めた。
時刻は21時を回ったところ。薬を飲まなければいけない。薬箱から何錠もの薬を取り出し、順番に飲んでいく。
飲み終えて台所へ行くと、お茶がそろそろなくなることに気づいた。お湯を沸かそうとしたところで時間がぴたりと止まる。


「……やかんって、どこにあるんやっけ」










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