明日なぞ要らぬと、何百、何千と思うたことか。
七つの頃、吉原に売られた初夜に流した涙は、今もあの見返り柳の下に埋まっている。
在れから私は一粒たりとて、手前てめえの為に涙を落したことは無い。















桜桃む、















「ホオ。こりゃ又、上玉が遣って来たもんだねえ」
「良いじゃないか。久々の引っ込み禿かむろだ」


喰っていた飯が飛び出てしまうほど、強く髪の毛を引っ張られた。悲しいが、其んなことには厭になるくらい馴れっこで、叫ぶ気にすらならなかった。
膳を下げられた後、煤けた小袖こそでを脱がされ痣や傷がないか雑に確かめられた。
紅の濃い皺だらけの細っこいババアと、目尻は垂れ下がっているが眼に灯が燈っておらぬジジイと、若い衆が四人、私の前に立って見下ろしている。


「来な」


肩から腕が抜けてしまったと思った。
婆に連れて来られたのは、目が眩んでしまうほど華美で鮮やかで、伽羅が馨る座敷。襖の奥には私と同じ齢ほどの児が三人と、金魚のような姫様が一人、佇んでおられた。


「いいかい。おまえは今日から此の貴船きふね姐さんの世話をしながら芸事を学ぶんだよ。判ったかい」
「厭じゃ。勝手に連れて来られて勝手に仕えるなぞ、苦界くがいもいいとこじゃねえか」
「は、苦界だとよ。難しい言葉を知っているじゃないか。え?」


突然背中に響いた鈍痛は肺まで伝わり、呼吸の仕方を一時忘れてしまった。
婆に蹴られた勢いで、私は姫様のお膝元まで飛ばされた。伽羅の匂いを認識出来た瞬間、天から声が降って来た。


「汚いのう。早よ退け」


私が退くなり姫は打掛うちかけをパッパッと払い、氷柱で仕上げられたか細い指を自身の鼻に持って行き、眉間を歪ませた。


「もう直ぐ湯浴みの時間かえ。おまえたち案内してやんな」
「はい」


横に坐っておった飼い猫のような児らは、座敷から出て行ってしまった。


「名を付けてやらねえとな」
「名?」
「おまえの名前は、名前だ。しっかり奉公しな」


名前。こんな女臭い所で名を付けられても、憎悪だけが増すばかりだ。今直ぐにでも捨てたいくらいだった。
“垢抜けねえちんけな名だ”と吐き捨てると、柄の長い煙管キセルが私の足首を焼いた。


「アチッ! 何しやがる!」
「おまえ売られたんだろう? ならば今日から此処がおまえの家じゃ。主人の謂う事をよく聞きな」
「家なんて認めたつもりはねえ。直ぐ出てってやる」


紙風船が割れたような軽い音が響いた。その後、私の左頬は熱を帯びじりじり痛み始めた。
貴船は何時の間にか立ち上がっており、私の髪の毛を引っ掴んで声を張り上げた。


「おめえはな、もう此処から出られねえんだよ! 桜が咲こうが雪が融けようが、此の女の牢獄で老いて死んでいくのさ!」


貴船が美しすぎて、此処に来て初めて恐ろしいと感じた。
其の一言で魂を抜かれむくろになってしまった私は、婆に手を引かれ湯に行くよう命じられた。
湯から上がると仕着しきせが用意されており、装飾が施された着物と初めて結われた髪を鏡で見て更に恐ろしくなった。


「雅だな」


三日も経つと、何時に見世みせ中の蝋燭が消され、人が消え行くかが判ってきた。
今宵は霞が立つ月夜となった。何に思いを馳せてよいか、春の月を見ても梅の香りを聞いても私の心は動かなんだ。
声がした方を振り向くと若い衆の一人“皓平”が寝間着の儘、腰を下ろした。


「梅見をするのか」
「此処の梅は直ぐにこぼれる。ふるさとに在る梅のが余程雅じゃ」
「おめえ、ふるさとは何処だ?」
「……忘れた。只、ふるさとの梅は霜雪そうせつを凌いで咲く故、雪洞ぼんぼりに照らされずとも、野に咲いておるだけでも気品高く美しいのだ」
「器量が良いな。立派な花魁になる」


花魁。其れは貴船のような女のことだろうか。
あのつぐみの羽根と見紛う豊かな睫毛の奥に潜む蛇の眼。沙羅の花弁の如く滑らかなうなじ。此の月夜のように情感に満ち、酸鼻さんびな醜女を形容する言葉か。
怖くなってしまい黙った私に、皓平は一つ自分の話をしてくれた。


「俺も、七つの頃に身売りされて此処へ来たんだ」


梅の首が落花する音が遠くで聞こえた。
霞がたなびいていてはっきりしないとは謂え、彼の顔を確り見たのは此の夜が初めてだったやもしれない。昼時の着流きながしより、夜の寝間着の方が似合う男だ。


「もう殆ど出てこねえが、吉原に来た許りの頃はよく国の言葉が出ちまってな。毎日楼主ろうしゅに叱られてたよ」
「今でも覚えてんのか、其の国の言葉ってのは」
「ああ…… こないな時に喋る分にはかまへん。おまえと梅見をする時くらいは、国の言葉を思い出すんもええかもしれん」


あの時、聞き馴染みのない言葉を耳にしたからか、月の光に当てられた彼の横顔に春を見たからか、禿時代、見世が終わった後の此の時間だけが私を大人にした。


「もう夜八よるやつ過ぎや。明日は三味線と舞踊の稽古やろ。寝過ごしてもうたらまた折檻せっかんされるさかい、早よ寝よし」
「……謂わねえのか」
「ん?」
「こんな時間に、此処に居ることがおまえに見つかっちまった。其れだけでも、充分折檻になり得る」


梅の香を運んでくる東風は、幾ら仕着せと謂えど体を震わせた。
皓平は長い脚を曲げて、立ち上がった。霞が晴れて、春が彼を暴く。


「こんな朧夜は、秘め事がよう似合う。な、名前」


金魚の鱗が翻った時の、あの青白い光が世界を照らしている。
此処は吉原、唐梅屋からうめや。幕府公認の、江戸随一の遊郭。
端金で私を売った親のことは、此の春の夜を境に頭の中で斬って殺した。
私はもう、普通の女には戻れない。可憐な桜桃にはなれない。栗花のにおいを漂わせながらも、枯れずに咲き続けるしか道は残されていないのだ。
“生きてさえいれば、何時か幸福が遣って来る筈”。くるわの外で、柳に靡かれた少女の私が泣き止んだ後そう呟いた。
秘め事なぞ、誰の心にも在るもの。
な、皓平さんよ。
















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