「皓平」
「へえ」
「名前は何処だい」
「名前は……、今日は俳諧の稽古の筈では?」
「……あの糞餓鬼! 卯月に入って何度目じゃ!」






足抜あしぬけなぞ、所詮何時かは捕まる。私には彼処あそこしか居場所がないことも判っている。判っているが、矢張りあの廓の中は恐ろしい。
芸事の稽古が厭なわけではない。寧ろあの類の稽古は好んで受けており、口五月蠅い爺や婆も稽古の時だけは、私を叱らないし叩かない。
だが、其れと是れとは話が別だ。私は、薄まりつつある野生の自我を解放すべく、廓の外に出た。
ああ、山桜桃ゆすらうめが咲いている……。


「イテッ!」


山桜桃の花に気を取られていたら、曲がり角で人とぶつかった。
卯月に入って三度みたびは廓を出たので、足腰は自ずと鍛えられている。そんな健康優良児にぶつかられ、跳ね返され尻餅をついた此奴を放って逃げられるほど、私の良心はだ吉原に侵されてはいなかった。


「イテテテ……」
「わ、悪い」


天を仰いだ儘の餓鬼を引っ張り上げると、其の軽さとは裏腹に意外と背が高く拍子抜けをした。読んだところ、私の二寸ばかりは高いはずだ。
お互い黙っていると、後ろから男のがなり声が聞こえた。焦る私を余所に、何故か右手は意思と違う行動をした。


「こっち!」


餓鬼に右手を引かれ、私の脚は又意思と違う行動をした。立派な屋敷の石壁を沿い、裏戸を潜って庭に入った。躑躅つつじの生垣にしゃがむよう身振りをした餓鬼に、窮地に陥った私は黙って謂うとおりにした。
暫くすると声も足音も遠くなり、二人は視線を合わせて躑躅の花畑から身を出した。


「ふう、危なかったね」
「悪いな。ぶつかった上に助けまでしてくれて」
「気にするなよ。追われてんのか? 一体何したんだ?」
「まあ………… いろいろな」


怪訝そうな表情は見せたが、瞬時に顔を綻ばせ「そうか」と言った。
頭に乗った躑躅の葉を退けてくれたので、お返しに着流しに付いた葉を払ってやった。其の時にふと思ったのだ。此奴の召した着流しの、大層丈夫なこと。
まるで、引手茶屋ひきてぢゃやを回遊する男共が着ている其れだ。


「おまえ、何故そんなに腕が青いんだ?」
「え?」
「すまん。走っている時に見えたんだ。袖から覗く痣が」
「……ち、力仕事してんだ」
「其の齢でもう働いているのか! 尊敬するなあ」


何だか、掴み所のない奴だなあ。
でも、此奴といると心が温かい。皓平と居る時と似ている気がした。
飄々としている此の男は、躑躅の蜜を含んだ後の花を帯締めに挿し、よく陽が当たっている縁側に大の字になって寝転んだ。


「おい、其処は余所の家じゃあないのか……、」
「あ、此処俺んちなんだ。謂っておけばよかったな」


成程。だから其の齢にして厚い生地の着流しを着られるわけだな。
納得していると、其奴は下駄をみだりに履き捨て、長い廊下を走って何処かへ行ってしまった。足音が再びして戻って来ると、包み紙の上に色取り取りの金平糖が乗っており、私の掌の上に半分落としてくれた。


「おまえ、名は何て謂うんだ?」
「……名前」
「名前か。良い名だな」
「おまえは?」
「俺は直樹。呉服の高比良家って知ってるか? 其処の一人息子なんだ」
「へえ……」


豪商なだけでなく、呉服屋の子息か。どおりで。
直樹は金平糖だけではなく紫雲膏しうんこう迄持って来てくれており、見付けてしまった右腕の痣に薬を塗ってくれた。
仕事も程ほどにな、と蓋を閉めながら謂ったのを聞いて、頭の中に吉原の極彩色の街がちらついた。


「…………名前?」
「何でもない」


笑ってみせると、直樹も其れに応えて笑ってくれた。
一頻ひとしきりお喋りしたところで、直樹が私と同じ七つで、明日は和歌の芸事があることを知った。
二人がぶつかってしまった山桜桃の木迄、直樹は見送りに歩いてくれた。其の道中、上の句と下の句に分かれて歌を詠んだり、落ちている小枝で字を書いて遊んだりした。


「名前、おまえすごいな。女児おなごで字が書けて、しかも空で歌が詠めるなんて」
「まあな」
「何処の豪商の娘だ?」
「豪商なんて…… そんなんじゃねえさ」
「まさか……」


直樹は足をぴたりと止め、私の瞳を見据えた。まずい、と思ったが、あの痣を見られたんじゃ仕方あるまい。
真実を吐こうと息を吸った瞬間、直樹の白い腕が私の両肩を優しく掴んだ。


「まさかおまえ…… お武家さんとこのか?」


吃驚びっくりしたと同時に、直樹が掴んでいる肩と腹が震える感覚が在った。
私は此の時、殆ど生まれて初めて笑い泣きと謂うものをした。
長い距離を逃げて来たことを少しだけ誇りに思ったが、もうあの景色が見えて来た。
疾風はやてが山桜桃の花を散らす。お別れだ。
次なんて無いかもしれないけれど、こんなに別れを惜しいと思ったのは間違いなく生まれて初めてだった。多分、身売りされた時よりもずっと、悲しい。


「気を付けて帰るんだぞ」
「うん、有難う」
「そうだ、是れ」


直樹は襟から手拭いを出して、私に持たせてくれた。帰り道、何かには使える筈だとあの笑顔で謂っていた。
私も何かとは思ったが、差し出すものが無い。考えた末直樹の手に渡したのは、髪に挿していたかんざし。直樹は困る様子もなく、渡った簪を陽に当てて透かしてみたり、自身の髪に挿してみる振りをしてみせた。


「俺も大人に成ったら髪伸ばして挿そうかなあ」
「男なのにか? でも良いな。久しく逢わずとも、其れさえあれば直樹だと判る」
「な、良い考えだろう?」


直樹は帯揚げに簪を挿し、然様ならの代わりに斯う謂った。


「なあ、次は何時会える?」


右腕の痣が疼いた。私には、帰らねばならない場所が在る。帰っても命の保証が在るとは限らないが、名を貰い、飯を喰い、芸事を身に付けそして、金を稼がねばならない。此れから待つ苦行を思うと、直樹と私には大きな隔たりが在ると痛いほど感じた。
直樹が、返事を待っている。


「山桜桃の実が成る頃に此処で待ってろ。又ぶつかりに行くからよ」


直樹がわらってる。ああ、嬉しいな。
きっと、こんなに楽しい気持ちになれるなんて最初で最後だ。こんな幸福の頂点で、私は私の運命を嘆いた。
鶯が啼く吉原への帰り道、貴船姐さんが謂っていた言葉を思い出した。


「女はな、幾ら嘘を吐いたとて構わんのじゃ」


嘘を吐くとは、誠に恐ろしい。又何時か巡り合えた時、一体如何するつもりだ。
直樹は、私を疎むだろうか。呆れるだろうか。
そう思えば思うほど脚が鉛のように重くなったが、私は唐梅屋の。あのような高貴な身分の子息と交わることなど、生業の下でしか在り得ない。
直樹から貰った手拭いを胴裏どううらに仕舞い、行灯の火が揺れる吉原を目指した。
















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