こうやって、壁に音符を連ねる王様への献上物、というか。あんず先輩たちと備品を買いに行った時に勧められて買ったそれは意外にも(そして残念にも)減りが尋常じゃなく早い。今日の帰りに買った方がいいだろうな、と散らばった紙に手を伸ばして。王様がふっ、と何かに気が付いたように五線譜との逢瀬を中断して俯かれていた頭が上がる。それは見えない天使でも見ているかのようだ。
彼が見る世界は依にはてんでわからない。が、突拍子もなく吐き出された言葉は間違いなく私に向けられた言葉だった。
「お前の戦場には、怪人がいるんだろうな」
「はい?」
思いついた、というように。突拍子もない言葉だった。
「多分、いもしない怪人に掻き乱されている」
顔が歪むのがわかる。こちらを振り返らずに言い放たれた言葉は存外にも私の心に突き刺さった。
月永先輩はそう言ったきりまた作曲に夢中になり、鼻歌なんか歌い出した。私の知らないテンポがコロコロと変わる曲は私の気持ちなんか知らんぷりで、腹立たしいけれど、それを無理矢理殺してまた廊下に散らばる楽譜を集め始める。楽譜には番号なんてふってなくて、書き殴りのそれは子供の落書きみたいで、でもきっと誰かに取っての宝物なんだろう。…依は別に、お掃除をしているだけですけど。
月永先輩の見解は、当たらずとも遠からず。怪人が私の心を掻き乱しているのは本当のことだった。その怪人は依が触れることができない、干渉ができない、舞台上の人と同じだった。舞台の上で、人の心を掻き乱していく。
でもそれが私にとっての脅威かと言われれば、そうではなかった。そうじゃなかった。
最大の脅威は、それに魅入られた私だった。
…私は、それに魅入られた。観客にいて、舞台裏にいて、見ているだけだったはずの私がそのどこから現れたかもわからない怪人に腕を引かれて、それも反抗すれば振り払えたほどの力なのに、なされるがまま舞台に上がって、一緒に踊ったりもした。それから嘘かほんとかもわからない愛を囁かれて、気づけば抱きしめられる夢を見た。
それは、おぞましいことだ。不特定多数に向けられた真心の籠った愛を、腕の中に閉じ込められて独り占めしたい、だなんて。
盲目だ、曖昧だ、それは枷だ。それは毒だ。
彼の邪魔にしかならない!
だから、殺した。見えない怪人に唆された私を。哀れにも偶像に夢を見る少女を殺した。私が。
彼らを見ることはファンじゃない人間にだってできる。偶像を見つめるだけならただの虫けらにだってできる。偶像に夢を願い夢を見るその権利は、地に這う屑にだって、薔薇に集る害虫にだって、崇高なただの人間にだって、誰にだってある。
でもそれは、依の望んだことじゃない。
「(私は…そんなことのために彼の側にいた訳じゃない)」
そんなことをするだけなら、それこそここにはいない方が懸命だ。私自身が枷になるくらいなら、自死をしたほうがよほど建設的だ、とも思う。
だから、朱桜司に惹かれて恋焦がれる朔間依の存在は、アイドルの朱桜司の道を切り開く朔間依にとってとんでもなく邪魔、だった。
例えるなら、害虫駆除のそれ。この虫がいたら薔薇が綺麗に咲けない。だから駆除をする。然るべき措置。
愛を騙る怪人に唆されて恋心を育てた私の屍を埋めたら、きっと綺麗な桜が咲く。薔薇みたいに真っ赤で、血のようにくすんだ朱桜が咲くはずだ。
それを見て、私は笑うんだ。ああやっぱり、殺してよかった、と。私の屍もきっと土の中で笑ってる。それから、大事に育てたその恋の果実をすりつぶしてまた栄養にしようと思うんだ。
「…っん」
無駄なことを考えていたからか、紙をまとめていたら指を切っていた。左の人差し指からぷくりと血が膨らんでいる。はむ、と口に含めば苦々しい甘さが広がる。自分の血は美味しくない。
絆創膏、…ああ切らしていた。そういえば。それも帰りに買っていかなきゃ。いまだルーズリーフを消費する月永先輩の肩を叩き、紙の束を横に置いた。
「つきなが先輩、まとめましたよぉ。番号振ってなかったのでバラバラですけどぉ」
「〜♪んっ?あれお前誰!!?う〜んと……」
「夢ノ咲学院ぷろでゅうさぁ科1B所属朔間依で〜す。誕生日は一月七日年齢はまだまだ15歳、好きなものはキャラメルですぅ」
「なんで言っちゃうんだよ〜〜!!しかもそんな細かく!!妄想の余地すら与えてくれないのかお前は!」
「あ、ついでに次のレッスンは明日ですよぉ。多分グループメッセとかでせな先輩が言ってくれてるはずなので、遅れないでくださいねえ」
「ああ〜〜!!お前なんでそんなことまで言っちゃうの!?俺の妄想が!俺のインスピレーションが!!世に生まれるはずの名曲たちがお前のせいで死んでいくぞ!?」
お前のせいで死んでいく。そんなの、私に殺されていくほど脆いそれらが悪い。と、そう思うことはきっといけないことなんだろう。ぱかりと口を開けてへら、と気を抜いた笑みを浮かべた。
「えへ、すみませんつきなが先輩。はい、これきゃらめるあげるので機嫌を直してくださいねえ」
「お前俺のことなんだと思ってるんだ〜…?まあもらうけどっ」
ポケットから取り出した個包装のそれを不用意に受け取り、月永先輩はそれを口に含む。咀嚼、かおる甘い匂いは私の好きな匂い。
毒は、決まって甘い匂いを漂わせる。甘ければ甘いほど、馬鹿な虫が寄ってくる。そして甘さに酔った頃に殺して食べるんだ。
学院内はもう薄暗い。日は沈みかけでもうほとんど日は見えない。私たちの時間は、それが心地よくて、気がどうにも昂る。
自分の血の味が、舌の上で甘くかすかに存在を主張してくる。それを逃すようにため息を吐いて立ち上がった。
「では、依はもう帰りますねえ。帰りによるとこもありますしぃ」
「ん、そっか。じゃあなヨリ!」
「はぁ〜い、また明日ぁ。つきなが先輩も早く帰ったほうがいいですよぉ」
ひらひらと手を振りながらその場を後にする。じっとこちらを見つめる緑の瞳に依は気づくことはなかった。
「……馬鹿な奴ら」
ああでも、手のかかる子供ほど可愛いっていうのか〜?わはは☆それもそうだな!