美容師おそ松


全くひどい1日だったと、お気に入りのパンプスを脱ぎ捨てる。
泣き腫らした顔はぶさいくだし、気合を入れたメイクはすっかり崩れてしまっていて、慣れないヒールで足が痛い。
朝は心が弾むような心地で、世界の何もかもが愛しかったのに。
すっかりその気持ちはなりを潜めて、沈みきった気持ちだけが倦怠感となって身体を包む。


「ばかじゃん」


久しぶりのデート。
彼からお誘いがあったのなんて、本当に数えるほどしかなかったから。
嬉しかったから。
なのに、おしゃれなカフェで告げられたのは別れのセリフ。

ほんとは、きづいてた。
浮気してるかもっていうのも、
だんだんあっちに比重が重くなってったのも、
私は、もう、本命じゃなくなっちゃったことも。
わかっていてもやっぱり好きで、こんな、情けない。
ボロボロになった姿を鏡越しに見つめて、自嘲するように笑う。
可哀想で、馬鹿で、浅ましいわたし。
涙で流れたメイクみたいに、この気持ちもどっかにいっちゃえばいいのに。





「え、ショートにすんの?!」


目を丸く見開くおそ松さんに、こくりと頷く。
はやく立ち直ろうと、仕事帰りにいつもの美容院にふらりと立ち寄る。
ずっと伸ばしてた髪。
彼か、綺麗だって、好きだって笑ってくれたから。
でももう、いい。
意味なんてない。


「え〜……まじか……」


頑なに譲らないわたしに、おそ松さんがぽりぽりと頭を掻く。
それから渋々、といった感じで、私の髪にハサミをいれていく。


「……」


お調子者でデリカシーのないおそ松さんでも、わたしの泣き腫らした顔と、髪を切るという決意で、なにか察してくれたらしい。
いつもはくるくると回る口も、今日はぽつりぽつりと必要な言葉をこぼすだけだ。
ファッション雑誌に視線を落としながら、じわりとまた涙が滲む。
歪んだ視界のすみで、彼の好きだった髪がはらりと落ちた。





「できたよ」


おそ松さんの言葉に、微睡んでいた意識が浮上する。
昨日は、あまり眠れなかったから。
ちらりと鏡を見あげて、え、と、声が漏れる。


「おそ松さん、もっと切ってくださいって言ったじゃないですか……あと、こんな可愛くアレンジしなくても」


セミロングの髪に、花をモチーフにした髪飾りがちょこんと主張している。
くるくる巻かれた髪が揺れて、そっと鏡越しにおそ松さんと目が合う。


「なまえちゃんの髪、長い方が好きだし」
「え、そんな理由ですか」


長い髪を見る度に、思い出したくない事ばかり思い出してしまうのだ。
髪を撫でる優しくて大きな手のひらとか、長い髪を褒める柔らかい声だとか。


「失恋したの?」


椅子の背もたれにひじをつくように、おそ松さんが小さく口角をあげる。
核心をつく言葉、鏡に映る彼を睨むように視線を合わせる。


「俺はさ、嬉しかったけど」


はあ?
訝しげな顔をするわたしに、鏡越しの彼がにっこり笑う。


「いいじゃん。思い出上書きしようよ」


どういう意味ですか、って、返事をする間もなく椅子から立たされて、はい、と軽い調子でちいさなカードを手渡される。
入れ替わりにほかの店員さんがやって来て、おそ松さんは、誰かに呼ばれて奥へ消えていってしまった。


「……」


ちら、と視線を落とした先には、松野おそ松の文字。
お店の名前とお店の電話番号だけのシンプルな赤い名刺は、彼らしくて少しだけ笑ってしまう。
そっと財布にしまって、お会計を済ませてお店をあとにする。
そういえば、カット代しか払ってないけれど、この髪飾りは返しに行けばいいんだろうか。


「え」


いつ行こうかなあとぼんやり考えながら、何の気なしに取り出した名刺。
真っ白な裏面に、急いで書いたような文字の羅列。
アルファベットと数字が並んだ後ろに、連絡して、の文字。
それから、近くのレストランの名前と、19時に、という、乱雑な走り書き。


『上書きしようよ』


彼の笑顔が脳をかすめる。
沈んでいた気分はすっかり雲が晴れて、ドキドキと胸がうるさい。
顔が熱い。
赤い髪飾りが、なにかを期待するように、ゆらりと揺れた。

うたかた