クラピカ夢小説アンソロジー
『ひととせ』様参加作品


海還


 朝まだきの空であった。辺り一面には、光を殺した暗闇がしんと広がっている。
 生ぬるい潮風がふわっと鼻先をかすめると、濃厚な海のにおいがした。ちっぽけな視界の先に映るのは、真っ黒ににじむ空と海だ。この世にはじめから光なんて存在していないんじゃないかと思わせるくらい、世界は暗く、やぼったかった。
 それでも、今日も普段どおりの一日がはじまろうとしている。水平線をぼうっと眺めていると、空が白みはじめてきた。寝坊した太陽がようやく顔を覗かせてきたのだ。
 おはよう。今日も私の勝ちだね。そう声をかけるも、当然なんの反応も返ってこない。耳を澄ませども、生物の息づかいもしない。静かな波音がざぁざぁと繰り返し聴こえてくるだけだ。
 まだ半分寝ぼけた頭をさますため、手をめいっぱい空に掲げて身体を伸ばした。筋肉がぐうんと伸縮し、滞っていた酸素が身体中をかけ巡っていく。
 ―― 目覚めろ。細胞が、そう私に訴えかけている。
 ―― 目覚めろ。これから映し出される光景を、決して見逃さないように。
 私は細胞の声に促されるがまま、じっと目を凝らして遠い沖の行く末を見つめた。
 それは、子供のころによく読んだ童話に出てくる魔法のようであった。太陽が大海原の向こう側から躍りでてくると、深い紺碧色をした海の上に、鮮やかな紅色の光の帯がすうっと浮かびあがってくる。まるで世界を丸ごと反転させたかのように、交わりあった光のすじが、紺色に、紅色にと風景に彩りをつけていく。
 そのうつくしい色合いに見とれ、思わず息をのんだ。
 やはり、先ほどの勝負は訂正しよう。私の勝ちだなんて、おこがましいにも程がある。私は、食べて、寝て、排泄して、ただただ平凡に生きているだけの、ありふれた人生を歩んでいるにすぎない。そんな私とかけ離れた存在のこの景色は、代用の利かない自然の芸術品だ。現に、朝焼けはいつだってざわついた私の心を洗い流してくれる。何度でも、あたたかい気持ちを注ぎこんでくれる。
 うつくしい景色に心震わせる資格なんて、私にはないのに。

 まだ気温が上がり始める前の澄んだ夏の空気の中で、いつものように桟橋に腰を降ろし海面に素足を投げ出した。すると、すぐさま海水が足元を包みこんでくる。ゆらゆらとたゆたう波間に足をすくわれると、海水が細胞に浸透してくるようで気持ちが良かった。
 どんな生命も、はじめは海から生まれたのだ。進化論の一節を思い出して、私は大いに納得した。交わり合って、はじけて、海がつくられた。うつくしい、母なる海。尊い存在。
 しかし、私が同時に感じたのは、剥げたペンキのささくれに膝裏をくすぐられる不愉快さだった。日光と潮風に常時晒されているこの桟橋は、色褪せるのが恐ろしく早い。老朽化が進み過ぎているのだ。もう少ししたら、真新しいペンキで塗りなおしてあげないといけないかもしれない。いくらなんでも、こんな見すぼらしい姿をずっと晒し続けていくのは可哀想だ。けれど、側面に打ち付けられている釘なんかもすっかり錆びついてしまっているので、もしかしたらこの橋の寿命自体が近いのかもしれなかった。
 古びた桟橋から、ゆっくりと自らに意識を戻す。ゆらゆら、ちくちく。海水に浸る気持ち良さと、ささくれたペンキに攻撃を受ける不愉快さ。同時にまったく異なる感覚が共存しているだなんて、まるで私に対する皮肉のようだ。求めていやしないのに、海にも桟橋にも、私がここに存在している証明をされてしまっている。
 景色を眺めながらそんなことをぼんやり考えていると、ふいに、ちゃぽん、と水の跳ねる音が聴こえてきた。誰かが酸素を求めて海上に顔を出したのかもしれない。そんな期待をこめて音のしたほうへ視線を動かすも、やはりそこには何の姿もなかった。



 夏めいていた。気温も、日射しも、これまでの半生で経験したことがないくらい暑い。
 そう、暑いのだ。真上から急降下する太陽光。熱した鉄鍋のようにじりじりと焼けつく地面。うだるような熱気。蒸すような湿り気が全身を包み込んでいた。炎陽のせいで汗が過剰に噴出する。そのせいで服が肌にぺたりと貼りつき、湿気の膜のせいで皮膚がまともに呼吸できていない感覚がした。
 心なしか、空がいつもより高く、遠い場所に存在しているように思えた。不思議だ。
 風景が変わると見慣れているはずの空でさえ異物に思えてくるだなんて。空とは、あんなにも青々としたものだったろうか。海が近いせいなのだろうか。交じり合った群青が、見える範囲一帯で反射している。
 旅の途中でたどり着いたのは、小さな港町であった。大型の貿易船が停留するわけでも、観光客がどっと大勢押しかけるというわけでもない。ぎりぎり地図に名前が載っているようなこの小さな町に聞き覚えはなかった。
 だが、この町全体が活気づいて見えるのは一体どうしてだろうか。取れ立ての魚や野菜が並べられている色とりどりの屋台。見たこともない品物が並ぶ雑貨屋。がやがやと賑やかな声を立てて行き交う人の群れ。故郷ではおよそ見たこともない光景であった。
 一瞬その物珍しさに目を奪われたものの、強力な夏の日射しは否応なしに体力を奪っていく。このまま興味本位に行動するのは、どう考えても得策ではないだろう。
 暑さに慣れきっているのか、町の人たちはひょうひょうと歩いていた。健康的に日焼けした肌。見上げるほどに高い上背。自信に満ちあふれたような歩き方。成熟した彼らの足は、確固たる意思を持ってどっしりと大地を踏みしめている。子供の小さな足とは、まるで歩幅が違う。そんな彼らと対比するように自分の未熟な足を見つめていると、どうしたって恨みがましい気分になってくる。無いものねだりだとは分かっているが、思いどおりに歩けないのはやはり悔しい。
 だが、こんなところでくだらない嫉妬心を燃やしている場合ではないのだ。どこかに手頃な店は無いだろうか。いよいよ、暑くてめまいがしてきた。今すぐにでも暑気払いをするべきだ。
 視界がちかちかとし、体力の限界に近付いていることを悟る。きょろきょろと視線を動かすも、屋台ばかりで気軽に休めそうな店は目につく範囲ではなさそうだった。
 仕方がない。とりあえず木陰にでも逃げ込むしかあるまい。大通りを外れ、新緑が生い茂る大樹の下を目指した。
 こうしている間にも、汗はだらだらと流れていく。水滴が重力にのってぽたぽたと落下する。蒸発して大気に吸い込まれていく。
 木の下まで、目測でまだ十メールほどはある。足を動かすたびに、さわさわと揺れる木がだんだんと太く、大きくなっていくことに少しだけ安堵した。
 五メートル。ぜえぜえ、息が乱れてくる。あと、もう少しの辛抱だ。
 三メートル、二メートル、一メートル。やっとの思いで日射を遮る木の下にたどり着くと、ようやく一息つくことができた。直射日光に晒されないだけで、体感温度がまるで違う。木の根に腰をかけ背中を幹に預けると、緊張していた身体が一気に弛緩した。べたついた湿気のせいで呼吸を忘れていた皮膚も、やっと新鮮な酸素を取りこむことができたようだ。
 こめかみから、つーっと汗が滑り落ちてきた。喉はすっかりからからだった。
 まるで、物資の少ない砂漠の中で、希望に満ちあふれたオアシスを見つけたように性急に逃げこんできたは良いものの、このまま外気に触れていたら干からびてしまいそうだ。今、自分の体調管理をできるのは文字どおり自分しかいないのだ。目的を果たす前に体調を崩すわけにはいかない。きちんと補液をしなければ。
「えーっと……キミ、大丈夫?」
 ふいに、上方から声をかけられた。遠慮がちに降ってきた言葉に視線を泳がせるも、逆光で声の主の顔はよく見えない。ただ、声質からして同年代の少女の物だと判断できた。
 そして同時に抱いたのは、ふつふつと湧いてくるような憤りだ。
「大丈夫、とは? 一体どういう意味だ?」
「えっ? だって、具合が悪そうに見えたから」
「具合が悪いわけではない。夏の熱気に当てられただけだ」
 まさか、こんな場所で同年代の少女に侮られることになろうとは思わなかった。
 むすりと言葉を返すと、ぽかんとした一瞬の間のあとに「あははははは!」と彼女が大笑いする声が聞こえてきた。何だ、一体何に笑われているのかさっぱり分からない。文化の違いのせいだろうか。
「そうやって人を小馬鹿にするのはやめてもらおうか」
「はは、ふふ……ごめん、だって」
 まだ笑いを堪えきれないでいる彼女の声に、更にいらだちが募った。こんなふうに人から嘲笑されたことはない。ましてや、通りすがりの他人なんぞに馬鹿にされるなんてもっての他だ。
 じろりと睨みをきかすと、こちらの怒りを肌で感じたのか、ようやく彼女は笑うのをやめた。しかし、たとえ見えなくとも彼女の口角がつり上がっているのは声音で分かる。
「具合、ちっとも良さそうじゃないのに強がり言うから」
「強がりではない。単なる事実だ」
「この期に及んで、まだそんな言い訳する?」
 そうだ! と、彼女は勢いよく両手のひらをぱんと合わせると、突き抜けるように明るい声をあげた。その途端、ぐいと不意打ちに腕を引っぱられる。
「どうせなら、ウチにおいでよ! ここよりは格段に涼しいし、少しは休めると思うから」
「は?」
 彼女の言葉を噛みくだく前に、木陰から無理やり引きずり出されてしまった。
 全身が再び太陽の餌食となる。地面からの照り返しがまぶしい、暑い。何だか、今日は散々な目にあってばかりだ。挙句の果てに無理くり引きずり出され、行き先を勝手に選定されたことに腹が立った。一言、何か言ってやらなければ気が済まない。
 口を開きかけると、今まで逆光で疎外されていた彼女の顔が見えて思わず力が抜けた。辺り一面を照らす太陽の下にも関わらず、にこにこと柔和な笑みを浮かべる彼女。
 そんな彼女にすっかり毒気を抜かれてしまったからには、どうしたってトゲを含んだ言葉が生まれるはずもなかったのだ。



「どうぞ、座って」
 通された室内は夏の熱風を遮っており、彼女の言い分どおり確かにひんやりとして涼しかった。
 木目調のテーブルとイスに案内され、促されるまま腰掛ける。周りを見渡すと、同じ形のテーブルがいくつか並んでいた。すぐそばには古びたバーカウンターが。その脇には壁にぴったりと添うように大きな食器棚が置かれており、皿とグラスと様々な種類の酒瓶が几帳面に並べられている。
 磨りガラスのはめこまれた窓からは、外の光が柔らかく差し込んでいた。その先で、日の光を浴びた砂埃がきらきらと舞い上がっている。
 これまで視覚から仕入れた情報から推測するに、ここはダイニングバーの類なのだろうと脳内で結論づける。そのような店に足を踏み入れたことはなかったが、たとえ子供の憶測であろうとそう予想から外れていることもあるまい。
 しかし、ずいぶんと年季の入った佇まいだ。決して悪い意味合いでなく、良い年の取り方をしている店だと思った。重ねた年数の分だけ、きっとこの店で色んな人間が食事をし、酒を飲み、時には自慢話に花を咲かせ、幸福に笑っていたことだろう。素人目にも、そんな想像をかきたてられる店構えだと思った。
 だが、その割に店内はがらんとしており、生気はあまり感じられなかった。こんなにも活気のある町の一角にあるというのに。
 彼女は手慣れた動作で食器棚からグラスを取り出すと、ミネラルウォーターを注いでこちらに差し出してきた。そして、思い出したように「そうだ! ウチでとれた野菜も食べる? 新鮮でおいしいよ!」と、こちらがまともな返事をする前に、勝手口を開けていそいそと出て行ってしまった。開かれた扉から、むわりとした夏の外気が侵入してくる。
 きっと、彼女はせっかちで人の話を聞かないタイプなのだろう。この短時間のあいだで、彼女の人柄は何となく把握した。思いこんだら、一直線。そんな彼女の姿を見ていると、猪突猛進な母の姿が自然と重なった。母とは容姿と性格がそっくりだとよく揶揄されたものだ。
 母のことを思い出すと、次いで浮かんでくるのは父の姿だった。いつも自分のことを穏やかに見守っていてくれた、心やさしい父。その言葉にはたくさんの重みが詰めこまれていた。
 両親にはたくさんわがままを言い、たくさん迷惑をかけてきたように思う。今だからこそ、余計にそう思う。もう届かない言葉のはしばしを思い出し、ぎゅうっとしぼったみたいに心臓が痛んだ。まだ言いたいことはたくさんあったのに、埋葬されてしまった言葉たち。その対象となるのは、なにも両親だけではない。
 次に思い出したのは、賢くて勇敢な友達のこと。角みたいな髪型をした頑固な長老のこと。数多の同胞たち。すでに遠ざかった故郷は、喉がひりつくほどに懐かしかった。
「キミ、好き嫌いとかないー?」
 彼女の言葉で、思考が現実に引きずり戻される。
 扉から覗いた先で、夏野菜の群衆が整列しているのが見えた。緑黄色の鮮やかな色合いだ。彼女はトマトや水茄子をわしわしと豪快にもぐと、氷水を張ったボウルに手早く放りこんだ。かと思えば、慈しむかのような手付きで丁寧に泥を落としていく。
 彼女の手によって、ぴかぴかに磨かれた野菜たち。彼女は白磁の器にそれらを並べると、こちらも当然のように差し出してきた。
「本当はキーンと冷えたぐらいがおいしいんだけど、ひとまず騙されたと思って食べてみてよ」
「…………」
 真っ赤に熟したトマトはまさに食べ頃といったところで、表面がつやつやと輝いている。確かに美味しそうではある。が、こんなふうに他人から食べることを強要されたのは初めてだった。
 おそるおそるトマトに手を伸ばし、控えめにかじりつく。じゅわりと果汁があふれ、口の中いっぱいに甘味と酸味が広がった。瑞々しくて、ほのかに青くさい味がする。
 だが、太陽光をふんだんに浴びた、生命のみなぎるような味だ。甘味と酸味のバランスもちょうど良い。
「……うまい」
 ぽつりと呟いただけだが、彼女は満足そうに笑みをこぼした。「そうでしょ、そうでしょ」と得意気な声を漏らしながら。
 この世に偽善≠ェあることは知っている。お人好しを装って、他人を陥れようとする下心を含んだ人間が多数いることも知っている。だからと言って、彼女のやさしさを無下に否定する理由にはならないだろう。
「……その、先ほどの非礼は詫びよう。助けてもらったにも関わらず、すまなかった」
「へ? 別にそんなの構わないよ。困ったときはお互いさまって、昔から言うでしょう?」
 にこにこと、彼女は依然として笑っている。どうして先ほど会ったばかりの他人に対し、こんなふうに親切にできるのだろうと思った。
 きっと、彼女の性格は天性のものなのだろう。あたたかくて、透きとおるようで、彼女の言葉ひとつひとつに心が安らぐのを感じた。
 だからこそ、気付くことができなかったのだ。よくよく考える間もなく、安易な疑問がひとりでに口をついて出た。
「この店≠ヘ、君ひとりで切り盛りしているのか」
 見たところ自分よりいくつか年上であろう彼女が店を取りまとめているとは、どうしても考えられなかった。何故なら、この店内には不自然なくらい生気がない。
「数年前まではね、宿屋兼ダイニングバーを経営してたんだけど。今は休業中なの」
「こんなに立派な店構えなのに、休業する理由が? ご家族が不在なのか」
「死んだの」
 不意打ちの、「死んだ」という響きだけがくっきりと耳に残った。その強烈な文字列に心臓がどきりと跳ね、思わず目を見張って彼女を見やる。
「私も前までは店の手伝いをしてたから、店に立つ心構えとかは何となく分かるんだけどね。さすがに金銭勘定とか、経営のことはちんぷんかんぷんでさ。今、猛勉強中なの。これが休業の理由」
 彼女は笑いながらも、困ったようにつぶやいた。
 やはり、余計な詮索を入れるべきではなかったのだ。他人に深入りするのは良くないと分かってはいたはずなのに。彼女に何と声をかければ良いのか、まったくもって見当がつかない。
 どう返事をすれば良いか迷っていると、まるで何事もなかったかのように彼女はあっけらかんと会話を続けた。
「ところでキミ、ここらへんでは見かけない顔だけど、旅行者か何かなの?」
「……あぁ、そうだ。次の旅先への中継地点だから、この町にはたまたま立ち寄った」
「ふーん。それで、何泊ぐらいするの?」
「次の便が来るのが明日の正午だから、一泊だけする予定だ」
「じゃ、このままウチに泊まっていきなよ。その様子じゃ、どうせ宿泊場所も決まってないでしょ?」
 さも当然のように彼女が提案するので、逆にこちらが驚いてしまった。確かに宿泊場所をこれから決めようと思っていた矢先であり、彼女の申し出を断る理由もなかったのだが。
「……だが、迷惑では?」
「迷惑に思うんだったら、最初からこんな提案しないって! じゃ、寝床の準備もしておかないとね。シーツ干すから、キミも手伝ってくれる? ほら、こっちこっち!」
 またもやこちらが返事をする前に、彼女はすでに動き出していた。
 彼女はとにかく仕事をこなすのが早かった。次に何をすれば良いのか、てきぱきとこちらに指示を飛ばしてくる。正直に白状すると、家事の類はあまり得意とは言えなかったので、最初に指示を出してもらうとそれだけ動きやすかった。慣れない作業をこなすのに少しばかり手間取ったが、その代わり余計なことを考える必要がなかった。
 ただひたすらに身体を動かし、汗をかくだけ。こんなふうに、何も考えずに何かに夢中になって取り組むのは久しぶりだった。こんな感覚はずっと忘れていたように思う。



 彼女に言いつけられていた細々とした仕事を終えたため、彼女に声をかけようと思った。
 少し前に、「ちょっと外に出てくるから、終わったら適当に声をかけてくれる?」と彼女は店から出て行った。あれからどのくらいの時間が経過したのだろう。もうすっかり日は落ちかけており、橙色になった太陽が海面へ吸いこまれていくのが見えた。
 彼女を追いかけるように外に出ると、思いのほか探し人はすぐに見つかった。
 店の前に桟橋があり、そこにじっと佇んでいたからだ。じいっと、真剣に何かを見つめている。
 海か、夕暮れの景色か。その瞳が何に向けられているのかまでは分からなかったが。
 彼女に声をかけようと思ったが、まだ名前を聞いていないことに今さらながら気がついた。そうだ。よくよく考えなくとも、自分も彼女に名乗っていないではないか。
「あ、終わったの? 手伝ってくれてありがとうね」
 迷っているうちに、気配に気付いたらしい彼女がこちらを振り向いた。
 夕日の照り返しで、彼女の頬は橙に色付いている。
「君は、誰かを待っているのか?」
 どうして唐突にそんなことを聞きたくなってしまったのかは分からない。奇妙な感覚だが、するりと言葉が出てきてしまったのだ。
 彼女は面くらったように、一瞬だけその表情を変えた。
「どうして、そう思うの?」
「いや、深い意味はない。何となくそんな気がしただけだ」
 オレは馬鹿なのか。
 まさか、先ほどの失態を忘れたわけじゃあるまい。また安易に探りを入れて、余計な言葉を引き出してしまうところだった。自分はしばしば、人との距離を見誤る癖があるのだ。そうやって自覚をしていかねば、いつか取り返しのつかない事態に陥ることになるかもしれない。その人にとって何が地雷となるのかは、表面上だけでは分からないのだから。
「ね、キミはさ、イルカ≠チて知ってる?」
 彼女の問いかけは質問の答えにはなっていなかったが、それだけに彼女があえて話題を逸らしたのが分かった。
「イルカ? 文献でなら、見たことぐらいは」
 かつて何かの図鑑で見た、イルカの姿を脳裏に思い浮かべてみる。流線形の身体。灰色に近い皮膚。くぼんだ瞳。横長の口。ぎざぎざの歯。すらりと伸びた尾ひれ。知識として頭の中にはあるが、その実物を見たことはなかった。
「そっか。もしもどこかで出会う機会でもあったら、きっとやさしくしてあげてね。気の良い子たちばっかりだから」
 日が暮れてきたし、そろそろ屋内に戻ろうか。そう言って桟橋から離れようとする彼女に対し、慌てて声をかける。
「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかった。私も名乗らないまま宿泊させて貰うのは、さすがに違和感がある。差しつかえなければ君の名前を聞いておきたいのだが」
 決して詮索をするつもりはなかったのだ。一般常識として、人間の最低限の礼儀として、単純にその申し出をしたつもりであった。だが、人好きのしそうな彼女から寄越されたのは、実に意外な返答だった。
「別に、お互いに名前は知らなくても良いんじゃないかな。どうせ、思い出の中から擦り抜けていくだけなんだから」
 それは静かな、けれど強い意志を持った拒絶であった。

 宿に戻ると、まるで何かの穴埋めをするかのように彼女は色んなことを話しはじめた。毎年欠かさずに茄子漬けを作っていること、ここから何軒か先にある定食屋のアジフライがふっくらしていて美味しいということ。この町の名産品のひとつに数えられる岩塩は栄養価たっぷりでお土産にオススメだとか、童話だと美化されているけど実際に出会ったとしたら人魚姫は少し生臭そうだとか。昼間にもらったトマトと同じ畑でとれたらしい枝豆をつまみながら、彼女は必死に言葉をつむいでいる。
 写真の一枚もない、生気の失われている宿屋は静けさに満ちていた。彼女が懸命に話すたびに、どうしたって店の温度が失われているのを痛感してしまう。壁に備え付けられている灯りだけが、夕闇をゆらゆらと照らしていた。

「じゃ、キミの部屋はここだから。ゆっくり休んでね」
 おやすみなさい。その声が聞こえるのと同時に、ぱたんと扉が閉まる音がした。
 案内された部屋には、簡素なベッドとおもちゃみたいなランプが置かれていた。陽だまりのにおいのするシーツは、今日干したばかりのものだ。
 窓の外には、濃縮された夜が広がっている。星たちが絶えまなくささやきあい、眠りについた海からはやわらかいさざなみの音がする。海岸線に目を向けると、古ぼけた桟橋が息をひそめているのが見えた。窓を縁取る四角いウッドフレームが額縁みたいで、まるでこの景色を丸ごと絵画のように納めているみたいできれいだった。
 ベッドの中に入ると、間もないうちに緩やかな眠気に誘われた。今日はいろいろなことがあって疲れた。けれど瞼を閉じると、彼女の声がこだまする。
 ―― どうせ、思い出の中から擦り抜けていくだけなんだから。
 目には見えないのに、淡々とつむがれた言葉だったのに、あれは痛切な響きだった。
 明朗な彼女からはかけ離れたような言葉だ。もしかしたら、彼女の心のやわらかい部分には何かが根深く突き刺さっているのかもしれない。お門違いかもしれないが、そんな想像が膨らんできた。身に覚えがあるからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。だからといって、未熟な自分に何かできることがあるのだろうか。
 しばし瞑想にふけるうちに、意識は闇夜に溶けて消えた。



 ギィ、と廊下のきしむ音で目が覚めた。瞼を開けると、まず視界に入ったのは見慣れない天井だった。視線をずらすと、額縁のような窓に、おもちゃのようなランプが置いてあるのが見えた。
 そうだ、昨晩は彼女の好意で宿泊場所を提供してもらったのだ。小窓から外を見やると、空はまだ薄暗かった。すうっと息を吸いこむと、よどんだ夏のにおいがした。
 すっかり喉が渇いている。起きて水を一杯もらおうか。そう考えながら上半身を起こすと、まだ頭がぼうっとしていることに気がつく。何気なく窓の外に目を向けると、彼女が桟橋に腰掛けているのが見えた。
 その向こうで、海と朝日が溶け合っている。

「おはよう」
 そう声をかけると、彼女は驚きながらこちらを振り向いた。そんな特別な挨拶でもないだろうに、彼女はしばらく呆然とし、「あ、おはよう。昨晩はよく眠れた?」と取ってつけたような返事を寄こした。彼女の顔には、やはり動揺の色が浮かんでいる。
 図らずとも、その色を見て確信した。
「一宿一飯の恩義もある。もしも君が何か困っていたり、何かを探しているのだとしたら私にも手伝えることはないだろうか?」
 賭けるような気持ちでそう尋ねると、彼女はやわらかく微笑んだ。
「キミって愛想がなくて強情っぱりな人なんだと思ってたんだけど、本当はやさしい子なんだね」
 彼女は何か懐かしいものでも見たかのように、さらに目を細めた。
 ざぁざぁ、うしろで耳鳴りのような波音が聴こえてくる。
 少し、浜を歩こうか。彼女は静かに声を落とすと、砂浜に向かって歩き出した。
 波打ち際をたどっていくと、砂浜がやさしく足を包みこんでくる感触がした。このまま留まり続けていたら、きっと沈みこんでしまうだろう。この居心地の良さは、一種の逃避なのではないかと思う。
「キミが昨日聞いてきたとおり、仲の良かった子をずっと待ってるんだ。桟橋で会うのが私たちのいつもの約束≠セったの。大好きだった、イルカとの」
 ぽつり、ぽつりと彼女は話しはじめた。



 ―― また明日ね。
 その女の子は、にこにこと笑いながら手を振っていた。
 お日さまが空から消えて、夜がきた。どうして夜が夜なのだと分かるのかと言うと、空一面がぴかぴかと光るお星さまだらけになるからだ。
 夜が終わるとき、思い出したようにお日さまがやってくる。闇を照らすお仕事をするためにくるのだ。すると、彼女が言うところの明日≠ノなっている。
 明日になって、ゆらゆら揺れる海面から顔を覗かせると、当然のように女の子が待っている。色褪せた桟橋の上で、ふわふわ笑いながら「おはよう」とわたしに呼びかける。その声を聞くと嬉しくなって、言葉の代わりにぴゅーっと水しぶきを飛ばした。ますます女の子は笑う。
 彼女はこちらに向かって手を伸ばし、ざらついたわたしの肌に触れてきた。ちいさいけれど、やさしさを知っているかわいらしい手だ。さらに嬉しくなって、彼女に近づく。「今日は何して遊ぼうか?」呪文のように魅力的な言葉をつむぐ彼女に、うっとりと目を細めた。
 こうして、一日がはじまるのだ。
 彼女のお気に入りのものは、海底でお日さまの光を浴びて輝く貝殻や、ブーケになりそうな海藻だった。彼女の喜びそうな貝殻や海藻を見つけると、口にくわえて一目散に彼女のもとへ持っていく。彼女は目を丸くさせてそれらを見つめると、「また宝物が増えたよ。ありがとう」と頭をなでてくれた。
 さあ、次は何をしようか。急かすように彼女の腕をつつく。
 いるかちゃん、今度は向こうに行ってみようよ。彼女が指さす方向では、波の綾がちらちら光っている。
 そして明日≠フ終わりが近づいてきた頃、お決まりとなった彼女の声が聞こえてくるのだ。
 また明日ね。
 何度繰り返してきたか分からない、女の子との思い出。わたしの宝物。
 まだ夢を見ていたかった。あの子の喜ぶ顔を、もっともっと見ていたかった。でも、くったりとして身体に力が入らない。ぼこぼこ、あぶくが身体にまとわりつく。海面が少しずつ遠ざかっていく。それから、おもむろに意識は途切れていった。
 ―― また明日ね。
 それは、遠い過去の記憶だ。



「イルカってね、すごくかわいいんだよ。好奇心いっぱいでよくいたずらもするけど、傷付いた心には敏感で、そういうときはずーっと寄り添ってくれるの。とってもやさしい生きものなのよ」
 一緒に海底に潜ってきれいな貝殻や珍しい海藻を探したり、両親に怒られてふてくされてるときは頬をすり寄せてなぐさめてくれたり、好奇心が強くて色んなところを泳ぎたがったり、口で私の服のすそを引っぱっていたずらしたり。たまに、つまらないことでお互い意地になって喧嘩することもあったけど、毎日が楽しかった。
 不思議と、イルカと心が通じ合っていた。
 小さい頃からいつも一緒にいたからなのか、単に気の合う友達だからなのかは分からなかったけど。日が沈みはじめると、「また明日ね」と合図のようなお別れをする。別れが惜しくなるくらい、あの子はいつもそばに寄り添っていてくれた。
 でも、夜には店の手伝いがあったし、泣く泣くお別れをするしかなかった。両親は私が「看板娘」と呼ばれることが誇らしかったみたいで、そんな両親の期待にも応えたくって、店ではたくさん働いた。私が店に顔を出すと、お客さんたちが喜んでくれるのも分かっていた。私がイルカにするみたいに、いい子だね、偉いねって褒めてもらえるのがすごく嬉しかった。
 だからこそ、一生懸命お手伝いをした。すると、夜もぐっすり眠れた。明日が来たら、イルカと何をして遊ぼうか。そんなふうに考えを巡らせながら床につくのに、気付くといつのまにか朝になっていた。
 そんな折のことだ。あの子と出会ってからすでに十年は経過していた、あの日。
 いつものように「また明日ね」と約束を交わして別れた。空が灰色の湿り気を帯びているのには気付いていたけど、浅はかな私は気付かないふりをした。「また明日」が来ないだなんて、思いもしなかったから。
 その日は、数十年に一度の大嵐だった。
 雨が空気を切り裂くようにじゃあじゃあ降って、風が勢いをつけてびゅんびゅん吹いていた。豪雨と強風に降りつけられた窓がびりびり揺れて、窓ガラスには滝のように流れる雨粒がしたたり落ちていった。だから当然海は大しけで、屋内からでも怒ったように波を荒立てる海が見えた。
 その段になって、私は初めて後悔した。「また明日ね」と、いつもの調子でイルカと安易に約束≠交わしたことを。
 あの子は私の言葉に律儀に従って、この荒波の中で健気に私を待っているかもしれないじゃないか。そんな不安が頭をよぎると、もう気が気じゃなかった。どうしよう、どうしよう、と居ても立ってもいられず、心配になって外に様子を見に行こうとしたところを両親に厳しく叱責された。
 彼らは波に襲われた桟橋を指さして、お前なんかが行ったらすぐに波に攫われてしまうぞ、荒れ模様なんだから無闇やたらに海に近付くな、とすごい剣幕でまくしたてた。珍しく声を荒げた両親にひるんで、私はベッドの中に転がりこんでむっつりと泣いた。明日イルカに会ったら、いっぱい謝ろうと心に決めて。
 ごめん、ごめんね。そうつぶやいていると、シーツに涙が吸い込まれて濃い染みを作っていく。
 次の日は、前日の荒れ模様が嘘みたいに思える晴天だった。でも、いつもの桟橋でいくら待ってもイルカは来なかった。次の日も、その次の日も、そのまた次の日になっても、約束の場所にイルカは現れない。
 初めて約束を破ったから、裏切り者の私にはもう会いたくないのだと思った。
 だから、八つ当たりだと分かっていたのに両親に最低なことを言った。お父さんとお母さんのせいで、あの子と二度と会えなくなった。そんな大した天候じゃなかったんだから、黙って行かせてくれれば良かったのに。
 バカ、だいきらい、二人とも消えちゃえ!
 悲劇にひたるような気持ちで、私は一息に言いきった。両親は私を何とかなだめすかそうとしたけど、私はまったく聞く耳をもたなかった。小生意気にも、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いて拒んだ。
 元々は自分の落ち度のせいだったのに、その罪を両親になすりつけようとしたのだ。そうやって世界と断絶したら、心が軽くなるのだと迷信していた。
 だからあの時、「この間の大しけのせいで人手が足りないらしい。漁の手伝いに行ってくるよ。見かけたらイルカにも声をかけておくから」という両親の言葉にも、何も反応しなかった。
 次に家の扉を開けたのは、両親ではなかった。
 店の常連でもあった、漁師のおじさんだ。彼が青ざめた顔で私の肩を掴んできたとき、すでにいやな予感がしていた。背中にじっとりと脂汗が浮かぶ。
「運悪く暗礁とぶつかって、ご両親が乗っていた漁船が沈没した。助かったかどうかは、まだ……」
 言葉尻をにごした彼を見て、すべてを悟った。
 私のいやな予感どおり、両親は海難事故で死んだ。沈没した船と一緒に、海底深くで溺れ死んだそうだ。ろくに仲直りもしないうちに、彼らは私の言葉どおり本当に消えてしまった。本当に望んだわけじゃなかったのに、私が呪いのような言葉を吐いたせいで、その言葉どおりのことが起こってしまった。
 きっと神様は何もかも見透かしていて、愚かな私に、大切な人を大切にできなかった私に、天罰をくだしたのだ。
 大好きだった両親も、仲の良かったイルカも同時に失って、私にはこのお店しか残らなかった。
 両親にも、イルカにも、「ごめんなさい」って言えれば良かったけど、どんなに求めても私の声が届くことはもう二度とない。誰にも許してもらえないんだ、って考えたら心に重石が乗ったみたいに息が上手くできなくて、陸にいるのに溺れそうで、ひとりぼっちでいるのが怖くって。両親に二度と会えないなら、せめてイルカにだけでももう一度会えないかと淡い期待を抱いて、あの桟橋の上でずっと待ち続けている。
 でも、何年経っても、何年待っても、イルカは現れない。私だけがのうのうとこの世界に生きている実感をするだけだ。
「私が殺したも同然なのに。大事なひとをみんな、私が殺してしまったのに。私だけが、こうしてばかみたいに生きてる」


 彼女の瞳には、みるみるうちに透明な膜が膨らんできた。膜は盛り上がりながら肥大すると、たまらずにぽとりとひとつこぼれる。ひとつこぼれると、ぱた、ぽた、と続くようにしてあふれていった。
 ―― そうか。彼女はたったひとりぼっちで自分を責め続け、絶えず孤独と戦ってきたのだろう。
 日常の中で何かに取り組んでいても、楽しかったときの記憶がふいに蘇ってきて、言いようもない感情にとらわれる気持ちはよく分かる。
 好きだったひとや、大切に想っていたひとのこと。抜けるように明るい笑い声とか、やさしさで包みこんでくれるような喋り方とか、少しだけ変な癖とか、そんな些細なことを思い出すたびに、もう彼らと触れ合うことができない現実を思い知って、自分だけが世界に取り残されたような気がして。
 まるで暗い深海に沈みこんだかのように、絶望するのだ。
 目の前にあった幸福だけが突然切り取られた、あの日。前触れもなく全てを失った、あの日。心のやわらかい部分をえぐられた残酷なあの日のことを、いつまでも呪い続ける。世界を、他人を、自分自身でさえも、憎んでも憎みきれないくらい、身を焼き殺すくらい、ただただ憎み続けるしかないのだ。
 空洞になった自分を虚しさだけが駆り立てるが、それでも出口のない暗闇に圧迫され、押し潰されるのをひたすら待つしかなかった。
 けれど、彼女の場合は不運の重なった事故に過ぎない。彼女が業を背負う必要など何もない。
「君が自分を責める必要はない」
 彼女にかけた言葉なのに、それはまるで自分に語りかけるかのように反響した。
「君のやさしさは、たくさんの恩を受けた私がよく知っている。ご両親も、イルカも、私以上によく知っていたはずだ」
 そうつぶやくと、彼女の両目からは堰を切ったように涙がぽろぽろとこぼれだした。
 大粒の涙が潮だまりを作って、海を広げるみたいに砂浜へと落下していく。まるで子供のように顔をくしゃくしゃにゆがめ、押し殺した感情を思い出した彼女は静かに泣いた。
 ほたほたと、その頬にしずくが流れていく。本当は、彼女が平等に誰かにやさしくできるのと同じように、こうやって誰かに手を差し伸べて欲しかったのだろう。
 自分より少しだけ背の高い彼女の身体を引き寄せると、小刻みに震えた肩が頬に触れた。きっと、彼女も気付いている。
 ―― イルカは、海に還ったのだ。
 目の前の景色が彼女ごと紺碧色ににじむと、頬にあついしずくが伝っていった。
 むせかえるような、潮のにおいがした。



 焦げつくように熱い太陽に照らされて、夏の日差しの強さを思い出した。真上から急降下する太陽光。熱した鉄鍋のようにじりじりと焼けつく地面。うだるような熱気。
 別れは、もうすぐそこまで迫っている。
 港までお見送りをしたい、と彼女は言った。そんな彼女の心づかいが嬉しかった。
 彼女は台帳を取り出すと、少しだけ照れくさそうに「やっぱり、キミの名前を教えてもらえる? この台帳に名前を残して欲しいの」とおずおず声をかけてきた。
「私の名前で良ければ、いくらでも構わない」
 台帳とペンを受け取ると、紙の上でカリカリと文字を走らせる。彼女は興味深そうに視線を落とすと、「なんか、今さらで変な感じがするね」と笑った。でも、これで宿の復興をがんばれそうだ、と力強く言った。
「キミが私にとって初めてのお客さんだもん。この貴重な体験を、これからも大切にしていきたいの」
 そう言った彼女の瞳には、すがすがしい夏空が反射している。
「またこの町に停泊することがあったら、きっと会いに来る。約束≠セ」
「うん。待ってるから。クラピカ≠フこと」
 ぎゅうっと大事そうに台帳を抱えた彼女は、夏の日差しの中でまぶしそうに微笑んでいる。
 ボォー……。鈍く音を立てる汽笛が、出向を告げている。
 光り輝く夏が、今、はじまろうとしていた。

2019年9月1日発行
『ひととせ』様へ寄稿
(2020年11月16日再録)