誰にも気兼ねしない幸福な深夜帯。某ホテルにて、名称も味もよく分からないワインを何本か空けた。散らばったグラスには口紅の跡がべったりと付着している。だがそんなことは気にしてやらない。ふわふわと雲に乗ったような軽やかな心地であるし、世界が自分の物であるかのような錯覚に陥っているためだ。試しに出鱈目な歌を口ずさんでみる。思っていたよりは愉快だった。
 起きているのが怠くなってきたのでソファにごろりと寝転ぶ。そしてお気に入りである深紅のハイヒールを床に転がして、そこへ身を預けると身体は重力によってゆっくりと沈み始めた。地球に引きつけられているのだ、瞼も例外ではない。愉快ついでの歌が寝息へと変わり始めようとしていたとき、この状況に相応しくない携帯の姦しい着信音が鳴った。……うるさい。
 そのディスプレイには「ジャイアン」と表示されていた。襲いくる眠気に何とか打ち勝ち、蝸牛のような緩慢な動きで耳に携帯を当てる。

「……もしもし?」

 ―― 寝てたのか? 電話の相手はこちらの声音を察してくれたらしい。
 ならあなたは寝ないんですか? アルミホイルは? πの定義は? まるで思考がぶれぶれだ。脳みそに酸素が十分渡っていないような感覚がする。視界がぼやぼやと霞んでいて、今にも瞼が落ちてきそうだった。

「……うん、ワイン何本か飲んで……。 仕事は終わったの……?」

 ―― あぁ、それは滞りなくな。
 今回は大仕事になる、と珍しくご機嫌に話していた彼の姿を思い出す。良かったね、おめでとう。目的を達成出来てさぞかし嬉しいでしょう。

「……じゃ、もう本拠地に戻るの? それとも、こっちに来る……?」

 彼の居場所からこのホテルはそう離れてはいないだろう。かったるいが、酒を傾けながら自慢話に付き合うのも悪くはない。泥棒の手口など、きっと一生参考にすることはないだろうけど。
 しかし少しの沈黙を挟んで、彼はやけにはっきりとした口調で言った。

 ―― 無理だ。

「無理? って、どういうこと?」

 ―― しばらく会えそうにない。

 会えそうにない? その言葉に、少しずつ頭がクリアになってゆく。えーと、つまり、それは、具体的に、いつまで?

「……“しばらく”じゃ、曖昧で分からないんだけど。」

 いつか指摘されたことをそのまま仕返してやる。ざまあみろだ。

 ―― ふざけてるわけじゃない。 本当に断言できないんだ。 一月後かもしれないし、一年後、十年後の話になるかもしれない。
 ―― 要は、オレは今解消しなければならないトラブルを抱えている。

「……トラブル?」
「あぁ、それも厄介な類のな。
 そういうわけだ。 しばらくお前に構ってやる暇はない。」
「あっそう。」

 あたしが、いつ構えと言ったよ?
 若干苛立ったが、いちいち突っかかるのも馬鹿らしいのでそういった感情は何とか飲み込んだ。大概一方的に約束を取り付けるのは向こうからだし、何ら変哲のない、いつも通りのことだ。あたしに特権なんてないもの。

 ―― また連絡する。 最後に彼はそう淡白に告げて電話を切った。やはり説明不足感は否めない。
 もしも十年後に連絡が来たって困るんだけど。ヤツからの連絡を待つ間、あたしは好きに過ごしててもいいってこと?
 それならば、鬼の居ぬ間になんとやら。 洗濯は絶対にしようとは思わないけど、嬉々としてボーイハントにでも勤しんでやろうじゃないか。あたしの目標は恋人作りだもの。邪魔者がいない今が絶好のチャンスだ。
 でもその前に少し寝て、英気を養うことにしよう。再び目を閉じて、遠ざかってしまった眠気を待つ。コツコツと規則的に動く時計の針の音がやけに耳についた。さっきまで永眠する勢いで眠たかったはずなのに、すっかり目が冴えてしまったようだ。
 クッションを抱えて顔をうずめ、ごろんと体勢を変えた。だが寝返りも意味なし。これに抱きしめ返してくれる腕はない。そこで、視線は赤いボトルへと注がれた。

「……クロロのばーか。」

 一番上等なワインは、飲まずに取っておいてやったのにさ。
キーウィと舞踏会にて
170621