「クロロ、あたしの恋人になってよ。」
鼻をすすると、ぐず、と濁った音がした。確かに、鼻水が垂れるくらいには少し肌寒い。だが、衣服を身に纏っていないことだけがその要因ではなかった。“先程”の余波が確実に影響を及ぼしているのだ。
遠慮なく、ひとしきり泣いたこともあり、妙に清々しい気持ちになっていたのは事実だった。
ただ、瞼が重く腫れ上がっていて普段のような動作を成していない。さぞかし酷いブス面になっているのだろう。よりによって、クロロの前でこんな醜態を晒すことになろうとは思わなかった。しかし、過去の事象の入れ替えは不可能であるし、もはや在るがままを受け入れるしかない。あたしは、クロロのような完璧な美しさを所有しているわけではないのだから。
そんなわけで、“すっきりと投げやり”な気持ちになっていたこともあり、あたしは冒頭のようにうっかりと口を滑らせたのである。
未だに、こんな未練がましい思考に捉われている己が情けないったらありゃしない。
「あぁ、構わない。」
どうせね、クロロの言いそうなことなんて大方予測がつくわけ。きっと「恋人探しには懲りたんじゃなかったのか?」って揚げ足を取ったり、「お前のお遊びにわざわざ付き合うとでも思ったのか?」と邪険にあしらってくるに違いない。
……あれ? けど、“構わない”って、一体どういうこと?
「……は? 待って、今、なんて?」
「お前が“恋人になれ”、と言った。 オレは“構わない”と返事をした。 それだけだが。」
「えっ、ごめん。 ちょっと意味分かんない。 つまり、えっ……?」
クロロの返答は、あたしの脳内に甚だしい混乱を招いた。彼が肯定したということは、即ちその意味は……
「クロロ、あたしが恋人になっても良いの?」
「お前がそう望むならな。」
「え、どうして? 後になって“やっぱやめた”とか言ったりしない? ウチはクーリングオフ制度はやってないんだからね。」
「そんなに拘るような内容か? 戸愚呂との関係に“名称”を付けたからと言って、何らかの変化が生じるとは思えないんだが。」
うん、確かに、お互いの“性質”についてはある程度把握しているわけだし、一緒にいる上で支障をきたすことは何もないだろう。
けれど、あたしに取ってみれば、だ。ただの枕を交わす他人から、“恋人”へ格上げされるわけだから、人類が初めて月へ足をかけたかのような大きな第一歩となるわけで。それに、クロロを束縛する理由付けにもなる。
「恋人になるのと、ならないのとじゃ全然別物だよ。 これまでは一切気にしてなかったけど、恋人になった今、他の女にちょっかいかけたら今度こそ殺してやるからね。」
「なるほど、そこか。
その条件を呈示するのはオレとしては一向に構わないが、お前も同じ条件を呑むんだろうな?」
「え? あ、……そうなの? もしも良い男が現れても、手出ししちゃダメってこと?」
「当然だろ。 許すとでも思ったのか?」
そうか。恋人になっちゃったら、自分だけ美味しい思いをするのは容認されないんだ。あくまで、対等な条件で取り引きしないといけないのね。
あたしなんて世間一般ではまだまだ若い方だし、これからクロロなんかよりもずっと素敵な男性と巡り会う可能性に満ちているのに。もし理想的な男性が現れたとしても、“クロロのせい”で指を咥えて眺めるしかないっていうの? そんなの、ただの生殺しじゃない。
想像してたより、恋人になるって面倒なことだったのね。やっぱりあたしには向いてないのかも。付き合うのやめよっかなぁ、と軽く言いかけたら、クロロから厳しい眼差しを向けられた。
「クーリングオフはやってないんだろ? ルールに従えよ。」
「いやでもほら、男女の関係にクーリングオフも何も……。」
「お前、自分の発言に少しは責任を持て。」
いや、お前こそさっきは「拘るような内容か?」とか言ってたじゃねえか。忘れたとは言わせねえぞ。
ここで執着心見せるぐらいなら、始めから立候補でも何でもすれば良かったじゃねえかよ。あたしが「運命の王子様を探してる」とか「恋人が欲しい」ってほざいてんのは今に始まったことじゃねえだろ。何だ? もしかして本当はずっと拗ねてたのか? あたしがクロロを欲しなかったから? これだから男って面倒くせえな。追えば逃げるし、逃げれば追って来るしで。
っていうか! いつもいつも、何で全部あたしから言わなきゃならないのよ! 腹立つ!
あたしは“クロロが特別”だと、既に白状してしまった。つまり、彼の立場を益々優位なものにしてしまったわけだ。
弱味を握られてしまった腹いせに、ずけずけ言い放つ。
「クロロって、本当はあたしのこと好きなんでしょ。」
どうせクロロからの反応なんて識れていた。期待なんて、最初からしていない。
しかし、彼は意外なほど素直な返事を寄越した。
「恐らく、そうなんだろうな。」
お前といると、オレはいつも空回ってばかりだ。 ―― と。
“空回る”と表現した割に、やけに冷静な分析だった。かつてそんな様態は全く見せたことがないくせに、クロロは実に白々しい。
「ふぅん。 そうなの。」
「信じてないな、お前。」
「だって、クロロの話っていちいち嘘くさいんだもの。」
「戸愚呂に対して偽証するつもりはない。 する意味もないしな。」
「へぇ、じゃあはっきり言ったらどうなの?」
“特別な相手”に、よくぞここまで横柄な態度を取れるものだ、と我ながら少し感心した。
顔はブスだし、性格もブスだし、家事も出来ないし、ほぼニートのようなものだし、あたしって本当に良いところがない。クロロがこんなあたしを許容してくれてること自体おかしいのに。
だが、クロロはあたしを正面から見据えて、実直に言葉を重ねた。
「容姿も、声も、その面倒な性格も含めて、少なくとも知ってる女の中では一番好みだ。
これ以上に弁明が必要か?」
あたしの反応を伺うようにクロロは意地悪く笑ったけど、さすがに真顔で全てを受けとめるだけの技量はあたしには無かった。「そ、そうですか……」と声音は徐々に尻すぼみとなっていく。くるりと彼に背を向けると、背後で笑う気配は大きくなった。
「照れてるのか? お前から求めてきたくせに。」
「う、うるさい! 余計なこと言うな!」
こんな風に、初心なあたしをからかって遊ぶなんて酷い。自分だけ余裕綽々なんて狡い。あたしだけ夢中にさせるなんて忌々しい。
本当に頭にきたから、「好き」だなんて一生言ってやらないから!
カーテンコールのその前に
171113
本編はこれにて凍結致します。ここまでお読みになって下さり、本当にありがとうございました。