※非道徳的。内容要注意。
※きわどい性表現に触れている部分があります。















 あたしは、左手に刻み込まれた傷跡をこよなく愛している。この跡はあたしにこの上ない安寧を与えてくれたし、悦楽に浸りこむ術を教えてくれた。
 傷があること自体に喜びを見出しているわけではない。他でもない“兄”が付けてくれた傷だから、自分にとってかけがえのない証となったのだ。それはいつしか、存在意義にも等しい己の半身へと昇華し、あたしの思想全てを飲み込む有毒性を孕むのだった。


 よろり、と力なく立ち上がると下腹部がずきんと痛んだ。
 普段は念入りにセットしている髪はほつれてボサボサに。頬には乾いた涙の筋が幾重にも連なっていた。さらに衣服には皺が寄っており、スカートの端には薄っすらと何かの血痕が付着していた。
 この姿を見たら誰もが不審がるに違いないが、自室へ戻るにはこの廊下を渡らなくてはならない。

「どうしたの、その恰好。」

 それゆえ誰にも悟られないようにするつもりだったのに、よりによって一番会いたくない人物に見つかってしまった。
 兄であるイルミは散々な有様になっているあたしの姿を見て、やはり訝しげな視線を向けた。
 この鋭敏な兄の前で、魯鈍な己が言い逃れ出来るはずもない。
 けれど、言うべき言葉は何も浮かんでこなかった。その代わり鼻の奥がツンと唸り、たちまち目頭が熱くなってきたので慌てて顔を伏せた。
 それでも、兄の声音は平生通り変わらない。

「……もしかして、ヤられちゃった?」
「ち、違うよ! 仕方がなかったの!」

 弁明のため顔を跳ね上げると、冷然とした瞳があたしを捉えていた。
 そんな兄の眼差しにあたしは怯む。
 でも、だって。そういう行き違った解釈が一番困るのだ。あくまで、あたしが優位に事を進めた。そうでなくてはならない。あたしは易々と虐げられるような弱者ではないのだから。
 けれど、これではまるであたしが虚勢を張っているようにしか見えないだろう。

「じゃあ、何で後悔してるわけ?」

 膜を隔てない兄の言葉はずしりと重くのし掛かり、コールタールの海に沈み込ませたかのようにあたしをドロドロに塗りたくった。別段叱責を受けているわけでもないのに、腹の底からきゅうと凍てつくような感覚に陥ったのは何故だろう。
 あたしが返事を出来ないでいると、兄は無心な響きで呟いた。

「……ま、いいや。 話は後で聞くから、先にシャワーでも浴びてきたら?」

 そうする、とやっとの思いで紡いだ言葉はじんと滲んだ音がした。

 ◇

「やっぱり最初は“痛い”わけ?」
「痛かったよ、すごく。 異物に肉を引き裂かれるようなもんだし。」
「ふぅん。」

 自ら話題を振ってきた割に、兄はそこまで興味がなさそうだった。
 しかし、今日はどういうわけか“兄らしくもなく”、兄のような振る舞いをしてくれる気になったらしい。シャワーを浴び終えたあたしからタオルを奪い取ると、ガシガシと乱暴に頭を拭いてくれた。水滴がパラパラと床に飛び散るような乱雑さなのに、何故かひどく心地が良かった。

 じっ、と兄の視線が自分に絡む。
 深海のような暗い瞳を眺めていると、つくづく考えてしまうのだ。どうしてあたしはこの人と血を分けて生まれてきてしまったのだろうか、と。
 家族として役立つわけでも、女として求められるわけでもない。能無しで、半端者な自分。存在価値がないのならいっそ殺してくれたって構わないのに、兄は“妹である”自分を殺してはくれない。
 本当は、考えたくもなかった。

 この人も、誰かに異物を突き入れたい衝動に駆られることがあるのだろうか。もしそうだとしたら、その相手にはどんな人間を選ぶのだろう。綺麗で、可愛くて、魅力的な人かしら。
 そんな人物がいたとしたら、理性を捨てたあたしの思考はぐちゃぐちゃになって、どろどろになって、言いようもない憎悪に身を焦がすことになるのだろう。
 浅ましい自分に身を堕としたくない。けれど、醜悪な嫉妬心から逃れる術も持てない。

「……あたしも、お兄ちゃんの一番になれるものが欲しかったな。」

 ぽつりと吐き出した言葉は、この世で最もくだらない思想を反映していた。
 それでも兄が反応をくれたのは、その血の繋がりゆえだ。

「何言ってるの。 そんなものあるよ、沢山。
 一番うるさい、一番厄介、一番面倒くさい。」
「……そういうネガティブな意味じゃなくってさぁ、」
「それに、妹としては戸愚呂が一番だよ。」

 普段より殊更柔らかく感じる兄の声。
 そんな不意打ちの言葉に、あたしの心はぶわりと舞い上がりそうになる。

「だって、あたし以外に“妹”がいないんだからそんなの当然じゃない!」
「なんだ、さすがにバレたか。」
「バレるよ、そりゃ。 戸愚呂を何だと思ってるの。」
「妹でしょ、たった一人の。」

 ―― “たった一人の”。
 事実そうであれ、その言葉が兄の口から飛び出してきたことに意義がある。
 どうして、だとか。何故、だとか。いちいち疑問を抱いたところで答えは何も見つからない。けれど、それでも尚、あたしは。

 ……好きだ。お兄ちゃんが好きだ。世界で一番好きだ。
 何を差し出したって、何を捧げたって構わない。だからきっと、あたしの傍から離れないでいて欲しい。
 悲嘆に暮れているのか、恍惚に浸っているのか判別つかない感情の中、もし次に生まれ変わったのなら赤の他人になれますように、とあたしは密かな願いを紡ぐのだった。
わたしの半身
180314