茜色に染まった世界。ヒソカさんと出会ったのは、丁度こんな夕日暮れのことだった。
 まんまるに、けれど底辺の形を歪めつつある夕日を見て「あぁ、トマトが食べたいなあ。」なんてことをぼんやり考えながら歩いていた。そうしたら、ぼんやりついでに真正面から彼にぶつかってしまったのだ。あたしは素直に謝罪(と少々の釈明)をした。トマトのことを懸命に考えていたので前がよく見えていませんでした、と。わざわざ“懸命”と付け加えたのはあたし自身の過失をなるだけ悟られないための悪あがきである。
 しかしながら、ぼんやりてろてろ歩いていたはずなのに、ごつり、と骨と骨が丁度ぶつかり合う感触がしてとっても痛かった。なので、きっと彼も同じような感覚を味わっただろう。しかし彼はさして気にする素振りも見せず、「懸命にトマトのことを考えるなんて変だよ。」と妙にきっぱりとした口調で言った。
 それが、ほんの少しの始まり。

 ◇

 あたしは、ちっちゃなサーカス団の一員として働いている。一員と表現すると何だか大仰な感じがしてしまうが、この小さな組織の中であたしが担う役割はさらに小さい。(もしかしたら、アリンコと同等くらいかもしれなかった。)
 あたしの仕事は主に掃除と荷物運び。それと、前座の前座で少しばかり芸を披露させてもらっているだけだ。あたしの芸は造花を出したり消したりするだけの有り触れた手品に過ぎないので、客にはすこぶるウケが悪い。そのためお給金は少ないけど、ちゃんと家賃だって支払えてるし(日射の悪い築何十年も経ってる手狭なボロアパートに住んでいる)、贅沢をしなければご飯にも困らないので(安いスーパーで安い食材を細々買って自炊をし何とか食いつないでいる)、特に生活に不自由はない、と思われる。

 ぶつかってしまったあの日、ヒソカさんにはお詫びと称してサーカスのチケットを押し付けた。(お詫びと称した、チケット捌きのノルマを減らすための口実であったことは否めない。)
 チケットは一番安い1800ジェニーの末端の席。「あぁ、じゃあ行こうかな。」大した関心も無さそうに、彼は社交辞令を口にした。
 けれども、その数日後口上通り彼はショーに現れた。まさか本当に足を運んでくれるとは思わなかったので、それはそれは驚いてしまった。世間には、こんな稀有な人もいたのね。
 しかし、あたしの芸を見てそれ以上に驚いていたのはヒソカさんの方だった。

「キミ、念を使えるんだ?」
「あれ。 気付いちゃいましたか、手品のタネ。」

 そう、あたしは手品に念能力を使用している。この真実に気付いた人は、実のところヒソカさんが初めてだった。

「何で、わざわざそんな面倒なマネを?」

 改めて問われると、気恥ずかしくなってしまう。これでいて、有名なマジシャンになるのが夢だったのだ。

「いや、それがですね、 いくら練習しても手品が全然上手くならなくって。 要するにマジシャンになる才能がなかった、ってことなんですけど。」
「でも絶対に、念の修行の方が大変だよね? ましてや具現化系の修行なんてさ。」
「はい。 そりゃあもう、イメージ修行に何十時間、何百時間かけたことか。」
「……やっぱりキミって、変だよ。」

 ヒソカさんはすっかり呆れたように言ったけど、それからというもの彼はちょくちょくあたしの芸を見に来てくれるようになった。一見ピエロをリスペクトしたみたいな格好をしているのでサーカスが好きなのかと思って聞いてみたけど、別段そういったわけでもないらしい。
 ヒソカさんこそ、変な人だ。

 ◇

 あたしの念能力は、大体手のひらサイズに収まる物(造花とかコインとか文房具とか)を具現化する能力だ。生きている物はダメで、無機物限定。だから鳩を出してみせろ、とか注文をつけられてもちょっと困ってしまう。
 せめてトマトだけでも具現化出来たら良かったのになぁ、とこの頃思ったりするけど、無い物ねだりしたって仕方がないのですっぱり諦める。
 そうこうしているうちに、性懲りもなくトマトを食べたくなってきてしまった。こうなってしまうと、もう止まらなくって頭の中はトマト一色になる。甘くて、酸っぱくって。赤くって、ちょっと青くさくって、みずみずしくって、まるまる太ったあの子。こういう時、あたしはどうしようもない気持ちに駆られながらいそいそと八百屋さんへ駆け込むのだった。
 トマト、トマト。魅惑のトマト。

 ◇

 今日のあたしの芸を見てくれたお客さんは、たった一人。
 ヒソカさんだけだった。

「今日も、ご足労ありがとうございました。」

 ぺこりと頭を下げる。ヒソカさんは別に構わないよ、と言う。
 いつも通りの仕事からの帰り道、ヒソカさんと並んで土手を歩いた。夕暮れ時で、影が伸びて、ヒソカさんのそれとゆっくり重なった。
 なんとなくこそばゆい感触が胸の内でして、あたしは無意識に口を開く。

「そうだ。 ゆうべ、トマトを使ったスープを作ったんですよ。 ウチで食べて行きませんか?」

 ヒソカさんの頬は、西日を受けて茜色に染まっていた。

「へェ、そうなんだ。」

 彼の声音がいつも以上に平坦だったので、あたしは安易に家に誘ってしまったことを少し後悔した。どうして、こんなことをついつい口走ってしまったんだろう。焦ったのかな。何に、焦るのかな。もしかしたらヒソカさんに軽い女だ、って思われてしまったかもしれない。思われたって、困ることは何一つないのに。ぐるぐるぐるぐる、思考が回る。
 でも、本当に何の下心もなく、社交辞令でもなく、単なるお礼のつもりだった。そう、御礼。一種の感謝のかたち。小汚い場末のあばら家に客を招くなんて、恩を仇で返すようなものなので、そっちの方がよっぽど非礼だったろうけど。そんなことは微塵も脳裏に浮かんでこなかった。

 彼はしばし迷った風を装ったあと、「せっかくだけど、やっぱりやめておくよ。」と単調な返事を寄越した。
 「そうですか。」そう呟いたあたしの声は、至極残念そうな響きをしていた。
 彼は夕日を見つめながら言う。

「トマトじゃあ、別の物を連想しちゃうからね。」

 ―― それにキミなんて、小指で小突いただけで簡単に壊れそうだ。
 ヒソカさんは薄く笑った。

 あぁ……。次は、ナイフを具現化出来るようにしよう。すぱっとトマトが切れる、小振りなやつでいい。無事に具現化することが出来たら、名前を付けて愛でてやろう。そうして、大事に大事に、育ててやろう。
 彼の目の端を捉えながら、ぼんやりそんなことを考えた。
魅惑のあの子
170814