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 外出試験に合格して、無期限の外出許可を貰って、いよいよ出立の前夜となった。図らずしも緊張してしまうのは仕方のないことだ。しかし、旅路の門出に相応しく明日は晴れるだろう。何故かそんな予感がした。そして、きっとその予感は当たる。幸先が良いに越したことはないのだ。出来うる限り、良い日にしようと思った。

 旅支度を整えながら、これまであった様々な事を思い返してみる。
 シーラと出会い、冒険に憧れたこと。D・ハンターの言葉。ガケから落ちてパイロに怪我をさせてしまったこと。試験は上手くいかなかったのに、そのパイロに助けられたこと。親切にしてくれた老婆に「赤目の化物」と罵られたこと。そして、戸愚呂と過ごした日々の一切を。
 ―― 昔、激昂した戸愚呂の姿を一度だけ見たことがある。彼女の瞳は真っ赤に染まっていて、その色は緋色というよりは紅色に近い鮮やかな赤で。不謹慎にも、“綺麗”だと思ってしまった。以来その色を目にすることはなかったが、今でもあの鮮やかさを忘れることはない。外の世界では、あんな美しさも化物と蔑まれる対象となってしまうのだろうか。

「クラピカ、お客さんよ。」

 そんな思いを巡らせていると、突然戸愚呂が家を訪ねてきた。しかし、あまりにタイミングが悪すぎた。彼女との会話を両親に聞かれたくなかったので、問答無用で外へと連れ出す。木陰に移動してから、「いきなり、なんだよ。」とぶっきらぼうに言ったオレの声は随分上ずっていたように思う。戸愚呂を前にすると自然と心臓が走り出してしまうのだ。
 反して夜空には、星が静かに瞬いていた。

「多分、明日はお見送りに行けないと思うから……。 今のうちに、顔ぐらい拝んでおこうかと思って。」
「……う、うん。」

 どことなく気まずそうに戸愚呂はこぼした。始めから矛盾している彼女は、オレの顔を見ようともしない。ぎゅっと服を握りしめていたので裾まできっちり皺が寄っていた。そこに視線を奪われたのは、戸愚呂の手が思っていた以上に小さかったからだ。自分のささくれ立った手とは全然違う、柔らかそうな手。きっと、握りこんだらすっぽり覆えてしまうだろう。そのぐらい小さい。
 彼女は顔を俯けたまま、言葉を続けた。

「……その。 旅には、あたしが一番可愛がってたピコを連れて行ってほしいの。」
「分かった。 ……でも、いいのか?」
「うん。 きっと、あの子ならクラピカの役に立ってくれるはずだから。」

 ちら、と伺うように戸愚呂はオレに視線を寄越した。彼女の瞳は不安げに揺れている。ひどく久しぶりに、彼女の瞳と対面した気がする。
 見慣れているはずの顔が、夜風に晒されて全く違った印象に見受けられた。十数年共に過ごしてきたはずなのに、薄情なものだ。目も鼻も口も、耳の形も。確かに戸愚呂のものなのに、怖くなるぐらい異性を感じてしまう。胸がじいんじいんと痺れて痛いぐらいだった。

「戸愚呂、」

 勝手に動き出しそうになる身体を必死に留める。
 言いたい。言えない。
 離れたくない。離れなきゃならない。
 そんな葛藤にずっと苛まれてきた気がする。オレは自分で認識していた以上に、己の情動を押し殺してきたようだ。
 これは、もしもの話、だ。パイロの目と足を治してくれる医者を見つけ出して、一緒に旅が出来るくらい彼が回復したら。彼と対等な立場となることが出来たなら。
 少しぐらい望んだって、バチは当たらないんじゃないのか。少なくとも、ひと匙の言葉を投げかけるぐらい許されるんじゃないのか。彼女が応えてくれるかは別の話として、だが。
 出立に後腐れを残したくない。そして、人生に置いてもう後悔なんてしたくない。決心してしまうと妙に気持ちがすっきりして、オレは心臓を鎮めるため大きく息を吸い込んだ。
 そのまま戸愚呂の両肩を掴むと、彼女の瞳は更に揺らいだ。けど、今度はどちらも目を逸らさなかった。

「オレ、戸愚呂に伝えたいことがある。 この旅を成し遂げることが出来たら聞いてほしい。」

 するりと、案外言葉は素直に出てきた。
 戸愚呂は瞳を潤ませながらも、黙って頷いた。その拍子に真珠のような涙が一つだけ零れ落ちて、暗闇へと消えた。穢れを知らない美しさに思わず見とれてしまう。きっと、この世界のどこを探したってこれ以上に綺麗な景色なんてあるはずがない。こういった瞬間を体験するからこそ、人は人生の伴侶を探したくなるのだろうか。もしかしたら、父さんと母さんもこんな気持ちを味わった一人なのかもしれない。

「行ってらっしゃい。」

 戸愚呂は蜂蜜色に微笑んで、そう言ってくれた。静かな、優しい響きだけを残して。
 しかし、その言葉が何よりも心強かった。

 6週間後ニュースで報道されたのは、名付けようもない絶望だ。

 故郷には血の海が広がっていた。鼻につく異臭。凄惨な現場。上手く呼吸が出来たかどうかは分からない。
 そして、見つけてしまった。本当は目にしたくなかった。信じたくなかった。
 そこには、“彼女”がいた。椅子に括り付けられている身体が纏っている服装に見覚えがあった。
 それは、人間というより肉の塊だった。眼球は抉られ、顔も身体も判別不可能なほどぐちゃぐちゃに切り刻まれている。傍らで人形のように横たわる首は、無音のままこちらを向いていた。最期に何を訴えたかったのか、もはや知る術はない。
 行き場のない激しい憎悪が込み上げてくる。しかしそれ以上に、悲しかった。乾いた頬に涙が伝う。

 128人の同胞達は、両親は、パイロは……。
 戸愚呂は、死んだのだ。
 この世のどこを探したって、もういない。

170809