―― 次いで、襲ってきたのは二本の大きな腕だった。視界が“シャル”でいっぱいになる。
この“状況”を頭で理解したときには、あたしの身体はシャルの腕の中に閉じ込められていた。
互いの身体が隙間なく密着して、体温とか、息遣いとか、匂いとか、鼓動の類一切を明け透けなく露呈させていた。シャルの、男のひとの身体がこんなにも硬くて広いだなんて、あたしは生まれて初めて知った。いや、今まで一度も知ろうとしたことが無かったのだ。
生乾きのあたしの髪から水滴が垂れて、シャルのTシャツに吸い込まれてゆく。じんわりと濃淡が変わっていくその様を、あたしはざわつく気持ちで眺めていた。
「シャル……?」
困惑して名前を呼ぶと、返事の代わりに腕の力が強まった。あたしとシャルの距離が、ますます縮まる。
首筋にシャルの吐息がかかる。シャルの髪からはあたしと同じシャンプーの香りがした。その事実が妙にくすぐったく、更なる羞恥心を誘う。
「……シャル、」
不安に駆られてもう一度名前を呼ぶも、やはりシャルからの返事は得られなかった。
静かな部屋では、シャルの鼓動の音がやけにうるさく響く。ぎゅう、と心臓を思いきり鷲掴みされたように、痛いくらいの躍動だった。
どうして“シャル”の鼓動なのに、その“痛み”が伝わってくるのだろう。どうしてどくどくと、心臓が脈打ってるのが分かるのだろう。どうして血液が身体中を忙しなく駆け巡っているのを感じるのだろう。
しかし、いくら疑問が湧いたところでそれが解消されることは無かった。
そうして何も答えを見つけ出せないまま、あたしの身体は金縛りに合ったかのように動けなくなった。
その代わり、あたしを取り巻いてきた“過去”が走馬灯のように頭の中へなだれ込んできた。
―― 流星街。
―― ゴミの山。
―― 星空。
―― 宝探し。
―― エメラルド。
その一つ一つ全てが、あたしという人間を確かに形成してきたのだ。
遠い過去の記憶が、脳裏に蘇る。
―― ほら、手貸しなよ。
そう言って手を差し伸べてくれたのは、柔らかな金色の髪をした少年だった。
皆について行けないダメな自分を一番気にかけてくれたのは“その子”で、彼はいつも振り向いてあたしのことを待っていてくれた。あたしは、彼の翠色の瞳が自分へ向けられるのがとても好きだった。彼の瞳があたしを捉えると、“価値”の無い自分が少しだけ特別な存在になったような気がして嬉しかったのだ。
数え切れないくらいの時間を共有し、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていた。そして、未だに“この関係”は断ち切れず続いているけれど。
―― けれど、だから何?
自問自答をしたところで、自分が何を求めているのかは分からなかった。
―― “シャル、突然どうしたの?”
本当はいつものようにおどけて、そう尋ねてしまいたかった。ただの冗談として済ませたかった。そうして一刻も早く自分を解放してあげたかった。
けれど、喉の奥に声がつかえて上手く言葉にならない。肥大化した心臓に肺胞が圧迫され、呼吸をするのでさえままならなかった。
その窮屈さから逃れるため少し身じろぎをすると、耳の後ろで「戸愚呂、」と切羽詰まったように名前を呼ばれた。
それはまるで耳馴染みのない響きであり、かつてシャルからそんな風に呼ばれたことは一度としてなかった。
同時に少しだけ腕の力が緩んだので、圧迫感は多少和らいだ。あたしは恐る恐る顔を持ち上げてシャルの様子を窺う。すると、彼の双眸が熱を帯びていることに気が付いた。
その視線の色に、心臓が再びきゅうと唸る。
シャルの手が腰元からうなじにかけて迫り上がっていく。そのまま後頭部に手が回ると、ぐっ、と再度距離を詰められた。
焦れた翠色の瞳が、緩やかに近付いてくる。
―― もしかして。
―― もしかして、このままシャルと……。
そう思ったのも束の間、我に返ったらしいシャルははっと息を呑むと、勢いよくあたしの身体を突き放した。為す術もなく、あたしとシャルの距離は“元通り”広がった。
シャルはバツが悪そうに俯いて、あたしから顔を逸らした。従って、シャルが今どんな表情を浮かべているのかは分からない。
……ねぇ、シャル。言ってよ。
からかったんだ、って。間に受けるなよな、って。
いつもの調子で言ってよ。そしたらあたし、騙された振りをしてあげるから。だから、そうやって二人でいつものように笑い合おうよ。
けれど、シャルが次に何を言うのかあたしには手に取るように分かってしまった。
「……戸愚呂、ごめん。」
シャルはそう短く呟くと、そのままあたしから離れて行ってしまった。
180725