―― 来る、きっと来る。
 まるでどこぞのキャッチコピーのような文言が、ふとヒソカの脳裏に浮かんできた。

 それは、月が真珠のように輝く真夜中のことであった。ホテルの窓際でヒソカはくつろいでいた。
 高層ビルが立ち並ぶ隙間から、月明りが流れるように差し込んでくる。今宵の月はうんざりするほど目映い。美しい物に心損なわれる天邪鬼な気質を持っているわけではないが、ここ最近の“月”の態度には軽く、いやくどくど説教をしたいとさえ思ってしまう。
 人間、暗闇に浸りたいときだってあるのだ。こんなにも世界を明るくしてどうする。静謐な夜を満喫できないではないか。月にはもっと、謙虚な姿勢を見せてもらいたいものだ。
 と、こんな下らない妄言を披露したのにはわけがある。近頃、ヒソカにはちょっとした悩みのタネがあるのだ。
 ちら、と時計に目を移す。恐らく“そろそろ”だろう。

 ―― 来る……!

 “その瞬間”、背筋がぞくっと過敏に反応した。次いで辺りの空気が一瞬歪むと、蕾が花開くかのように突然目の前に女が出現した。その様はまるで奇術のようである。
 彼女はヒソカを視界に捉えると、満面の笑みを浮かべた。

「ヒソカさん、こんばんは! 今日もお元気に過ごされていましたか? 私、とってもとってもとってもヒソカさんに会いたかったです! 一日って本当に24時間なんですかね? 私、一日千秋なんて言葉では片付けられないくらいこの瞬間を待ち焦がれていましたよ! そう、まるでおとぎ話の世界にでも閉じ込められたみたいに何十年も何百年も経過したような気分でした。朝起きたらまずヒソカさんのことを考えて、歯磨きして、ヒソカさんのことを考えて、天気予報見て“あー、今日も会えそうで良かったな”って安堵して、でも唐突に雲が増え始めると心配になって、お願い晴れてせめて“月を隠さないで”って一生懸命お祈りして、雨乞いを試みる民族に抗議の手紙を送ったり、てるてる坊主を作ったり、でもやっぱりヒソカさんのことを考えたくなって、天空闘技場でのヒソカさんの雄姿を収めたビデオを何回も何回も擦り切れるくらい視聴して、そしたらやっぱりヒソカさんのことが愛おしくなってしまって、ヒソカさん今なにしてるんだろうとか、ごはんはちゃんと食べたのかしらとか、変な輩に言い寄られたりしていないかしらとか、そうやって寝食も忘れてヒソカさんに没頭しちゃうくらい色々考えてたらいつの間にか無事に一日が経過してたみたいです。あー、良かった。
 あっ、安心したらちょっと小腹が空いたのでルームサービスでも頼んで良いですか」

 彼女はお得意のマシンガントークで一方的にヒソカの言論を封じると、許可も得ないままルームサービスに電話をし始めた。次いで「エビ」「ブロッコリー」という単語が聴こえてきた。

 ヒソカの予想通り現れた女の名前を、戸愚呂という。
 彼女は何もない空間から一体どうやって出現したのか。種も仕掛けもございません、というわけでは勿論ない。端的に説明してしまえば、これが彼女の念能力なのだ。ちなみに彼女はヒソカの“悩みのタネ”本人でもある。
 過度に他人に干渉を許すのも考えものだ。
 戸愚呂はヒソカのプライベートなどまるでお構いなしに飛んでくるので、食事をしていようが、寝ていようが、殺人を犯していようが、例えシャワーを浴びていようがやって来て「きゃあ! ヒソカさんのえっち!」なんて生娘のように恥ずかしがったり(もっとも全裸を見られたところでヒソカにとっては痛くも痒くもないのだが)、メイクを落としたヒソカの顔をまじまじと見つめて「ヒソカさんの素顔が美形過ぎて死にそう」とだらだら鼻血を垂らしてみたりする。彼女は中々に忙しく、めまぐるしく、騒々しく、ヒソカの安寧を奪っていった。

 戸愚呂の襲撃の条件はこれまでの経験から大体予測が付いている。まず月夜が第一条件。さらに月の満ち欠けで滞在時間の長短が決まる、ようだ。だからといって、ヒソカにはそれを防ぐ手段がないわけであるが。
 彼女はヒソカに対するありとあらゆる賛美を口にして、しれっと食事も摂り、ある程度時間が経過したら「あ、そろそろ時間切れなので帰りますねー」と去っていく。この流れがいつもの手口であった。今回も例にもれず「エビとブロッコリーのマヨネーズ和えサイコー!」と、勝手にルームサービスを頼んでおきながら、図々しくも料金を支払わずに帰っていったのだ。

 もしかすると、彼女の本来の目的は食い逃げなのかもしれない……。

 ◇

「って感じでさ、勝手にやってきては勝手に帰っていくんだ」
「へぇ。ヒソカに付きまとうだなんて、世間にはとんだ変態がいたもんだね」

 そう人聞きの悪い発言をぶち込んできたのは、暗殺一家の長兄イルミだ。彼はオブラートに包むなんて言葉は知らない。
 あえて抗弁するのであれば、ヒソカは他人から付きまとわれたり執着されたりするのはむしろ慣れているほうだ。何せ、あらゆる場所であらゆる人間からあらゆる恨みを買っているのだから。幾度命を狙われ、反対に幾度命を奪ってやったのかはもはや数えきれない。ただ、“恋愛的な意味合い”で執着されるのはもしかすると初めてかもしれなかった。
 危害を直接加えられているわけではない。被害は間違いなく受けているし、鬱陶しいことこの上ないが。ヒソカは“自衛する手段”を持たない。だからこそ、彼は考えあぐねている。

 イルミはそんなヒソカを抑揚のない目付きで見つめつつ冷淡に言い放った。

「それって、その女を殺せば解決する問題じゃない?」
「それが、能力の関係なのか彼女に手をかけようとしても “不可思議な力”で弾かれるんだ。まるで、膜に覆われているみたいに“触れられない”。ボク限定の能力なのか、第三者にも有効なのかはまだ試してないから分からないけど」
「ふぅん、結構厄介な能力なんだ」
「だからこうしてキミに依頼してるんじゃないか」
「……あ、これって依頼の話だったの?」

 そう、イルミは案外抜けているところがあるのだ。

 ◇

「ヒソカさん、こんばん……あぁっ!? 誰!?」

 次に戸愚呂がヒソカの元に襲来したとき、彼女の反応は思っていた以上に単純であった。
 明かりを落とした薄暗がりの中、戸愚呂は ――彼女にとっては存在してはならない第三者である―― イルミの姿を頭のてっぺんから爪先にかけ食い入るように見つめ、そして青ざめた。
 おまけに、彼女は決して言ってはいけない言葉を口にしてしまった。

「も、もしかしてヒソカさんの彼女さんですか」
「は? 誰が彼女だって?」
「あ、男の方でしたか。そしたら……彼氏さん? イ、イデデデデデデデ! 何するんですか痛いですよ!」
「ふーん、どうやら第三者であるオレには“この能力”は無効なようだね」

 分かりやすく腹を立てたらしいイルミは、戸愚呂の頬を思い切り引っ張るとヒソカを一瞥した。「どうするヒソカ? このまま殺ろうか?」と。その冷然とした口振りから、彼は戸愚呂の存在を虫けらのようにしか認識していないのだと分かる。
 見たところ大した戦闘能力もなさそうな戸愚呂を殺すのは、イルミにとって赤子の手をひねるより容易なことだ。
 だが、戸愚呂は敵ではない。仲間でも、友達でもない。ほぼストーカーの、いっそストーカーよりなおさらタチの悪い、一方的に愛の押し売りをするはた迷惑な存在ではあるが。それでも、イルミに彼女の生死の行方を譲るのは何だか面白くないことのように思えた。
 崇拝されているのはヒソカのはずなのに、イルミのほうが先に戸愚呂に“触れた”のだから。

「うーん、やっぱり良いや。気が変わったよ」

 そうヒソカに制止をかけられて、イルミは「え、正気?」と驚愕の眼を向けたが、ヒソカの様子を見て色々と悟ったらしい。「じゃ、いつもの口座にキャンセル料振り込んどいて」と言い残し、イルミはあっさりと退いていった。
 ヒソカとイルミはあくまでビジネスライクな関係なのだ。ヒソカの気まぐれに付き合う気は毛頭ない。

 一方、戸愚呂は二人の物騒で淡々としたやり取りをぽかんと眺めるだけであった。

 ◇

「ヒソカさんはこれからあの方と“ゆうべはお楽しみでしたね”的なことをする気だったんですよね……。邪魔して本当にごめんなさい。あの方が怒ってしまうのも当然ですよね。私、昔から猪突猛進の気があって、よく人に迷惑をかけてしまうんです。ヒソカさんに恋をして、ヒソカさんに声をかけて頂いて、嬉しくてバカみたいに舞い上がってしまったんです。でも、これ以上自分勝手なことをするのはもうやめます。ヒソカさんにご迷惑をおかけするようなことはしたくないので。
 ……だから。金輪際もう来ないようにしますから、どうか許してください」

 がっくりと肩を落とし床にうずくまった戸愚呂の双眸からは、大粒の涙が零れ落ちた。ぽろぽろと、面白いくらいに溢れ出てくるものだから、ヒソカは思わずしげしげと観察してしまった。彼女は恋に破れた者の末路、とやらを演じているのだろう。どうして他人のためにここまで泣くことができるのだろうか。不思議だ。変だ。ヒソカの理解を超えている。俄然、ある意味興味がわいてきた。
 “こういう”下世話な質問は野暮だし本来あまり気乗りはしないものの、ヒソカはうっかりと聞いてみたくなってしまった。
 ので、ストレートに聞いてみた。

「キミってさ、ボクのこと真剣に好きなの?」
「……えっ!? あの、あ、え、うあ」

 ぱくぱくと、母音しか吐き出せなくなった戸愚呂は顔を真っ赤に染め上げて固まった。どうやら彼女のいつものマシンガントークは一種の照れ隠しのようだ。きっと、ルームサービスも。彼女の防衛手段の一つであろう。
 やはり、戸愚呂も“女のコ”なのだ。

「ま、たまにだったら来ても良いかな」
「……え? 来ても、って」
「たまにだったら、こうしてキミの話に耳を傾けてあげても良いよ。でも、来るなら来るで事前予告ぐらいはして欲しいかな。ボクの番号あげるから、来る前に連絡入れてよ」

 決して戸愚呂にほだされたわけではない。ヒソカといえども、縮こまっているうら若き乙女を蹂躙するのはやや気が引けたのだ。悪い気がしていない、というわけでもない。惚れた弱みに付け込んで戸愚呂を利用しようなどとは……少しぐらいは考えたが。いや、むしろ暗がりの部屋で二人きりでいるのに下心をまったく抱かないほうがおかしい。それなりに、健全な男子なつもりなので。
 だが、ヒソカはこの決断をあとになって後悔することとなる。

「ヒソカさん、こんばんは! 今日も月が綺麗ですね。もちろんヒソカさんもいつにも増して素敵です。何といっても、その三日月のような切れ長の瞳! あまりの格好良さに正視するだけでドキドキしちゃいますよ。私の心臓はいつでもヒソカさんに握られているんですね、嬉しいです。ところでヒソカさんって本当に美形ですよね。でも顔だけじゃなくって肉体美も素晴らしいと思います。いつもどこで鍛えられているんですか? 天空闘技場での試合観戦も楽しくって楽しくって、あっ、次の戦闘日も絶対に応援に行きますね! ああ、それにしても未だに信じられません。こうして毎晩ヒソカさんに会えるだなんて。こんなにも幸福で良いんでしょうか、私。あまりの多幸感で死んでしまいそうです。
 いえ、私、ヒソカさんの為だったらいつ死んでもいいです!」
 
 だったら文字通り今すぐ死んでくれ、なんて答えたら戸愚呂はまためそめそと泣くのだろうか。
 迂闊だった。“たまに”だったら来てもいい、と口約束したのがいけなかった。結局のところ、戸愚呂は毎晩のようにヒソカの元に飛んできた。
 本人曰く「我慢しようって思ってても、気付いたらヒソカさんのところに来ちゃってるんです。困りましたね」だそうだ。無下に「来るな」と断りを入れるのは、許可した手前少し言いづらい。

「あ、ここのローストビーフすっごく美味しい! ワインにもとっても合いますよ! ヒソカさんもお一ついかがですか?」
「……や、食欲ないから要らないよ」

 さて、どうしたものか。「やっぱりまた気が変わったから、依頼を受けてくれない?」なんて言ったら、さすがにイルミに怒られそうだ。
 しかし、ヒソカにも強みはある。明日はお待ちかねの新月だ。この日ばかりは夜空から月は消える。明日は耳元でぴーちくぱーちく騒ぐ存在がいないのだ。なので、ヒソカの未来は明るい。月明りに晒されないほうが、一等明るい。明日はゆっくりと床入りすることとしよう。
 だが、月影は面積を増やそうと日々躍起になっているので、ヒソカの安息日はそう長くは続かないだろう。

種も仕掛けもございます
Marker Maker 様へ提出 )
180802