別に、自ら望んで念の修行を始めたわけではなかった。
心源流に入門したのは、ハンターである両親の希望だった。「お前は人一倍物覚えが悪いんだから、ハンターになる前に早めに念の修行を始めろ」と、ほぼ強制的で勝手な話が始まりだった。
けれど、“先生”に言わせるとあたしは1万人に一人の才能を持っているらしい。だから念の習得速度は“それなり”なのだと。その1万っていう数字が、凄いのか凄くないのか実際のところあたしにはよく分からない。
でも、そんな些末なことあたしには大した問題にはならなかった。
―― ぱら、ぺら。
耳を澄ませば聴こえてくる。ウイング先生が本のページを一枚一枚めくる音。
あたしは、その一瞬の静寂が好きだった。
現在、あたしは先生の横でひたすら“纒”の訓練を繰り返している。
最近のあたしの修行のメニューは大体こんな感じだ。曰く、基本を堅実に習得するのが一番らしい。
「戸愚呂。 そろそろ休憩を入れましょうか。」
「いえ、もう少しだけやらせて下さい。」
「根を詰めても、上達が早くなるわけではありませんよ。 現に疲労が見えているでしょう。」
ウイング先生は、困ったように眉根を下げた。
対するあたしは、もはやお決まりになった台詞を吐く。
「だって、ズシに負けたくないんだもの。」
―― 何がきっかけになったのかは、正直あたしにも分からない。
かつて、1万人に一人の才能があると言われた。けれど、弟弟子のズシはそれを上回る10万人に一人の才能の持ち主であるらしい。単純計算で、あたしより十倍飲み込みが早いというわけだ。ズシの上達は、あたしにとって目に見える脅威となる。あたしは弟弟子のズシにいつ追い抜かされるか、気が気ではない。
それが周囲の大人たちがあたしに下した評価であった。
でも、あたしの視界から見える景色は、大人たちのそれとはまったく異なる。
―― 伏せた目。少しずれた眼鏡。その横顔に、喉の奥が灼けつきそうになる。そばにいるだけで、どくん、どくんと鼓動が高鳴る。
寝癖をそのままにしたり、シャツの裾がズボンからはみ出ていたり。先生は身なりに頓着しない。おまけに天然が入っていて、少し抜けているところが可愛かったりもする。あたしは今までおとこのひとに対して可愛いなんて感情を抱いたことはない。先生だけの特別製だ。
けれど、先生は譲れないところは絶対に譲らない芯の強い人でもある。
そんな純真で、真っ直ぐな先生に対し「恋心」を抱くのにそう時間はかからなかった。
「昔から、沙弥から長老にはなれぬと言います。 戸愚呂、人と自分を比べるものではありませんよ。 焦らず、じっくりと習得していけば良いじゃないですか。
急ぐことが近道に繋がるとは限りませんよ。」
ウイング先生は微笑むと、あたしの肩にぽんと手を置いた。
優しくて、あたたかい感触だ。
同時に、ひどく残酷な焦熱でもある。
「……はい、ありがとうございます。」
こうして従順な生徒を演じるのは簡単なことだった。
ウイング先生にとって、あたしは無垢なこどもなのだから。先生の望むように振る舞わなくてはいけない。
―― でもね、先生。本当は違うんです。
ズシに勝ちたいとか負けたくないとか、そんなことあたしはてんで気にしちゃいない。
どうやったら先生の双眸があたしに向くのか、いつもそんなずるいことばかり考えているんです。
いつしか修行は目的ではなく手段に過ぎなくなっていた。先生とあたしを繋ぐ、唯一の共通点。修行を名目にしたら、先生のそばにいる理由になる。
けれど、同時にあたしは一抹の不安もかき消せないでいた。本当に念が上達しなかったら、いつかあたしは見切りをつけられてしまうんじゃないのか、と。
―― ねぇ、先生。あたしだって女なんだよ。
清廉なあなたはちっとも気付かないだろうけど。無害な振りをして、ずるいことだって平気で考えちゃうんだよ。
―― ねぇ、先生。こんなあたしの本質を知ったら幻滅しますか。
どうか、あなただけはあたしのふしだらな気持ちに気付かないでいて。
無垢のかたち
(こそこそ企画より:ウイングさんに片思いしている切なめなお話)
180806