「何だよ、クロロ。 まだからかう気、」
そう言いかけた言葉は、ついに続かなかった。
何故ならば、“シャル”はあたしを視界に入れた途端に面白いくらいに固まったからだ。唐突なあたしの登場を予期ともしなかったのだろう。手から滑り落ちた携帯が、ガシャン、と地面に叩きつけられる音がした。
それはまるで、授業をフケているところを思いがけず見つかってしまった高校生のような新鮮な反応だった。けれども、“あたしを見て”怯んだのは明らかな事実である。
「シャル、」
きっと普段のシャルであったらあたしの襲来も容易に予想したに違いないし、そもそもの話として、シャルがあたしの稚拙な気配に気付かないはずがないのだ。
だからこそ、シャルが弱りきっているのが一層読み取れてしまった。今のシャルはひどく無防備で、くたびれていた。指先ひとつでダウンしてしまいそうなくらいには。
あたしは一呼吸置くと、脳内で何度も反芻したセリフを思い起こした。実のところ、自分自身まだ正面きってシャルに向き合う勇気はなかったのだ。
「あたしのTシャツ、そのまま着て帰ったでしょ。 返して貰おうと思って。」
なるだけ平常通りの声音になるようには心がけたつもりだ。その思惑通りに事が運んだかどうかは分からなかったけど。
「ああ……。 アレなら、ちゃんとクリーニングに出して返すから。 それで良いだろ?」
本当は、Tシャツの行く末なんて微塵も興味はない。シャルと話すきっかけを作りたかっただけだ。
しかし、シャルはあたしの顔を一片たりとも見ようとはしなかった。シャルは“あたし”から、完全に逃避している。“あたし”を突き放す気でいる。
“あたし”との関係を、あっけなく断ち切ろうとしている。
「……良くない。 全然良くないよ。」
「そりゃ、勝手に着たのは悪いとは思ってるけど。」
「そうじゃなくって、」
あたしだって、真実に触れるのは怖い。一たび触れたら壊れてしまいそうな硝子玉に、安易に手を伸ばせるほど平坦な道のりを生きて来たわけじゃない。
でも、意を決して進むしかないと思ったのだ。
「どうして、“あのとき”謝ったの。」
「……どうして、って。」
この一言が何を示しているのか、どうやらシャルには伝わったようだった。
言い淀んだシャルは、懸命に過去を切り取って言葉を選んでいる。
「戸愚呂は……団長が好きなんだろ。」
「うん、好きだよ。」
言われたまま、思った通りの感情をオウム返しする。
すると、シャルは目を見張り、さらにしおしおと首を垂れた。
「はは。 そうストレートに言われると、結構くるな……。」
諦観したように、シャルは呟いた。
―― すっぱり諦めたと思ってたんだ。
「淀んだ水面に触れるべきじゃないってことは、誰よりも分かってたのに。」
それが“何”に対しての言及なのか、その本質はシャル自身にしか知りえない実態のない物なのであろう。だが、恐らく、シャルは後悔しているのだ。
そして、これが自惚れではなければ、シャルを“すくい”出せるのは、きっと“あたし”しかいない。
「……シャル。 あたしね、クロロが好き。
マチちゃんが好き。 パクが好き。 フィンクスが好き。 フェイタンが好き。 フランクリンが、ノブナガが、ウボォーが、みんなのことが大好き。」
でも ――
「いざいなくなったら一番困るのは、シャルなの。
これがどういう意味なのか、分かる?」
分からないと、理解できないと言われてしまったらどうしよう。
求める物が最初から異なっているのだと言われてしまったら、どうしよう。そうしたら、きっとあたしの足は根が張ったように地面から動かなくなってしまうに違いない。
それでも、シャルにだけは分かっておいて欲しい。
「クロロに向ける感情と、シャルに抱いてる感情が全く別の物だってことに、ようやく気付いたの。 だってあたし、たった3日間連絡がないだけでうろたえちゃうくらいには、シャルがいないと困るもの。
だから、シャルに見捨てられたら……今後も困る、から。」
初めて自覚した感情を上手く言葉として言い表せないのがつらい。あたしが抱いている気持ちの百万分の一もシャルに伝わっていない気さえする。
不安と心細さに駆られてシャルを見やると、彼は彼で信じられない物でも見るような顔つきであたしに正対していた。
「それって、」と、恐る恐るシャルが口を開く。
「“オレ”が期待しても、良いってこと?」
「ばかじゃないの。 そんなの、当たり前でしょ。
シャルのほうこそ、本当に“あたし”でいいわけ?」
だってあたし、全然シャル好みの女じゃないし。
ずっと懸念していたことの一つを口にすると、余計に惨めたらしい気持ちになってきた。
どこからどう見繕ったとしても、自分に女としての魅力があるとは思えなかったのだ。以前、他でもないシャルから“ボリューム不足”だと揶揄されたことを、これでも少しは気にしている。そんな揺れる乙女心をわずかでも分かって欲しい。
けれどシャルは「戸愚呂のほうこそ、ばかだなあ」と笑って、あたしをていねいに抱きすくめてきた。
「別に、そんなことはどうだっていいよ。」
―― 戸愚呂が、戸愚呂であるならそれで良い。
ぽつりと、こぼれ落ちてきた不意打ちの言葉が。シャルの柔らかな声が。
耳介をすべって、鼓膜を優しく揺さぶって、心の奥底にすうっと沁み込んできた。
それだけでどうしてか胸がいっぱいになって、じわじわと視界が滲みはじめる。
シャルに寄り添いたくなってさらに彼にしがみつくと、心臓がうるさいくらいに躍動した。でも、何故かそれが無性に心地いい。
きっと、いとおしいってこういう気持ちを指すのね。
「戸愚呂。 ……オレ、今死んでもいいかも。」
「やめてよ、縁起でもないこと言うの。」
とがめるように間近でシャルの瞳を睨みつけたが、彼はくすぐったそうに笑うばかりだ。深い翠玉に、シャルの幸せのかたちが溢れてくるのが見えた。
「戸愚呂、」とあたしの名前を呼ぶ特別な響きが、シャルの気持ちを代弁しているかのようだ。
「ちゃんと、言葉にして言ってくれないの?」
「……なにそれ! シャルのほうこそ!」
どうしても長年の付き合いのせいで気恥ずかしさが勝り、お互い“肝心かなめ”の言葉が出てこない。でも、シャルより先に口にするのはどうにも癪だ。きっとシャルも同じ思惑なのだろう。こうやってうだうだしてしまうのが実にあたし達らしい。
だがどうやら、シャルは痺れを切らしたようだ。あたしの耳朶にそっと唇を寄せると、たった一言だけ呟いた。「やっぱりもったいないから、ゆっくり味わうことにするよ。」そう耳打ちしてきた彼の声に、あたしの心がたちまちにふやけてしまったのは言うまでもない。
ニッティ・グリッティ
end
190118