あなたが鏡の前に立ったとき、こう思ったことはないだろうか。
 もう少し目が大きくならないかしら、とか。鼻が高くならないかしら、歯並びがきれいにならないかしら、痩せないかしら、肌が白くならないかしら、若返ることができないかしら、などと。おそらく大抵のうら若き乙女であれば、容姿のコンプレックスをひとつずつ挙げていったら枚挙にいとまがないだろう。彼女たちの美への探求心が尽きることはそうそうない。
 もう一つ、こんなお話も存在する。とある物語の登場人物である底意地の悪いお妃さまは、魔法の鏡に向かってもっぱらこう問いかけていたそうだ。「鏡よ鏡よ鏡さん。世界で一番美しいのは誰?」と。いかに美しい王妃さまであろうと、こうして逐一確認せずにはいられないくらい、容姿とは人間にとって重要な課題であると言える。
 私は鏡の前に立つと、にへら、と笑ってみせた。いびつな作り笑いが、我ながら薄気味わるかった。頬には昨日の稽古中についた掠り傷が残っている。こんな傷がついたくらいで気にかけるような私ではない。が、私は今年17歳になった、正真正銘の“うら若き乙女”だ。

 かつての私は、早く大人になりたいと思っていた。自分の短い手足が嫌い。弱虫な自分が嫌い。誰かの背中を見上げるのは嫌い。修行をもっともっと沢山積んで、一足飛びに強くなりたい。私のことを見下げて、ふんぞり返って笑う兄弟子たちをけちょんけちょんにやっつけて、私こそが真に強いのだと高笑いをしてやりたい。幼少期の私の頭の中には、そんな野望が満ちあふれていた。
 そんな私が、今や“あの頃”に戻りたいなどと思っているだなんて、きっとあの師範代でさえ想像もつかないだろう。
 “戸愚呂さん”。頭の中で、私のことを呼ぶハイトーンな声がこだまする。
 “戸愚呂さん”。あの可愛らしい声が、耳の奥にこびりついて離れない。思い出すだけで、ドッ、ドッ、と心臓が重たく走り出した。
 落ち着きなさい。落ち着くのよ、戸愚呂。相手は、まだ皮も剥けていないであろうガキんちょじゃない。背だって私よりずっと低いし、力だって私のほうが断然強いのよ。
 でも、だからこそ、想像せずにはいられない。かつて小さかった頃の私と、彼がたわむれている姿を。
 私は鏡の中をじいっと覗くと、たった一言、おまじないをつぶやいた。

「“ひみつの手鏡ちゃん(テクマクマヤコン)”」

 ◇

 道場の中を覗き、天敵の姿が見えないことをまずは確認する。あの師範代に出会ってしまったら、一発で正体がバレることが予見されるからだ。それだけは、どうしても避けたかった。何故ならば、このミッションは私にとって恥辱以外の何物でもないからだ。おそらく家に帰って冷静になったときに、あー何してたんだろう私、ばかじゃないの気持ちわるい良い年こいて頭おかしいでしょ! と赤恥にまみれて、呼吸困難に陥るくらい枕に顔をうずめてゴロゴロと盛大なローリングをすることになるんだろうから。きっと、世間から向けられる目は凍えるほどに冷たいだろう。だが、これでいて私も思春期まっさかりの女の子なのだ。多少の面恥には目をつむっておいて頂きたいものだ。うむうむ、そう考えたら多少の困難も乗り越えられそうな気がしてきた。
 しかし、師範代がいないのは非常に好都合なのだが、肝心のターゲットの姿も見えないではないか。もしかして、一緒にどこかへ出かけてしまったのかもしれない。視線をさまよわせていると、「あれ?」と訝しむような声が背後から聞こえてきた。びくっ、と不意打ちのことに肩が跳ねる。ビビりまくった声がひぃっと漏れ出そうになったが、何とか堪えた。
 けれど、後ろから聞こえてきたのは師範代の声ではなかった。もっと、ずっと幼い声だ。

「もしかして、入門希望の方っすか? それなら、師範代は今所要で出かけているので……」
「あっ、ちがう、違うの! ちょっと、道場ってどんな物なのか見学してみたくって。それで覗かせてもらってただけだから、私、決して怪しい者じゃありません!」

 私の必死な弁明をきょとんとした顔つきで聞いている少年、ズシは、人を疑うということを知らないのか「そうなんすか! だったら、ゆっくり見て行ってください!」と快い返事をよこしてくれた。
 ふう、ズシが純粋な子供で助かった。どうやら私の目論見が露見する心配はなさそうだ。はー、良かったー。安心したわー。……って、いや、ダメだろう。普通に考えて全っ然良くないだろう。だって、もしも私が危険思想を持った犯罪者だったとしたら、どうだ? こんな隙だらけな子供、どうとでも出来てしまうではないか。“姉弟子”として、「誰もかれも簡単に信用するんじゃないの!」と忠告するべきではないのか?
 そう思いなおし、口を開きかけたところで純真なズシの質問が飛んできた。

「あの、失礼ですけど、多分自分と同い年くらいですよね? 名前は何て言うんすか? 自分は、ズシと言います」
「え、名前? あぁ、えーっと、……ヘプタ! ヘプタって言うの!」

 そう、そうだった。ズシは礼儀正しい良い子なのだ。“初対面”の相手に対し、当然こういった挨拶も欠かさないだろう。しかし、名前なんてまるで考えてもいなかったため、適当に思いついた単語を口に出してみた。ヘプタとは、とある言語で“7”の意を指す。ラッキーセブンとかよく言うし、縁起の良さそうな7を担いでみたのだ。

「ヘプタさんっすか! よろしくお願いします!」
「う、うん、よろしくね!」

 ズシは丁寧にお辞儀をすると、私に向かってにこやかに笑いかけてきた。その笑顔にズキュゥゥンと心臓を撃ち抜かれてしまう。苦しい。普段よりずっと目線が近いせいか、ズシの姿がより頼もしく見えたのも敗因の一つだったように思う。
 そう、そうなのだ。私は先ほど自分は怪しい者ではない、危険思想を持った犯罪者ではないと論じたが、実は犯罪ぎりぎりのところへ片足を突っ込もうとしているヘンタイ女なのである。“ヘンタイ女”。こんな風に自分を貶めたいわけではないが、自分よりずっと年下の、弟弟子であるズシに対して淡い恋心を抱いてしまっているのだから、こんな私をヘンタイと呼ばずして何と表現すれば良いのだろうか。

 私は子供の頃から自他共に認めるくらいの負けず嫌いであった。とにもかくにも、誰かに負かされるのがどうしても許せなかった。師範のもとで心源流拳法を学びはじめてから、私の負けず嫌いはより一層進行した。
 師範に負けるのはもとより、兄弟子たちに勝つことが出来ないのがおそろしく悔しかった。そんな私の執念が、結果として姑息な念能力を編み出すに至ったのだ。
 “ひみつの手鏡ちゃん(テクマクマヤコン)”は自分の肉体年齢を操作する念能力である。ゆえに、幼少期の私は自分の年齢を念の力で無理やり引き上げると、兄弟子たちを力ずくで伸すことに成功したというわけだ。勝負の世界において、正々堂々なんてクソくらえである。そんな正義ぶった信条を掲げたって、何の役にも立ちやしない。おかげで兄弟子たちに負け続けた日頃の鬱憤を晴らすことが出来たのだから、たとえ後ろ指をさされようとも私の知ったこっちゃあない。
 だからこそ、負けることが明白でありながらも、勝ち気に私へ向かってくるズシの姿に心惹かれたのも当然だったのかもしれない。ズシの真っ直ぐな瞳が私を貫くたびに、私の中に芽生えた間抜けな恋心を自覚するのだ。しかし、この恋の障害として立ち塞がったのが、私とズシの“年齢の差”である。
 今時、年の差なんて〜、と能天気なことをおっしゃる方も中にはいるかもしれないが、現実をよく見て頂きたい。ズシはまだまだ“子供”なのだ。私がうっかりズシに手を出そうものなら、ただちに警察に御用になるのは間違いない。勝負の世界で後ろ指をさされるのはいくらでも構わないが、恋愛において後ろ指をさされるのは、17歳の乙女としてはさすがに忍びない。だったら私が“子供”の姿に戻って、淡い恋愛ごっこをするのを夢見たって、少しぐらい構わないではないか。
 道場内に設置された鏡に映る自分の姿が視界に入った。どこからどう見ようと、今の私は10歳の子供だ。ズシと並んだって、何ら違和感はない。日頃は嫌でも感じざるを得ない身長差だって、今は存在しない。自分が子供の頃に、ズシと出会いたかった。だって、こんなにもお似合いに見えるのに。
 しかし、どんなに言葉を選んで取り繕ったとしても、私がただのヘンタイであるのは隠しようもない事実だ。ズシからしたって、いい迷惑にしかならないだろう。これから先、ズシには明るい未来が待っている。私なんかが彼に泥をつけるわけにはいかない。

「ヘプタさんって、もしかして戸愚呂さんの身内の方なんですか? 戸愚呂さんによく似てるっすね」

 ズシはまじまじと私の顔を見つめると、おもむろにそんなことを言ってきた。そりゃあ、同一人物なんだからそんな感想を抱かれたっておかしくないだろう、が……。

「そ、そう! 私、戸愚呂お姉ちゃんの従姉妹なの」
「あ、そうなんすか! イトコって容姿も似るんすねー」

 ズシは私の返答を疑問にも思わなかったのか、どうやら納得した様子だった。やはり、危ない橋は渡るものではない。バレたのかと思って、一瞬猛烈に焦ったではないか。
 いつも強気でいる私がヘンタイ心を内に秘めているとズシに知られたとしたら……死んでも死にきれないだろう。金輪際、こんな真似はやめようと心に固く誓う。
 ズシは、なおも物珍しそうに私のことを見つめている。じりじりと、ハートに火がつきそうだ。いや、もうついている? 頭が沸騰してきて、冷静でいられなくなってきた。
 うん。やっぱり、私はズシが好きだ。素直で可愛いし、礼儀正しいし、私みたいに性根が曲がっているわけじゃないし、いつも真っ直ぐで、まぶしくて……。だからこそ、このよこしまな気持ちは無かったことにしよう。姉弟子として、ズシの成長を遠くから見守っていこう。私が出来ることと言えば、せいぜいそれぐらいしかないのだから。

「ヘプタさんも、いずれは心源流に入門するんすか?」
「う、うーん。どうかなぁ、戸愚呂お姉ちゃんから話は聞いてたけど……」
「……戸愚呂さんって、かっこいいですよね」
「え……そ、そう?」
「そうっすよ! 何と言っても強いし、身のこなしはお手本みたいにしなやかだし、厳しいけど優しいし、誰よりもきれいだし、戸愚呂さんは自分の憧れで、目標で。
 いつか戸愚呂さんに相応しい男になるのが、自分の夢っす!」

 ズシは“遠くにいる”私に想いを馳せているようだった。過去でも、未来でもない。現在の私に対してだ。

「って、口に出すのもおこがましいんですけど。……あ! くれぐれも、この話は戸愚呂さんには内緒にしてくださいね! こんな風に思ってることが戸愚呂さんの耳にでも入ったら、恥ずかしくて顔向けできないっすから!」
「……う、うん」

 そう返事をするのがやっとだった。顔が火照ってまともにあげられない。
 私もズシも修行中の身で、まだ発展途上の最中で、まだまだ伸び盛りの時期で。私はやっぱり誰かに負けるのは嫌だし、もっともっと強くなりたいとは思っているけれど……。
 でも、もう少し足踏みしていたいなぁ、と生まれて初めて思うのだった。

ローファイボーイ・ファイターガール
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