リンクスの逃避行

 溢れかかる太陽によって、ちぢれた雲は橙色に染まっている。その鮮やかな濃淡を彩る空を眺めてみても、あたしの心はちっとも優れやしなかった。
 なにしろ、仕事が見つからないのだ。これは由々しき事態である。

 駅前のパン屋も、曲がり角にあるコンビニも、大手のスーパーのパートも、求人を出していた割にはあっさりとあたしのことを選別した。
 駄目元で(たまたま目に付いた)ナントカファミリーに掃除婦として雇用されないかと試みたけど、門の前で出迎えた“いかにも冷淡そう”な女性に「現状ウチでは掃除婦の募集はしておりません。 お引き取り下さい。」とキッパリ断られてしまった。実に世知辛い世の中である。
 “あの日”から何事も上手く運ばなくなってしまった。仕事は長続きせず、この数年でいくつも職を転々としている。貯蓄はない。ろくに恋人もいない。おまけに、オンボロな音をかき鳴らす車に排気ガスをかけられる始末。
 嫌でも足取りは重くなろうというものだ。

「やっと見つけた。」

 そんなネガティブ思考の最中、突如行く手を阻む一つの影が現れた。落雷を受けたように、たちまちあたしの脳味噌は固まってしまう。
 そこにあったのは、記憶の中よりも遥かに逞しくなった彼の姿だった。しきりに目を擦っても視界に変動はない。残念ながら幻覚や幻聴の類ではなさそうだ。

「……キルア、様?」
「正解。 お前、今までどこにいたんだよ。 これでも探すのスゲー大変だったんだぞ。」

 そうは言われても、探してくれなんて一言も頼んでいない。
 今日はヒールを履いてこなくて本当に良かった。首の根まで焦燥感に駆り立てられ、反射的にくるりと踵を返すとあたしは一目散に逃げ出した。本能に従った行動だったように思う。
 背後から「あっ、おいっ! 逃げんな!」と怒鳴り声が聞こえたけど、もはや構ってなんかいられない。
 心臓がきりきりどくどく痛み出す。全力疾走だけがその要因ではないだろう。

 あたしは数年前までゾルディック家のメイドとして働いていた。給料はそれなりで悪くなかったし、特に仕事内容に不満も無かった。このままこの屋敷に骨を埋めるのも悪くはない、と漠然と考えていたほどだ。
 しかし、とある日あたしは絶望の音を知ることとなる。あろうことか、年端もいかない少年に対し胸の高鳴りを覚えてしまったことに気付いたのだ。しかも相手は当主のご子息の一人。キルア様だ。
 更に不幸だったのは、彼が思っていた以上にあたしに懐いてしまったことだ。これ以上一緒にいられない、と決死の思いで提出した辞表は淡白に受理された。

 だから益々信じがたかったのだ。キルア様があたしなんかの前に再び現れるなんて。あたしなんかを探しにわざわざ出向いてきたなんて。
 整理が付かず頭の中はぐちゃぐちゃで呼吸もずたぼろだった。そのため、あっさりと路地裏に追い込まれてしまった。これでは袋の鼠も同然だ。
 無慈悲にも、ここには夕陽も差し掛からない。助けを求めようにも人通りもまるで無い。

「何で逃げんだよ。」

 あたしとは違いキルア様は息切れ一つしていない。
 その問いかけには返答せず、隙をぬって真横から抜け出そうとする。が、肩を掴まれそのまま地面に押し倒されてしまった。砂利が挟まって背中がずきずき痛むのに、彼は容赦なくあたしの上に馬乗りとなり逃げ道を塞いでしまった。

「もっとこう、感動の再会ってやつを喜べないのかよ。」
「だって、キルア様が唐突だったから……。」
「“様”は付けなくていい。 幻海はもうウチとは一切関係ねーだろ?」
「で、ですけど。」

 あたしの困惑を余所に、キルア様は一段と声を低くする。その以前より大人っぽくなった表情に心臓が煩いくらいにぐらついた。

「オレが良いって言ってるんだ。 キルアって呼べよ。」
「でも、」
「幻海、呼べ。」
「……キル、ア。」
「うん。」

 そんな些細なやり取りに満足したのか、彼は嬉しそうに頬を緩めた。次いで、目の前に影が落ちてくる。認識するのが遅れたせいで、あたしは何も身動きを取ることが出来なかった。
 息が触れ合うくらい彼との距離が近付いて、しっとり唇を塞がれた。脳味噌が機能したのは、視覚と触覚がフル稼働した後だ。
 たった一瞬のことだったけれど、思考が追いつくとあたしの顔には急激に熱がこもった。

「オレさー、初めてだったんだよねー。」

 ―― 勿論責任は取ってくれるんだよな、幻海おねーさん?

 にやり、と白銀の発光体はわらう。
 しまった、何から何まで全て計算づくだったらしい。小賢しい子め。しかし、嵌められたのにも関わらずそんな彼が一層愛おしくなってしまった。
 あー、もう、これだから本当にダメなんです。あたしは服従のポーズを取りつつ、「煮るなり焼くなり好きにして。」とのぼせ上がった返事をするので精一杯だった。

◇ プロット:うおずみさん
・主人公はゾル家のメイド。幼いキルアに恋愛感情を抱いてることに絶望して退職。数年後成長したキルアに追い回される。

→これを読んでまず思い浮かんだのは、路地裏に主人公を追い詰めて馬乗りになるキルアでした。ゾル家時代の話を深く掘り下げようか少し迷ったけど、冗長になると思いやめた。しかしパン屋のくだりといい、私は蛇足が好きです。
コミカルな話にするなら、ターミネーターのようにひたすら追跡してくるキルアと鬼ごっこでも良いかも。今回はスタイリッシュ(?)な話にしたかった、……のに全然上手く書けなかったので、やっぱり文章考えるのは難しいです安西先生。

171018