フローラの季節

 ―― フローラとは、花と春を司る女神の名称である。

 ふわり、ふわり。空から舞い落ちてきた雪の結晶は、手のひらの上でしわしわと消えてなくなった。どうりで底冷えすると思ったのだ。まさか雪が降ってくるなんて、想定もしていなかった。今年は暖冬になると、ブラウン管の中でお天気お姉さんなるキャスターがフリップを持ち出して懇篤な説明をしていたため、すっかり安心しきったオレはろくに防寒具の準備もしていなかったのだ。オレは大衆媒体に謀られていたのだろうか。それとも安易な情報は鵜呑みにするなという、暗示されたメッセージを読み取れということだったのだろうか。それじゃあ誰だって凄腕のスパイになれる。いずれにせよ、せめて手袋のひとつでも買っておくべきだった。コートの襟首を手で押さえるも、冷たい隙間風は防ぎようもない。天涯孤独の身空には、冬の寒さは存外身にしみた。
 仕方がない。無事家に辿り着いたらコーヒーを淹れよう。それと、小腹が空いたからベーコンでも炙ろう。鉄鍋で目玉焼きでも焼こう。そいつらを胃袋に収めたら、オレの平坦な一日は終わりを告げる。
 そうと決めると、こんこんと雪の降り続ける家路を急いだ。

 ◇

「カプチーノを、ひとつ。」

 麗しき昼下がりの話である。本日もあいにくの雪模様であり、暖かいコーヒーを求め店に足を運ぶ客は少なくなかった。
 オレは某コーヒーショップでアルバイトをしている。大した趣味も、大掛かりな夢や希望も持ちあわせていないオレは、ただ“死なないため”だけに働いている。生きてゆくための大層な目的や理由付けなんてよく分からない。それどころか、自分自身に対する興味でさえ微塵も湧いてこない。ちっぽけな蟻だって、宇宙のどこかから賜った使命を果たすため、精一杯生きているに違いないというのに。それに比べ、“人間様”であるはずのオレが日がな一日無駄に過ごし、呆気なく人生を浪費するばかりなのは違和感でしかない。オレは虫以下の存在か。

 しかし、この日異変は起こった。オレは、雪解けの音を聴いてしまったのだ。

「それと、この店に戸愚呂って女が働いてるだろ? もし居るなら、出して欲しいんだけど。」

 釣り銭と、出来上がったカプチーノをお客さんに差し出すと、“彼女”は付け加えるように言った。意思が強そうな、凛とした眼差し。その切っ先の鋭さに圧倒されるのと同時に、オレは彼女の瞳に引き込まれて動けなくなってしまった。
 脳味噌が痺れ、どういうわけだか、彼女が紡ぐ言葉は遥か遠くから通り抜けてゆく。味わったことのない、奇妙な感覚だった。
 呆けてしまったオレを怪訝そうに見つめた彼女は、再度その柔らかそうな唇を開いた。

「……聞こえてる?」
「あっ、はい。 戸愚呂さんなら奥にいるので、呼んできます。 少々お待ちください。」

 ……おかしい。おかしい。客相手に狼狽する必要なんてないじゃないか。そもそも、別段おかしなやり取りを交わしたわけでもないのに、取り乱すなんてオレらしくもない。少しは落ち着け。冷静になれ。けれど、息が詰まりそうになるほど心臓が激しく躍動するのは初めての経験だった。
 店の内部に移動し、在庫のチェックにせっせと勤しむ同僚に声をかける。出来るだけ息を整えたつもりだが、明らかに平常とは違う場所から声が出た。恐らく、他人には気付かれない程度の差異ではあるだろうが。

「戸愚呂さん、お客さんが呼んでます。」
「え、あたしを?」
「はい。 口振りからして、戸愚呂さんの知り合いの方みたいでしたよ。 薄紅色の髪をした、少し小柄な女性で……。」
「げ、それってマチちゃんだ。 うわぁ、絶対に小言言いに来たんだ。 やだなぁ。」

 ―― こっそり裏口から逃げちゃおうかなぁ、でも見つかるだろうなぁ。 どうしたもんかなぁ。
 そう続けて戸愚呂さんはぶつくさと呟いたが、オレの耳に残ったのはある一部分のみだった。
 そうか、彼女の名前は“マチ”というのか。マチ、マチさん……。それは名前で、ただの固有名詞で、単なる言葉に過ぎなくて。それなのに、反芻すると頬が火照ってどうしようもなかった。

2018 0612