朝起きて身支度を整えリビングへ行くと
クロワッサンのバターの香りと淹れたてのコーヒーの香りがした。
『おはようございます』
『おはよう、クロワッサン美味しそうだね』
『温かいうちに食べましょう』
彼とは食の好みが似ているのもあってか、好きなパン屋の傾向も似ている。
直輸入の小麦粉、エシレバター、丁寧に手作業で収穫された塩。
初めて食べた時、シンプルなものほど味の誤魔化しは効かないのだと思って感動した。
新鮮なレタスにトマトと、今日はハムエッグのメニュー。
食べ終わり、食器を下げて歯を磨いてリップを塗り直して忘れ物がないかもう一度確認して…コートと靴を取り出していると彼がやってきた。
『一緒に駅まで向かいます』
彼は私と違い決められた出勤時間というものがないので、こうやって一緒に家を出ることは殆どない。
『今日は、仕事ないんじゃなかった?』
『ええ。でもたまにはこうやって歩くのも良いでしょう』
『朝早いと本屋さんも空いてそうだね。五条さんから電話入るかもよ』
『仕事に関することでしたら伊地知君からです。あの人からの連絡の殆どはふざけたものですから出ません』
尊敬はしていないけど信用と信頼をしている先輩の連絡を、ふざけていると真面目な顔していうものだから思わず吹き出してしまった。
本当は仕事に行きたくないけれど、彼とこうやって話しながら駅に向かえるこの時間のおかげで心が晴れやかだ。
『仕事に行きたくないですか?』
突然思っていたことを言い出すので驚いた。
『…うん。合わないなって思うけど、でもそんな風に思うのも良くないかなって』
少し沈黙が流れ、そのうちに駅まで近づいた。
『あなたはこれまでちゃんとしなくては≠ニ、1人で頑張りすぎたんでしょう。』
力が入っていた肩がストンと落ちるような感じがした。
『仕事が合わなければ辞めたっていい。それ自体に良いも悪いもありません。そして…もっと頼ってください』
初めて会った時
機械的な雰囲気の人だと思っていたけれど、ただ表情に出すことに慣れていないだけなのかもしれないと一緒に過ごす内に思った。
本当は誰よりも人の心に寄り添えるから、こんな風に言葉にして表してくれる人なのだと。
『うん、ありがとう七海さん…じゃなくて建人さん』
未だに名前で呼ぶことに慣れない。
そんな私を見て彼は柔らかく微笑む。
『夜は寒くなるでしょうから、温かいスープでも作りましょう。』
『楽しみにしてる!』
『行ってらっしゃい、終わる頃にまた…待ってますから。』
手を振って改札まで行く。
階段を上がる前にもう一度振り返ると、彼はまだこちらを見つめていた。
今日は定時になったらすぐに出られるようにしよう。
スープに合いそうなパンを帰りに見ようかな。