「殺してあげようか?」
イルミはこともなげに言う。泣くのをこらえて、口をつぐむ私の髪をやさしく梳きながら。眼球を動かすだけで涙がこぼれる気がしたから、私は彼の表情をうかがうことができない。ただ指先だけが、やさしく何度も髪にからまってほどけていく。
「ナマエならひとりにつきセックス一回で良いよ」
どんな顔でそんなことを言っているのか気になって、ゆっくり首を動かした。彼はいつも通りの無表情だった。その顔を見ていたら、こらえきれずに目の端から涙がひとすじ、落ちていった。くやしさのあまり目を閉じて、彼の首もとにすりよる。乾いた、けれどさらりとした肌。かすかにする彼の匂い。それらが私のこころをなだめていく。もちろん、その申告や指先だって。
女はすごく不便だ。女として受けることになる優遇のすべては、不遇のうらがえしであるように思えるくらいに。どうして女というだけでこんな扱いを受けねばならないのか、それは私たちが子どもの頃から、きっと感じていたことだ。そしてそれは、永遠にやまない。私たちは産まれたその瞬間から、死ぬまで、女という呪いにかかり、女として消費される。
「それなら私を殺してもらいたい」
「それは嫌」
「なんで? 私そのほうが嬉しいよ」
「意味分かんない。ナマエが嫌いだと思うやつ、オレが全員殺してやるのに」
「人類を絶滅させる気?」
「…ナマエ、人類になにされたの?」
「私、生きるの向いてないみたい」
笑ってみたけど、たぶんそれはどうにも力なく、嘘らしかっただろう。でもイルミはなにも言わない。産まれながらの抑圧、呪い、そういったものに、きっと彼も心あたりがあるはずだ。
私にはイルミがいるけど、それだけってわけにはいかない。イルミにしか接触しないで、好きに生きていけるなら、どんなに楽しいだろう。快適だろう。けれど、現実はそんなにあまくない。彼の顔や、指先や匂い、声や言葉を思いだしては、理不尽な日々を耐えている。彼だけをこころの支えにして。
「とりあえず今日ナマエを泣かせたやつ殺してくるから」
「えー、その気持ちだけで、いいよ」
「は? そいつに死んでほしくないってこと?」
「そうじゃないよ。なんか、それじゃダメな気がする」
彼は、その呪いや抑圧から逃げずに生きている。両親ののぞむ通りに育ち、のぞむヒトになったのだろう。その強さがうらやましい。おとこのこだからだろうか?そうかもしれない。彼のからだはとても大きくて、頑丈でしなやかで美しい。私のからだが貧しく、みすぼらしく、役にたたないものにみえるくらいに。
だから私も、この状況に耐えて、逃げずに生きなくてはならないのだと思う。彼にあまえずに、彼のように自力で生き延びなければならないのだと思う。そうでなけれは、私は弱くてどうしようもない生きものに、なり下がってしまう。
彼の手が、やさしくあたまを撫でる。大きくて、ごつごつしている、ひとをたくさん殺めたその手がいまは、私をなだめるために存在している。そのやさしさが、胸にしみて、からだじゅうに溶けこんでいく。指のさきから、足のさきまであますところなく、彼になぐさめられているようで、胸がはり裂けそうだ。こんなに幸せで、いいのだろうか?
「そういうんじゃ、ないんだよなあ」
「そうなの?」
「ナマエを苦しめるものはすべて排除したい」
「うん」
「迷惑かな?」
「迷惑じゃ、ないよ。たぶん、あの人たちが死んだら、すごくすっきりするし、嬉しいと思う」
「じゃあいいじゃん」
「でもね、イルに頼ってばっかりで、助けてもらってばっかりで、情けないっていうか。これからずっと、嫌いな人たちを、イルに殺し続けてもらわないと生きていけなくなっちゃいそうじゃない?」
私のことばが、私のこころを傷つけることを私は知っている。これも呪いのひとつなのかもしれない。私をがんじがらめにして、身動きをとらせまいとする。私が私を、不自由にしていく。
「べつに、それでもいいよ」
「…そういうわけには、」
「ナマエはだれにそんな遠慮してんの?人を殺すなんて、オレには大したことじゃないよ」
「うん…なんでかなあ」
「だれに、そんな我慢するように言われたの?」
オレ、まずソイツを殺してくるよ。
彼は、明日は映画をみにいこう、と言うような口ぶりでそんなことを言う。じいっとその目をみつめたら、彼は黙って首をかしげる。その動きや、角度なんかがあまりに可愛くて、頬がゆるんだ。
「オレ、本気で言ってるよ」
「分かってるよ。分かってる、ありがとう」
いままで、こんなに私のためになにかしようとしてくれるひとがいただろうか。こんなに私を愛してくれるひとがいただろうか。
拗ねたように眉をよせた顔に、頬をあわせる。素肌どうしで触れあうことが、こんなにも気持ちよく、私を落ちつかせると教えてくれたのはまぎれもない彼だ。この世でただひとり、ほんとうにただひとり、私の苦しみを、ほんとうの意味で理解してくれるひと。
呪われてうしなうものを、抑圧されてこわれていく部分を、私たちなら言葉なしでも共有し、分かりあえることができると思う。その苦しみの比重が、彼のほうが明らかに大きくても。彼はこのていどでもがき苦しむ私を許してくれる。
「イルがいてくれれば、私だいじょうぶ。殺してもらうのは最後の手段にとっておくから」
「…ナマエがそれでいいなら、いいけど」
「うん、ありがとう」
「ナマエがこわれる前に言うんだよ。ぜったいに。分かった?」
「はい、分かりましたあ」
イルミが、やさしい目をする。それがたまらなく、私を幸せにする。だいじょうぶ。そう思える。彼がいれば、それ以外はぜんぶ、大したことじゃない。そんなこと、とっくに分かっている。彼といるすべての瞬間に、彼が男で私が女で、ほんとうによかったと思うくらいに。過去の苦しみは、彼によって拭いさられるためにあったのかもしれない。彼の存在を、心のそこから尊ぶためにあったのかもしれない。
私たちは足をからませあいながら、息をはずませて、さらに体を重ねあわせる。少しのすき間もないように。私のなかを、彼でみたす。世界じゅうを遮断する。彼以外のすべては、些末でくだらない、たばこの吸い殻のようなものだと感じながら。