私たちはあの星に願う。
ただ燃えている星に、願いを叶えるすべなどないというのにも関わらず。夜、ひとりで窓から見上げる空はひどく暗く、私たちを落ち着かせる。不安にする。孤独にする。何も見えない深い闇。それでも、あの空には星がある。一条さすそのまたたきに、私たちはただ願いをかける。なぜそんなことをするのか、考えもせずに。一番強くひかるあの星に脳裏に浮かんだ願いを込めてしまう。
きらきらかがやく、あの星に。






「星に願いを」







目が覚めた。窓際に置いたベッドには、レースカーテンを過ぎた太陽光が柔らかく降り注ぐ。朝か、昼か、いつもそんなところだ。頭が冴えてくるまで、私はシーツの滑らかさを堪能する。肌に触れている部分は温かく、そうでない部分は冷たい。その辺りを行き来しながら、私は私が起きる気になるのを待つ。
私は時間に縛られない生活を送っている。掛布に殆ど埋もれるようにして目を閉じていたら、枕の下の方にいたらしいスマートフォンが震えた。そのしつこさに枕元をまさぐり、ひきずり出す。画面は、ヒソカからの着信を知らせている。私は無視して、それをベッドサイドテーブルに置いた。しかし、着信はやまない。私は面倒臭さを振り払うように掛布を大きくめくった。
窓の外は白い。太陽の光で満ちている。どこもかしこも。まぶしいくらいに。

「…もしもし?」
「おはよう、お寝坊さん」

寝起きで掠れた私の声とは対照的な、淀みない声色で彼がささやく。私は左手でスマートフォンを耳にあてたままベッドを軽く整える。片手が塞がっているのでお手洗いにも洗面所にも行けず、キッチンに立った。

「突然だけど、あと一時間くらいしたら遊びにいくね」
「勘弁して」
「外食するから用意しておいてよ」
「ヒトの話聞いてる?」
「聞いてるとも」
「ていうかいま何時? まだ食べる時間じゃない」
「十一時過ぎたよ。ちょうどランチタイム」
「いま起きたばっかりなのに」

そう言いながら、私は何もないキッチンの引きだしを開ける。その中に並ぶ、たくさんの瓶を片手でまわし開け、中の粒をひとつずつ出していく。
私は一日に、軽く一食しか食事を摂らない。サプリメントは必需品だった。朝晩に必ず飲む必要がある。
自分は今朝何時に起きていままで何をしていた、という彼の声を音楽か何かのように聴きながら、朝に飲む粒をすべて出し、手でひっつかんで口に含む。飲み物しか入っていない冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで、その粒たちをすべて飲みこむ。
彼は非常に健康的だ。あの筋肉の発達した体を見るといつもそう思う。あれは並大抵の努力で得られるものではないはずだ。

「ナマエ」
「なあに」
「…とにかく行くからね。二時間後」
「はいはい」
「支度しておくこと。それじゃ」
「はいはい」

彼の、苛立ちを多分に含んだ声を、気づいて無視する。すべて、余計なお世話だった。
通話の終わったスマートフォンをベッドに投げて、お手洗いに行く。色のない尿を出して、素肌に着ていた部屋着を脱いでシャワーを浴び、歯をみがく。髪が吸いこんだ水分を幾分かタオルに含ませてから、さっき開けたミネラルウォーターのペットボトルを持って、革張りの肘かけイスに座りこむ。
デスクの上のノートパソコンを開くと、昨日の夜に書きかけていた文章がぱっとあらわれる。真っ白の画面に、黒い文字。まるみのない、実際にペンをつかって紙に書くような、太さが一定でない、消えるような書体が、目に優しい。私は数ページ前に遡って、昨日の私を、よむ。浅くかけて、片足を立てて、背中をまるめて、私はそのまま少しも動くことなく、睡眠によって中断された昨日の続きを始めようとする。
からっぽの私のなかに、私は世界をつくる。すべて文字でできた世界だ。私はそのなかで拡がっていく。どこまでも。肌の表面が粟だつような、感覚が迸る。私は、真っ白のなかに均一に浮かぶ黒い文字の世界に入りこむ。紛れこむ。
私の心はそのとき、確かに夜空にぽつんとひかる、針の先ほどしかないくらいの星を見つめていた。真昼だというのに。大きな窓から容赦なく侵入してくる、太陽なんて、私の影で遮って。
私はあの星に願っている。
なにを?私はあの火のかたまりになにを願っているのだろう?
先ほど遡ったより、もっと前のページに戻る。私は私の世界に溺れていく。流れるように文字を取りこんで、この世を忘れる。数分前によんだ部分すら再び取りこんで、私は確かな指先でその先の世界を拡げる。白い画面を侵食していく、黒い文字。パチパチとキーボードが鳴る。淀みなく、とめどなく、絶え間なく、手入れをした長い爪がそれを叩いていく。その音すら、恒星が燃えている音に、なっていく。パチパチ、パチパチ。燃えている。星が。私の命が。

「ナマエ」
「ひっ」

急に耳もとで声がして、慌てて振り向いた。腰を曲げたヒソカが、すぐそこにいた。あまりの近さに、振り向いた速度で顔を離す。
急速に、かえってきてしまった私は、その顔を黙って見つめながら心臓が落ち着くのを待った。

「ほんと、不法侵入するのやめてって、何回も言ってるよね?」
「やだなあ、ちゃんと遊びにいくよって連絡してたでしょ」
「次からは、まずドアの前でチャイムを鳴らしてくれる?」
「考えとくよ」

彼はちらりとノートパソコンの画面を見る。私は深く息を吐いて、上書き保存をしてからそれを閉じた。かぶっていたタオルで、髪を拭う。
ここには、すべて一人分しかない。少し広いワンルームに、ベッド、ベッドサイドテーブル、小さいデスクとすわり心地の良い肘かけイス、テレビとデッキ、キッチンの隣に小さい冷蔵庫、これだけを置いて生活している。ラフな普段着の彼は私のベッドに遠慮なくかけて、足を組んだ。

「先月、新しいのを出したばっかりなのに、もう次のを書いてるの?」
「あれは半年以上前に書き終わってたの。ていうか、だいたいいつでも何か書いてるし。でも、これは結構かかりそう。すごく難しい」
「どんなはなし?」
「星に願いをかけるはなしをオムニバス形式で」

彼が薄く笑う。あのピエロのようなメイクや扮装をしていないと、なんだかヒソカに見えない、と私はいつも思っている。頬に星と涙のペイントがないときは、どうしてか目に狂気を感じない。前髪が瞼までかかっているからかもしれないけれど。
組んだ足の爪先を上下に動かしながら彼は口を開く。その可愛い爪先の動きに音をつけるなら、ピコピコだ、とかくだらないことを私はぼんやり考える。職業病なのか、目の前の事象を頭の中で文章にしてしまうくせがあった。

「ナマエはそういうメルヘンなの好きだよね」
「メルヘンかな?」
「ウン。ナマエはいつも、少し優しくて、少し美しくて、少し正しい世界を作ってる」

にっこり、と形容できるような完璧さでヒソカは私に微笑む。私はこれをあまり好きでない。いかにも作りものめいているのが、なんだか気に食わないのだと思う。ヒソカもやっぱり、生きている匂いが、あまりしない。
私は、彼のいうような世界を望んでいる。私にも少し優しくて、私から見ても少し美しくて、私のために少し正しい世界。それは私がおこした、文字の中にしか存在しない。このくだらない、うんざりするような、つまらない世界に私は飽き飽きしていた。それは、私がそういう生きものとして産まれてきてしまったからだ。私はヒソカと違って、この世を楽しめていない。何がずれてしまっているのか、それすら分からなくて、私は仕方なくこうやって、神様になった。何もない真っ白な画面に黒い文字を産んで。

「ヒソカも、読書とかするんだね」
「失礼だな、ボク結構、博識だよ」
「それ、自分で言う?」
「ナマエが思ってもいないこと言うからだよ」
「ヒソカ、意外と物知りだもんね」
「でしょ」

いたずらっ子の顔で笑う彼が、唯一、私が生きている現実の中で、嘘くさい生きものだった。それはつまり、私の世界の中から飛び出してきたようなものだった。
私にも少し優しくて、私から見ても少し美しくて、私のために少し正しい。
聞いたところによると、快楽的に生きている彼は複数の住処があり、この辺りにもひとつあるらしい。生活必需品を調達する際に、大量かつ複数のサプリメントとミネラルウォーターをペットボトルで購入し、配達してもらっている私を幾度か見かけることがあったらしい。食べものの匂いがしない私に興味を持ったそうだ。別に、食べていないわけでもないのに。
そんなことで声をかけてきた彼は、このくだらなくてうんざりする、つまらない世界の中にいるとは思えないくらい異質で、言ったことはないけれど、私は結構好きだった。

「ナマエのことだから、シャワーを浴びたっきりかと思って早く来たけど」
「本当にその通り」
「近くにできた新しいお店がさ、結構イイ感じだったんだ」
「そう」
「またロクに食べてないだろ?」
「今日はまだだけど、昨日はパンを食べたよ。隣で売ってる、一袋に五つ入ってるの」
「どうせ、五日かけて食べきるつもりのくせに」
「うん、大当たり」
「ナマエの体、がりがり過ぎて萎えるから、もうちょっと食べてよ」
「じゃあヤんなきゃ良いのに」
「もうボク無しじゃ生きられないのはナマエでしょ」

流し目で笑われて、私は言葉に詰まる。セックスが、ではない。ヒソカが、いないと私は窒息してしまうかもしれない。私はたまにそんなことを思う。
毎日毎日、同じことを私は繰り返している。朝と昼の間辺りに起きて、サプリメントを摂りシャワーを浴びて、私の構築した世界の中に引きこもり、何か適当なものを少し食べ、また世界に引きこもり、明け方に眠る。たまに、買い物に出たり、担当の編集者とメールや電話でやりとりをしたり、入稿後は近くのカフェで打ち合わせをしたりする。それだけだ。くだらない。うんざりする。つまらない。たまたま、買ってくれる人たちがいるおかげで私は食いっぱぐれることなく慎ましい毎日を過ごせているだけだ。
私の世界のように白と黒で統一されている、そんな毎日に、ヒソカだけが色を投じることができた。彼は容赦なく、白い壁に書いた私の黒い文字の上に赤や青などで何かを書き殴る。多分、それこそが、私の求めるものだった。欲しているものだった。私の、生きている実感だった。

「すごい、自信だね」
「ボク、そういうところあるからね」
「そうだね」
「さて、もう着替えなよ。今日はあれが良いな」

彼はそう言って立ち上がり、勝手にクローゼットを開ける。週に一度、外に出るか出ないかくらいの私はあまり洋服を持っていない。ヒソカに連れ回されて、買い与えられるまではスカートやワンピースなど持ってすらいなかった。彼はハンガーにかけられて整然と並んだ洋服の中から、ネイビーの襟付きワンピースを取り出す。ウエストにギャザーの寄ったそれは一枚で着られるという点で気に入っていた。彼はウエストから下がフレアになっているのが好きらしい。
肘かけイスから立ち、彼の隣で私はそれをすぽんと着る。フェイスパウダーをはたいて、アイラインをひいてビューラーを使う。グロスを塗って、それをヒソカが履いているコットンパンツのポケットに差し込んだ。私はスマートフォンだけを持つ。彼の手には、白いストラップのサンダル。

「サーモンのマリネがすごく美味しいんだ」
「ふうん」
「レモンが効いてて、さっぱり食べられるよ」
「レモン?初めてかも」

ヒソカが屈んで、私のサンダルのストラップを留める。ドアを開けたら、窓から差し込む太陽の光が共用部を照らしている。まぶしい。目を細める。きらきらしていて、とても綺麗だった。私はつい先ほどまでの、ひとりでいた時間を思い出す。
きっと、そのお店で彼は私の好きそうなものを幾つか頼むだろう。私はそれを少しずつだけ摘まんで、残りは全部彼が食べてくれることになる。俗物的な生きものの匂いをさせて私たちはまた私のマンションに戻るだろう。そしてその名残でセックスをする。すべて消化しきった後、また私たちは私たちの毎日に戻っていくだろう。そして私の世界が白と黒で埋もれ出した頃、また彼が、食べない私に食事を促しに来るのだ。
多分私は今夜、ひとりで窓から空を見るだろう。もしそこに、針の先ほどでも星がきらめいていたら、きっと願ってしまう気がする。きらきらかがやく、あの星に。