「わたし、イルミのお人形になりたい。キルアくんみたいに、わたしにもその針さしてよ。ねえ、イルミ、きいてる?」
「聞こえてるよ。ていうかうるさい。ちょっと黙ってて」
わたしはあからさまにしょぼくれた顔をして俯いた。ここはわたしの借りているマンションの一室で、イルミは仕事のときや休みの日なんかに、よく泊まりにくる。でもだいたい、イルミはなにかしていて、わたしのことなんて眼中にまるでない。今日も、テーブルの上におおきな茶封筒から取り出した依頼書類とそれにまつわる資料をひろげてくまなくチェックしている。そんなの、ククルーマウンテンのおうちでやれば良いのに。これが言えたら、苦労はしない。わたしはクッションをかかえて、ソファーの上でちいさくなる。
むきだしの腕の、はがねのような筋肉。なぜか伸ばしている、黒髪。触りたいけど、邪魔しないで、と怒られるのは火を見るよりも明らかだった。そもそも、いつ触ったって怒られるのだ。
イルミは野心家らしい。ここにいる彼は、そっけなくて、なにを考えているかちっとも分からないから、わたしはそんな彼を想像できない。手を焼いている弟の話なんかをしているとき、彼はやたら饒舌になる。あったこと、感じたこと、そんなことを次から次へと、わたしが相槌すらはさむ間もなく、とんでもないはやさで話しつづける。そして、たまになにかが腑に落ちたように、その目でわたしをみつめておし黙ったり、する。そんなときいつもわたしは、その弟をうらやましく思う。きっとイルミのものにならないから、思い通りにうごかないから、イルミはこんなに必死になるのだろう。それにくらべて、わたしはあっさりと彼のものになってしまった。きっと、興味がなくなるのだろう。所有物はもう、管理するだけで良いのだから。
あまりの寂しさに、ソファーにかけてある、イルミのジャケットに顔をよせた。くんくんと鼻をうごかせばイルミの匂いがする。わたしは邪魔しないよう静かに位置をかえて、背もたれにしなだれながらイルミの匂いを堪能する。
「…なにしてんの」
「え?ああ、気にしないで。つづけてていいよ」
「気になるんだけど」
「くんくんしてるだけだよ。いい匂いなんだもん」
視線をそのジャケットから、イルミにむかわせる。氷のようなつめたさで、彼はわたしを見ている。そういうのがほんとうに、堪える。胸にささる視線をうけても、わたしは泣かないようにすこしだけ歯をくいしばる。イルミのことが、いまはなんにも分からなくて、やっぱりわたしはお人形になりたいとおもう。いつか、イルミが大好きな弟の額にさしたあの針をさしてほしいとおもう。それか、あのがんばりすぎて死ぬ針でもいい。
「イルミ、ふだんどこに針かくしてるの?」
「教えるわけないだろ」
「えー、ぷすっとしてよ。わたしに」
「嫌だよ」
「じゃあ自分でやるから」
「オレが念をこめなきゃ意味ないよ」
「じゃあこめたのちょうだいよ」
「嫌だよ」
「じゃあわたし、どうしたらいいの?」
イルミはわたしの言葉を無視して、テーブルの上に視線をもどした。わたしは悲しくて悲しくて、ソファーからおりる。歯をつよくくいしばって寝室に入った。ドアを閉めたら、涙がぼろっと落ちてくる。わたしって、あなたのなんなの?分からなくて、辛い。
声をださないようにがんばりながら、もたもたとベッドに入った。シーツがひどく冷たくて、それがさらに涙腺を刺激する。そのなかに横むきでちいさくまるまって、流れるままに涙をシーツに吸わせた。なんで好きなんだろう。なんで好きなんだろう。こんなに苦しいんだから、やめちゃえばいいのに。
つたってくる鼻水を、すんすんとこらえながら、目を閉じてイルミの姿を思い浮かべる。その手があたたかいこととか、でも滅多につないでくれないこととか、髪に触れるとすぐにふり払われることとか、思いだしたいようで、そうでないようで、ぎゅうときつく目を閉じる。
夜逃げしようかな。イルミに内緒で、どこかとおくにいこうかな。でもそんなことしたら、イルミ、困っちゃうかな。どうがんばっても会えないところに、行きたいな。どこか、とおく。うんと、とおく。
がちゃん、と乱暴な音がして、寝室のドアが開いた。わたしは、おどろきのあまり、ばちんと目を開ける。
「ナマエ、うるさい」
うるさくしてない、しずかにしてた、なんで泣いてるのにそんなこと言われなくちゃいけないの。返そうと思う言葉の候補はたくさんでてくるのに、肝心の喉や口が、言葉をつむげる状態になかった。ぶるぶるふるえる唇と、裂けてしまうんじゃないかと思うくらいにひきつる喉の痛みに耐えて頭から掛布をかぶる。
足音のしない彼が、そんなわたしの抵抗をものともせずに強いちからで掛布をはがした。
「なに泣いてんの?」
「ほ、ほう、ほっと、い、て!」
「こんなにうるさいのに放っておけるか」
「し、しずかに、して、してる、もん」
「お前の声はよく聞こえるんだよ」
「意味、わか、分かん、ない」
「オレを誰だと思ってんの?」
「い、いる、いるみ」
肩をつかまれて、ベッドに座らされる。直前の回答がわるかったのだ。でも、いまのわたしは長く話すことができないのだからしかたない。イルミがこわくて、目を閉じる。ほんとうは両手で耳をふさいで縮こまりたかったけれど、手がふるえていて、うごかすのを諦めた。
目を閉じているわたしの背中に、あたたかい腕が触れる。イルミだ。イルミが、わたしを、抱きしめている。こんなことは滅多にない。少しちからをこめただけでも、全身の骨をこまかくくだけるであろうその両腕は、きゅうとわたしに巻きついて、わたしはそのからだに寄せられている。あたたかい。イルミの匂いを吸いこんでいる。夢みたいだ。
「い、いる、なん、なんで」
「うるさい。さっさと泣き止んで」
ふるえる手を、そっとうごかしてイルミの背中にまわしてみる。ぴく、と彼が反応したけれどなにも言われなかった。それが嬉しくてたまらなくて、ぎゅうとちからを込めてみる。伝わる体温が、感触が、わたしにイルミを実感させて、涙はなかなか止まらない。
「いる、イルミ、すき、すきすき、すきなの」
「そんなの分かってるから」
「だから、わたしのことも、キルアくんやアルカちゃんみたいに、欲しがってほしいよ。オレのもの、に、してよ、ちゃんと」
足をうごかして、イルミとわたしのからだの間を埋める。ぴったり、くっつく。イルミが好きすぎて、どうしたらいいか分からない。どうしたいのか分からない。
もう、まざり合ってしまいたい。まざり合えないなら、その針をさして人形にしてほしい。わたしのこころなんて、なくていい。イルミをおもって苦しくなるこころなんて、なくていい。イルミのものになってしまえば、それでいい。
「ナマエはオレのものだ」
「そ、そうだけど、イルミ、つめたい。わたしのことなんか、要らないみたい」
「オレがいつ、要らないなんて言った?」
「でも、」
「ずっとオレを好きだって言い続けろよ。オレを肯定し続けろよ。オレを、許し続けろよ」
「イルミ、」
「針なんてささなくても、オレのものでいろよ」
イルミの声に、ほんのすこしだけ、感情がもれていて、わたしは黙る。彼の望んでいたことを、わたしはようやっと理解できた気がした。顔をあげたら、眉間にしわを寄せたイルミがわたしを見ていた。ふたりともなにも言わずに、しばらく見つめあう。
イルミ、こんなにあたたかいのに。ねえ。
「イルミ、ごめんね」
「…なにが」
「わたし、イルミのこと、大好きだよ」
「…そう」
「わたしが、イルミのこと、好きなんだよ」
「…おぼえとく」
「うん、そうして」
胸が、いっぱいで、わたしはイルミの立派な胸板に頬を寄せた。いまやっと、イルミと分かり合えた気がする。もっとはやく、もっと分かりやすく、言ってくれればいいのにとおもったけど、もうどうでもよかった。
胸板に顎をつけたまま、彼を見上げる。イルミ。そう言ったら、なに、と平坦な声がかえってくる。背中にまわしていた腕をのばして、頭をなでてみた。ふり払われるかわりに、彼の目がほんのすこし、ほんのすこしだけ、細められる。