イルミは珍しく、スリーピーススーツを着ている。長い髪を無造作に後ろでひとつでまとめた姿は、一瞬誰だか分からないくらいだった。仕事で、パーティー会場に潜入していたらしい。私もたまたま、旅行という名の創作活動を一時終えて出版社に寄るためにスワルダニシティーにきていたので、彼が拠点にしていたホテルに遊びにいくのも自然な流れだった。
「また新刊だすの?」
「うん。これそのゲラ」
簡素な封筒にいれられた、分厚い紙の束。私はいつも、ひとつテーマを決め、それにまつわる短編を数編書いて一冊の本にしている。
イルミはまとめていた髪をおろし、ジャケットを脱いでその辺にかけた。
「ほんとうにナマエは仕事熱心だよね」
「それ、イルミが言う? イルミのほうが百倍、仕事熱心だよ。私のは趣味の延長」
私が笑うとイルミも形だけ、口角を少し上げた。私の座るソファーの向かいに、彼は音もたてずに掛ける。長い脚をななめに流して組んでいるその姿は映画のワンシーンを切りとったみたいで、彼を含めて作りものみたいだった。
「オレさ、ナマエの書くはなし、結構好きなんだ」
「そう? ありがとう。なんか、恥ずかしいけど」
「不思議すぎてさ、この世のものじゃないみたいに。だからたぶん、好きなんだと思う」
「この世のものじゃないからね」
「そういうのを書こうとは思わないの?」
「この世のものって、すごく、苦しいし、辛いし、どうしようもないじゃない。だから書かない」
「ナマエのちからで捻じ曲げれば良いんじゃないの?」
「それは、あんまり。なんていうか、現実から目をそらす、助けになりたくないっていうか」
人生において、ハッピーエンドっていうのは、すごく難しいと思う。この世は、だいたい、救われない。神様は、持たないひとたちからも容赦なく奪う。持っているひとたちだって、いままでたくさん、奪われてきたのだ。そして、きっと今後、奪われる。そんな世界を、美しいものに捻じ曲げて、むりに幸せな結末を迎えさせようとは、どうしても思えなかった。私が、現実的な話を書くなら、きっとどうしようもなく陰鬱で最初から最後までなんの変化もない、ただ真っ暗なトンネルの中を歩く数分を切り取ったようなものにしかならないだろう。それが真実だからだ。美しい、こころ洗われるようなものだけが、この世にあるわけじゃない。けれど、読者はバッドエンドを嫌う。だから私は空想作家として、ありもしない世界をいちから作り出す。私が神様で、バッドエンドが存在しない、ハッピーエンドの世界を。私も好きな、幸せな結末を。
イルミは、ふうん、と言う。なんの感情も反映しないその顔に、表情というものはあまり見られない。彼はいつもお人形のようだ、と私は思う。なかなかいない、左右対称の顔立ち、計算づくにすら思える作りもののような目蓋、黒目勝ちな目元。それを際だたせるために、主張しないけれど整った鼻筋や口もと。
産まれてから、いまこの瞬間まで、彼は浮世離れした人生を歩み、これからもきっとそうなるのであろう。彼の人生には、バッドエンドもハッピーエンドも存在しないのかもしれない。彼は物語の外がわに存在しているようでもあるし、彼にはそういう認識がない、ようにもみえた。
「イルミは、なんでそんなに仕事熱心なの?」
「べつに、熱心なわけじゃないよ。ほかにやることもないし、なんかやってないと、ダメなんだ」
鮫みたいだ。そう思った。鮫にはエラ蓋がないから、常に水流がないと呼吸ができない。流れのない水中では泳ぎつづけるしかない。死ぬまで、ずっと。彼にはなにがないから止まれないのだろう。
彼の目はどこか遠くを見ている。窓のそとはもうとっくに日が落ちていて、濃紺を背景に高層ビルたちがきらめいていた。けれど、昔、避暑地で出会ったときから、彼は変わらない。どこにいても、なんの話をしても、きっと私は彼がよく分からない。
この話題が、楽しいものにならないことを察知した私はテーブルにおいていた封筒から、紙の束を取りだす。何度か校正されているけれど、比較的きれいなゲラを彼に片手で差し出した。
「よむ? 新しいの」
「いいの?」
「うん」
彼はそう言いながら手をのばす。今回は、死に至る病をテーマに書いた。イルミのことを考えて、イルミのことを理解しようと努めると、どうやら私の感受性が刺激されるらしい。なんでもない風景や言葉から、むくむくと世界が広がっていく。
イルミは、なにがほしいのだろう? それを手にいれてどうするのだろう? いつも、そんなことを考えていた。私の書きあげたはなしの中で、どれかひとつでも彼に近づけるヒントがあれば良いとおもう。今回、私はこのはなしを完成させるために、たくさんの絵を描いた。死に至る、美しい病に冒された、ひとびとをより強くより激しく描写するために。
イルミは、黒に赤がまじる文字を黙って目で追っているようだ。
「さっきと、言ってること矛盾するのは分かってるんだけど」
彼が視線を上げた。鼻の高さや、この角度から見える骨格なんかが、あまりにも精巧にできていて、こわいくらいだった。
「私、たぶん、あなたに、ハッピーエンドをプレゼントしたいの」
「…どういうこと?」
「現実は変えられないけれど、幸せな体験をしてもらいたい、っていうか」
ある日突然、死に至る病に、かかる。彼らは、その病のため、からだを美しく変質させていく。その病は、治すことができない。痛くもかゆくも、苦しくもないけれど、ある日突然やってくる、美しい死の宣告。この世から消えてなくなる日が確定したら、それが、何年も何十年も先でなく、すぐに訪れてしまうとしたら。私はどうするのだろう? イルミは、どうするのだろう?
私は、夢中でそれを紡ぎつづけた。美しい風景を見にいって、鮮やかな青と白と緑と、あらゆる花の色を目前に、その草むらのなかでキーボードを叩きつづけたこともあった。自らの描いた、変質したからだの絵でさらに空想を膨らませ、細部までを描写し、彼らに寄り添ったり、彼らになったり、その美しい病になったり、した。
私たぶん、あなたに伝えたいことが、たくさんある。けれど、私は言葉をたくさん知っているために、どれが適切なのかが、分からない。だから、言葉をよせ集めて、感情をかき集めて、あなたに伝われと私の身を削る。あなたの感受性で、受けとってほしいのだ。私の世界を。
イルミは、優雅な動きで脚を組みかえる。たれてきた髪を耳にかける。たったそれだけで私の胸は締めつけられる。
「ナマエの書くはなしってさ、オレがいままで考えたことも感じたこともないようなものばかりなんだ」
「うん」
「オレいままで、なんにも考えずに生きてきたのかもしれない」
「…そんなことないよ」
「ちがう。ちがうよ、そういうんじゃなくて」
「うん」
朝、ぱちんと目が覚めたら、天井に小さな花が貼ってあった。誰がそんなことをしたのだろう。そう考えて何度か瞬きをした。それはピンク色の、繊細な花びらを持っていた。私は姉と暮らしているから、彼女がやったのだろう。目を閉じてから寝返りをうち、もう一度目を開けた。今度は、ベッドサイドテーブルの目覚まし時計に、小さな花が貼ってあった。表面の硝子に貼ってあるようで、秒針はその下をすり抜けていく。天井にあったものと、まったく同じに見えた。どういうこと? と腹立たしく思いながら、首だけを動かして天井を見た。やっぱり、天井に花が貼ってあった。けれど、その花は、間違いなく、目覚まし時計に貼ってあった花だった。その花は私の視線についてきていた。正確には、私の目に貼りついていた。どこを見ても、私の視界の決まった位置に、その小さな花はいる。ピンクの影をはしらせて、ついてくる。とびあがって、鏡を覗きこんだ。私の、こげ茶色の瞳の少し左上の辺りに、ピンク色の点が見えた。そして、やっぱり、鏡にもピンク色の花が咲いていた。
このはなしを書きながら、私はいつものように、美しい言葉で、美しい風景を描写し、美しい世界を築こうと努力した。
「私、イルミに幸せになってもらいたいと思ってるよ」
「…オレ、不幸にみえてるの?」
「そういうわけじゃないけど」
特殊な家に産まれ、がんじがらめで育ち、あらゆる恐怖を、痛みを、抑圧を、その身に取りこんで生きている彼に、私はなるべく寄り添いたいし、世界が、それだけじゃないことを教えたかった。彼が、なにを望んでいるのか、私にはさっぱり想像もつかなかったけれど、生きる世界の選択肢が多少増えるのは、べつに悪いことではないはずだ。
「なんていうのかな、オレ、ナマエの世界のなかで生きてみたいなって、思うよ」
「私の書いた、はなしの中に?」
「うん。きっと、見たこともない世界なんだと思う」
イルミが、視線を紙に落として、少しだけ笑った。胸が、ぎゅうと、苦しくなる。
言わなかったけど、見たこともない世界が広がっているんじゃなくて、イルミにない感受性で、イルミも見たことのある世界を見ているだけだと、思っていた。分かっていたけど、彼も私も同じ世界を生きている。視点という、ただそれだけの違いをもって。
彼は、暗殺などの仕事に針を使うと言っていた。その針を、自分にも刺すらしい。私は、想像する。イルミが子どもの頃、自らのからだに初めて針を刺す瞬間を。その瞬間の、恐怖を。葛藤を。苦しみを。痛みを。そして、鈍感になっていく過程を。そのときに得たたくさんのものと、そのときにうしなったたくさんのものを。
やっぱり、私には少しも分からない。分かって、あげられない。もどかしさに、目をふせた。
「イルミ…」
「なに?」
「いや…なんでもない、」
次の日起きて、目を開けたら、黄色い花が増えていた。昨日の、ピンク色の花より少し大きくて花びらが膨らんでいるように見えた。無機質で真っ白だったはずの天井に花が二輪咲いている。春のような、鮮やかさと瑞々しさをもって。私は胸を絶望でいっぱいにして、溜息をひとつ吐く。この花たちが私の視界のすべてを塞ぐと、私は死ぬ。そして私のからだは、たくさんの花の種になるらしい。医者はそう言っていた。毎日、色や大きさを問わない、さまざまな種類の花が私の視界に貼りつく。視界を塞いでいく。やがて、私は死ぬ。この目に映る世界をすべて美しい花で満たして、死ぬ。悲しくて、苦しくて、辛くて、どうして私なのという気持ちで、涙が溢れた。花が滲む。これは、死に至る病だった。