とうに灯りを消した暗い部屋で、手の中で震えるスマートフォンを見つめる。首を直角に曲げて、落ちてきた髪が私の視界を広く遮断している。画面は彼からの着信を告げていた。私はそれを黙って眺める。苦しみでいっぱいだった。でもそれは、進んでも戻っても変わりのないことだった。彼との関係に溺れても辛くて、断ち切っても辛い。彼は麻薬のようだ。快楽と引き換えに、肉体を蝕む。
震えが止まると画面がもとに戻る。私は安堵の溜息を吐いて、ベッドに入った。掛布に足をいれて座ったまま、カーテンをめくって窓から空を見上げた。暗くて、広い。ちっぽけな私の存在をおもって、安心する。大丈夫。昏い空を眺めていると、吸い込まれてしまいそうでいい。その深さで何もかも覆い隠してくれるのがいい。彼の電話を無視するのは、今日でやっと一週間になる。
カーテンと窓の間に入り込んで、じいっと空を見ていた。吸い込まれたくて、目を凝らしていた。曇っていて、星も月も無いのがいい。昏いばかりで、いい。こつん、と何かが窓に当たった。空ばかり見ていた私は、視線を落とす。彼がいた。

「ヒソカ」

ぼとり、と私は空から地上に落っこちるように現実に引き戻される。目が合って、私の喉はひゅう、と音をたてた。すぐにカーテンの中から抜け出て、レースカーテンと遮光カーテンを閉めた。街灯の、一筋の灯りだって許さないようにぴっちりと。それでも、こんこん、と窓が叩かれる音がする。ここは二階だ。両手で、耳を塞ぐ。こんこん。聞こえる。こんこん。さっきよりも強い音になる。ぱきん、と微かに嫌な音がした。かちん、とさらに、音。彼が何をしたのか、想像ができて、私は慌てて窓から離れる。足にまとわりつく掛布を握って、カーテンを見つめる。心臓が、弾け飛ぶんじゃないかと思うくらい、うるさい。
からり、と窓枠が滑る音がして、私の絶望は現実になる。

「ナマエ」

カーテンの合わせ目から、左手が現れる。低くて甘い声が、私の肌を粟立たせる。どうしよう。そればかりが脳裏に浮かぶ。どうしようもない。そんなこと、彼に触れた瞬間にはもう、分かっていたことだった。一息吸ったなら、もうそれなしでは生きていけなくなるだけの中毒性が彼にはあった。くらくらしていた。私はすっかりくらくらしていて、おかしくなっていた。でも、おかしくなっていない部分もあって、そこが私を彼から引き止めていた。
その左手がカーテンを開く。少し離れた位置の街灯の灯りで、明瞭になる。鍵の部分が小さく半円状に切り取られた窓硝子と、口角を緩やかに上げて侵入してくるヒソカを見て、私は泣き出したくてたまらなかった。

「そんな顔しないで」
「なん、なんで…」
「全然電話、出てくれないのにさ、」
「出なかったの」
「分かってるよ。…心変わりでもした?」
「そういうんじゃ…ないけど…」

音もなく降り立った彼は窓を閉める。カーテンも、閉める。私は下を向く。この一週間の努力が、すべて水の泡だ。
ずるずるはまって、抜け出せなくなる。それでなくても私は、ひとりで生きていけるだけの強さを持っていた。同時に、すべてを許せないくらい弱かった。この世そのものが息苦しい私の、酸素になったのがあのひとだった。すごい、と思えるひとだった。私が大したことのない存在に思えた。そういうひとは少ない。ずるずるはまって、どんどんダメになっていく。そんな気がしていたし、実際そうなった。彼は私にとって、諸刃の剣だった。
彼無しでは生きていけない。もう殆どそうなっている私を見ない振りをして、そんな私に成り下がるのを怖がった。いつか必ず訪れる別れの瞬間を、彼のいないその後の人生を、私は最初から強く強く意識していた。ただ、強くて弱い私のためだけに。

「ナマエ」

彼の手が、私の頭を撫でる。私がびくん、と強張ったのも気にせずに、その手は優しく頬に滑り落ちていく。温かくて、大きな手。自分で触ってもそんなことないのに、どうしてひとに触られると気持ち良いのだろう。手のひらのほうの、感覚がないからなのかもしれない。触れられるその感覚だけに、一途になれるからかもしれない。彼の一番外側と、私の一番外側が薄く溶けて、ほんの少しだけ混ざり合っている錯覚さえ覚える。
悔しい。どうしようもない。自分で断ち切ることも許されない。自分で捨てることも許されない。いつか捨てられる不安に苛まれ、恐怖に慄きながら、今か今かと待つことしかできない。

「ナマエ、どうしてボクのこと無視するの?」
「…私、ヒソカといたら、ダメになる」
「なってないよ」
「ヒソカのいない、毎日を、過ごせなくなる」
「どうして、ボクがいないの?」
「いつか…いつか、絶対捨てられる」

小さく、ヒソカが笑ったのが分かった。別に、なんとも思わない。永遠なんて、ない。特に彼には、永遠に、とか、一途、だなんていう言葉は笑ってしまうくらい似合わない。そもそもが、理解の範疇の外にあるのに。私は彼が分からない。私は彼を知らない。私は、ほんの僅かな部分でしか、彼と彼を共有できない。そうでなくっても、自分以外の生きものなんて信じられないのに、彼はもっともっと信じられない。それでも、彼に恋する気持ちが少しだけ勝って、彼を他の誰にも触れさせたくないとも思って、でも私はそれを強制することはできなくて、信じられないと思いながらも、信じるしかなかった。
顎を持たれて、有無を言わせずに上を向かされる。目が合う。やや小さい黒目が、穏やかな色をしている。上がった口角が、全然不自然じゃない。やめて。もうやめてよ。これ以上、私を弱くしないで。もう私を解放してよ。

「捨てないよ」
「…うそつき」
「ボク、あんまりよそ見しないタイプなんだって、知らなかった?」

覗き込むような目つきが、私から言葉を奪う。知らないよ。そんなの知らない。私は彼のことを、全然知らない。いろんな感情が、私じゃどうしようもないところでぐるぐる渦巻く。喉が、裂けるように痛んだ。あ、泣く、そう気づく頃には、目の前のヒソカが滲んでぼやけて歪んで、すぐに一粒溢れ出した。それを呼び水として、両目から涙が垂れていく。涙が落ちても溢れてくるせいで、彼がいまどんな顔をしているのかも分からない。

「ごめんね」

何も言えずに全身で震える私を抱き寄せて、ヒソカが言う。違う。そんなことは分かっている。ヒソカが謝ることなんて、何一つない。私が勝手に信じられなくて、私が勝手に疑って、私が勝手に。全部、私が勝手に空回っている。これ以上傷つくのを恐れて、優しいものすら手離そうとしている。いつ、どこで、何に、誰に、傷つけられるのかは分からないけれど、とにかく私は、私を傷つける、もしくはその可能性のあるものを遠ざけたくて仕方ない。ただそれだけなのに。
ごめんね、彼は何度もそう言いながら、私の頭を撫でたり、背中をさすったり、する。一切、彼に非がないのにそう繰り返しながら。優しい。彼はきっと、強いからひとに優しくできるのだ。でも、その優しさが、怖い。その優しさすら、怖い。そのために、彼を遠ざけて、それが彼を傷つけていたとしても、私が傷つけていたとしても。私すらを傷つけていたとしても。

「すきだよ、ナマエ」

とどめを刺されて、私はただ、震える手で彼の腕を掴んだ。後生だから、強い私を、どうか返して欲しい。