大きなビニール傘を買った。私はチョコレート色の傘を差し、外装を外してもらった傘を持つ。雨用の靴なんて持っていないしここは出先だったから、いつものブーツを履いてきた。雨粒が傘に当たる音、私の靴が水溜りに踏み込む音。ばたばた、ばしゃばしゃ、それらは大きな音をたてる。私とその他を遮断するように。
最近はよく分からない天気になることが多い。陽のあるうちは晴れているのに、暗くなると途端に雨が降り出す。激しく叩きつけるようなそれはやがて雷をよく落とした。
今週からイルミは遠方での仕事で、私は観光目的でそれに同伴してきた。雨が降り出したので散策を中止しホテルでのんびりしていたら、仕事を終えたという彼から連絡が来たのだった。傘を持って迎えに来て、と。仕事中に傘は持たないだろう。けれど確かに、帰り道はそうはいかない。帰るときに置いていこうと思い数日前に買った、可愛い色とデザインの傘がこんなふうに役に立つとは思わなかった。繁華街を少し外れた、指定された辺りに行く。立ち並ぶ飲食店から灯りが漏れていた。街灯もそれなりにあるので、辺りを見渡せるくらいには明るい。どこにいるのだろうと首を動かしていたら、細い路地から名前を呼ばれる。振り向けば、壁にもたれるようにして立っているイルミと目が合った。
「イル、そんなところにいたの」
「ここ一応屋根があるから」
彼が視線だけで上を見る。隣の店が何か置くためなのか、薄いトタン屋根が続いていた。周囲に人気がないことを確かめてから、近寄って暗がりの中に傘を差し出す。売っていた中で、一番直径が大きいものを選んだ。暗かったせいか彼はあまり濡れていないようにも見えたけれど、雨宿りをしている間に少し乾いたのかもしれない。私が一歩、細い路地から離れると、彼が一歩進んで傘を広げた。
雨が、ぱたぱたと固いビニールに当たって弾ける。明るいところで見ると、彼の長い髪がびっしょりと濡れているのが分かった。
「ナマエ」
「なに?」
「こっちの傘に入りなよ。歩きにくい」
「ふたりで入ると濡れるよ」
「良いよ。オレもう濡れてるし」
イルミは言い出すと聞かないので私は渋々傘を閉じて彼の持つ大きなビニール傘に入る。見えるより雨に打たれたらしい彼に近づくと、瑞々しい雨の匂いが強くした。傘が、私の方に傾く。やっぱり言っても聞かないだろうと思い、傘を持つ手を握って真上を向かせようとしたけれどその手はびくともしなかったし、すごく冷えてもいた。
遥か上方にあるイルミを見上げて少し睨むも、相変わらず彼の黒目は最近の天気よりも、読めない。
「ビニール傘って、久しぶりかも」
「そう」
「こんなふうに見えるんだね。ちょっと、きれい」
見上げた先の、張り巡らされたビニールに雨が当たる。ばちん、とかばた、とか音がする。大きな雨粒が丸く残って、弾けた飛沫も小さな丸になってそのまわりに散らばる。それが、傘全体で不規則に行われていた。ぶつかる音が幾重にも響いて、たくさんの雨粒が貼りつき、流れる一筋に混ざり合い、そしてこぼれていく。街の灯りを大小様々な曲線で反射していて、なかなか幻想的にも見えた。最後に透明な傘を使ったのがいつだった思い出せない私には、初めて見るような気もする。
夢中になって見上げていたら、イルミが私を呼ぶ。少し視線をずらして背の高い彼を見たら、足元、と注意された。水溜りをすべて避けることはできず、深いものだけを避ける。じゃぼ、ばしゃん、と二人ぶんの水音。彼の長い足はいつも私の歩く速さに合わせてゆっくりと動く。
「たまには雨も良いね」
「オレは嫌」
「情緒に欠ける」
「ナマエはオレに情緒とかあると思ってたの?」
「そう言われるとないかも」
「でしょ」
イルミの肩が、濃く濡れている。私はそれについて何も言わずにおいた。ただ、ひどく胸が締めつけられていた。彼は本当に、その表情や言葉に感情を反映させない。多分、ご両親の訓練の賜物なのだ。ふたりきりのときに見せる僅かな表情や抑揚の機微は、隠すということをやめているからではないかと、実は期待していた。だって彼はこんなふうに、そんな素振りも見せずに、まったく素知らぬ顔で、私に親切にしてくれる。こういう関係になるまで、彼がそういった部分を持ち合わせているとは思いもしなかった。
私は彼の腕にしがみつくようにして、また傘を見上げた。彼は、無言で手首から下を傾けて私に当たらないようにする。仕方なく私は、その背中に手を当ててまたしがみつく。
「濡れるよ」
「いーもん」
「風邪ひかないでよ。面倒だから」
「これくらいじゃひかないもん」
その優しさに、口角が上がりそうになるのを堪えた。行動と、言葉があまりにも食い違っていて、胸が温かいもので満たされる。
外には街灯があるし、根気強く営業している店からの灯りも漏れていた。けれど、強く重く打ちつける雨の中、誰もが傘を差して身をひそめ、下を向きながら足早に去っていく。誰も、身を寄せ合うふたりのことなど気にも留めない。
ぎゅうと体を寄せる。彼は、諦めたのか黙ってそれをそのままにしてくれる。彼から寄せることはないけれど、離されることもない。ようやく、私たちが宿泊しているホテルに着いて、車寄せで傘を閉じた。振り返ると、暗闇を幾重にも切り裂くように、たくさんの雨筋が白く見えた。
この天気のせいで人は疎らで、スムーズにエレベーターに乗って部屋に戻る。
「お湯ためるから、お風呂入ってあったまって」
「ナマエも一緒」
「えー」
「じゃあシャワーで済ませる」
「仕方ないなあ。甘えんぼなんだから」
そう言って、冷たい髪を撫でた。すぐにバスルームに向かい、バスタブに熱い湯を注ぐ。ガラス張りのバスルームは、雨に打たれて暗闇も、それに浮かぶ街の灯りもぼやけて滲んで私の知る世界じゃないように見える。けれど、そんなことより重要なイルミのいる部屋に戻れば、彼は特に濡れていた上着だけを脱いで椅子に腰掛け、腕を組んで俯いている。疲れていることはすぐに分かった。彼がそういう部分をさらしてくれるというのも、どうにも嬉しくて、愛おしくて、たまらない。
彼の向こうの、大きな窓の外が一瞬、白く明るく瞬いた。あ、と思う頃には、大きな低音が響く。音の規模が違う。すぐそこで鳴り響いていると錯覚するくらい、耳のそばで聞こえた気がした。また外が一面に真っ白くなり、ごろごろごろごろ、空が唸るように鳴って、雷が落ちたことを知る。
私は気にせずに、イルミのもとに行く。絨毯の上に座り込んで、彼の組んだ足にもたれて、長い髪に隠された表情を窺う。大きな目は閉じられて、眠っているかのような、穏やかな顔をしていた。私が、覗き込んでいることなんて、彼には分かりきったことなのに。
目蓋が閉じられたまま、彼の唇が小さく動く。
「ナマエは」
「ん?」
「雷、怖がらないんだね」
「ああ、」
息を短く吐くように、笑って、それをごまかすように呟いた。下げた視線を彼に戻せば、光を吸い込む瞳と目が合う。
「私、そういう女じゃないんだよね」
「…そう」
「何が怖いのか、さっぱり分かんない」
そういう女、に対する強い軽蔑の意を込めて言った。彼はやっぱり何を考えているのか分からない顔をしていて、困る。
「…そういう可愛げのある女の方が良かった?」
「別に」
「ごめんね。知ってると思うけど、私あんまり、女の子女の子してないから」
「…そうでもないと思うけど」
彼の言葉が理解できなくて、目を合わせたまま首を傾げた。ちょうどそのとき、遠くでじゃばじゃばと音が聞こえて、私は慌てて立ち上がった。バスルームを覗けば、案の定バスタブからお湯が溢れている。蛇口を閉めるとガラスを叩く雨の音が聞こえた。バスボムを入れるのを見送ることにして、彼を呼びに行く。
ふたりで服を脱ぎ、備え付けの袋に入れてランドリーサービスを頼み、滲んだ光を強く受けるガラス張りのバスルームで溢れんばかりにお湯が張られたバスタブに足を入れる。私が入るだけでも湯は大きく溢れて、イルミが体を沈めるとさらにお湯が逃げていく。彼の胸に背中を預け、持っていたバスボムをお湯の中に放って、それが砕けてしゅわしゅわと音をたてながら弾け出すのを眺めた。湯が、薄闇の中でもうっすらピンク色に染まっていく。
「イル、おっきいからお湯が少ないんだ」
「なにそれ、一緒に入るの嫌なの?」
「そんなこと言ってないよ。むしろ濃くなりそうで良いね」
手のひらで少し泡立ったお湯を掬う。大きな溜息がこぼれ出た。耳に優しい雨音が私たちの世界をあらゆるものから遮断して、くるんで、ふたりだけの途方もなく平穏な時間だった。
ちゃぽちゃぽと意味もなくお湯を掬っては遊んでいたら、イルミの大きな手が私の手を捕まえて、私の指や甲に浮く筋なんかをなぞる。頭を傾けて後ろにある顔を見た。まったくの無表情である。私はもう一度、首を傾げる。
「それ」
「それ?」
「ナマエよく、ん?てするの、なんか、可愛いと思う」
「…え?」
「可愛げあるよね、ってハナシ」
「…そうかな、」
「うん」
あまりの恥ずかしさに、傾けた頭を戻して、俯く。私たちの足はかなりぼんやりしているけれど、彼の右手が私の手をいじくっているのはそれなりに鮮明で視線を外した。
彼の左腕が、私の腹部に回る。逃すまいとしているのかもしれない。そんなつもりはなかったけど、身動きが取れなくなって、私は困って肩を縮こませた。速やかにそれに気づいたイルミは、背を丸めて私の肩に顎を乗せる。右耳に、雨音を蹴散らして至近距離で伝わる彼の声。
「知ってる?」
「…何を?」
「ナマエ、照れると黙り込んで小さくなる」
「そ、んなこと、ないよ」
「あるよ。残念だけど」
彼の薄い唇が、私の右耳に微かに触れた。あまりに突然で、少しだけ驚いて肩が跳ねる。私の手をもて遊ぶ手の動きはやまない。彼の黒髪が私の首や肩や腕に絡みつく。ああ、捕まった、そう思った。彼が、男の声で小さく笑うのが聞こえて、きつく目を閉じる。雨音がうるさい。相変わらず世界は遮断されている。