イルミが家に帰ったとき、真冬だというのに室内は夏のように暖かかった。ドアの向こうのワンルームからは煌々と明かりが漏れている。ブーツを脱いで上がり、コートを脱ぎながらドアを開けた。真正面に設えた、天蓋を垂らしたクイーンサイズのベッドにナマエが寝ていた。ストーブで端まで暖められた室内の空気がイルミを覆う。雑誌を読んでいたらしい彼女は掛布の上に開かれた雑誌、カップのカフェオレやチーズの包み紙を散乱させた状態のトレーを置いたまま、悩ましい肢体をイルミに向けて寝ている。部屋着のシンプルなワンピースはそう長くないため、横向きになった身体の線をくっきりと見せ、曲げられ絡み合う二本の白い太ももの奥を隠すのは布ではなく影といっても良いくらいだった。
イルミは目をそらす。コートをかけて、とりあえずシャワーを浴びようと思ったが、ソファーにかかっていたロングカーディガンを彼女の足にかけてからにした。これで息ができる。頭から湯を浴びた。仕事でついた匂いを払うように全身を清めて、バスルームを出る。Tシャツとスエットに着替え、髪を乾かし終わる頃にはナマエが起きていることを願っていたが、その願いは叶わず、バスルームに繋がる洗面所を出ても状況は全く変わっていなかった。
仕方なくイルミは、ベッドのトレーを取り上げる。ナマエが寝返りでも打ったら、ひとつしかないベッドがカフェオレまみれになることを危惧したからだった。彼女の長い髪がベッドに広がっていた。イルミの髪とは違い、栗色で波打っている。トレーを持って立ったまま、ナマエを見つめる。正確には目を離せなかった。ワンピースの細い肩紐。その奥から覗く胸元のレース。彼女は胸の形がどうとか言って、家でも常にベアトップをしている。それなのに、今度は締め付けがどうとか、解放感がどうとか言って、ゴムのない総レースのきわどいショーツか紐パンで過ごすことが多かった。剥き出しだったナマエの足にカーディガンをかけたいま、今日は果たしてどちらなのか確認する術はない。溜息をひとつ。オレは試されているのか? そう考えながら、キッチンにトレーを置いた。
テレビをつけて、ソファーにかけた。横を向かない限りは、ナマエを見なくて済む。つまらないバラエティを流したまま、スマートフォンで今日の仕事の入金確認をしたり、次の仕事の資料を確認したり、本を流し読みしたりしていた。

「…あれ、イルミ」
「おはよ」
「おはよ…えっ、いま何時?」
「八時だよ。夜の」
「イルミ待って、寝ちゃったんだ…」

イルミは本を閉じてテーブルに置きながら、左側のナマエを見た。すぐに、帰ってきたときのような眩暈を覚える。彼女は横向きのまま、両腕をベッドにつき、少しだけ身体を起こしていた。グラビアアイドルかよ、とイルミは考えるが、顔には出さずに平静を努める。ベアトップの上に、半円を描くようにくっきりと肉の影が落ちている。ウエストで括れた身体の線は、下半身に向かってまた肉感的に曲線を描く。布の下を安易に想像できる。してしまう。振り払う。

「ナマエさあ」
「なに?」
「そういう格好してるのはわざとなの?」
「…そういう?」
「足出したり胸出したりしてるのは、オレに襲われたいからなの?」
「え? いや、別に、」

ナマエは、そんなつもりじゃ、とかなんとか言いながら、足にかかっていたカーディガンを肩まで引き上げる。おかげで膝までが露出されることになったが、胸元が隠されたのでナマエは多分それで良いと思っているのだ。

「…これ、イルミがかけたの?」
「そうだよ。帰ってきて真っ先に目に飛び込むのがナマエの生足とか、心臓に悪い」

本当は下半身に悪いのだが、イルミは直接的な表現を避けた。そんな彼の眉間の皺の真意を知ってか知らずか、ナマエは起き上がることなく、困った顔をする。
イルミはどうにも、まだその表情に慣れていなかった。その顔を見ると、どうしてか視線をそらしたくなる。

「太い?」
「そういうことじゃない」
「そういうことじゃなくても…もうちょっと痩せた方が良いかな?」

ナマエの視線が、自らの足に向く。彼女の視線から解放されたイルミは、気づかれぬように嘆息した。つくづく、男と女は全く違う生きものだと知らされる。イルミはいままで、圧倒的な暴力を行使できる男が優位だと信じて疑わなかったがナマエと付き合うようになってからそれを撤回した。
化粧をしていないというのに、滑らかな肌と長い睫毛。何も塗っていないのに赤い唇。そういうのが、イルミをじりじりと焦らせる。ナマエは何も言わないイルミを不審に思って、また視線を向ける。

「痩せなくて良いよ。そうじゃなくて、あんまり肌を出さないで」
「なんで?」
「…オレなら襲わないとでも思ってるの?」

なんとも言えない焦燥感にかられて、イルミは核心に触れながら、ソファーから立ち上がりベッドに向かう。片膝をベッドに載せれば、ナマエが怯えたように見上げてきた。別に、そういう顔をさせたいわけじゃないのに。イルミはそう思いながら手を伸ばして、さっき、自制心からかけたカーディガンをナマエの身体から剥がした。ナマエはそれについて何の抵抗もなく、今日は紐パンであることを難なく知る。

「…襲われたことないよ」
「我慢してるからだよ」
「なんで? 我慢することないよね?」

付き合ってるんだから、とナマエは小声で続けた。付き合ってるも何も、もう半同棲状態だった。イルミの方は自宅を出るのがなかなか難しいことで、完全にオフの日や仕事終わりに帰ってくる程度ではあったが、このマンションはイルミ名義で借りているし、ナマエはここで暮らしていた。
ナマエだって別に、試しているとかそういうつもりでは一切ない。ただ、イルミが自分に欲情することは嬉しかったし、いつだってイルミが望むなら、受け入れる用意はできている。それはイルミが恋人で、ナマエがイルミをこの上なく愛しているからに他ならない。

「ナマエが嫌がることはしたくない」
「…私、嫌がったことないよ」
「あのね、寝てるナマエを、同意なしに襲うなんてできないんだ」
「同意すれば良いの?」
「寝てるのに?」

またナマエが、眉尻を下げて口を閉じた。どうにも、会話が噛み合わないとイルミは考える。ナマエはまるで、イルミがやりたくなったら二十四時間いつでも拒否せず、それが自分の意識がないときでも認められるような口ぶりだった。
好きな女の嫌がることをしたくないとか、泣かせたくないとか、嫌われたくないとか、イルミははっきりと自覚していたわけではなかったけれど、ナマエに対してのそういう気持ちが自らのブレーキとなっているのをなんとなくは分かっている。

「でもイルミなら…寝てるとこ襲われても、大丈夫だよ」
「なんで? 嫌じゃないの?」
「嫌じゃないから付き合ってるんだし、私、イルミのこと大好きだから…」

ナマエは続きを言い淀む。困ったのか、イルミを見上げたナマエの、伸びた首筋や、露わになった胸元がイルミの目には眩しい。視線をそらしても、その先には柔らかく曲げられた足が待っている。
触りたい。撫でたい。吸いつきたい。そういう欲求は、イルミにとっても不思議なものだった。理解不能に近かった。それはイルミ自身の性感帯を刺激するものでは決してない。それなのに、ナマエの肌を見ると、ナマエを見ると、そういう欲求が頭をもたげてはイルミを混乱させる。

「他の女の人の足とか見ても、ムラムラするの?」
「ムラムラって…まあ、しないこともないけど」
「えっ」

突如、ナマエの目に火が灯る。イルミを見つめるその目には、紛れもない嫉妬の色が濃く浮かんでいた。彼女の変わりように、イルミは性欲を忘れるようにまた混乱する。ナマエの声が、先ほどより強く鋭くなって、イルミに刺さろうと飛び出た。

「いまは私がいるから、しないよね?」
「しないよ。ナマエしか見てない」
「ほんと?」
「本当だよ」
「絶対だよ。絶対。イルミ、浮気したら、私その女殺すから。とびきり痛くして殺すから」

思わずナマエの念能力を思い出したイルミは、顔をしかめる。けれど、実際ナマエと付き合い始めて数年、浮気なんてありえない品行方正さでイルミは生きていた。もちろん、その容姿から女性の注目を集めることは何度となくあったが、イルミ自身がナマエ以外に全く興味がないだけでなく、イルミの不気味さで、それは注目を集めるに留まっていた。

「分かったって。浮気なんて絶対しないから安心しなよ」
「もし、私と付き合ってなくて、そのとき彼女もいなくて、誰か女の人にムラムラしたら、襲うの? 我慢するの?」
「…うーん、」

イルミには、正答が分からなかった。なんと言えばナマエが納得してくれるのかも分からない。ナマエは打って変わって縋るような目をしていた。それは庇護欲を刺激するもので、イルミはまたその唇に欲情を思い出している。

「まあ、気分によっては襲うかも」
「…私には我慢するのに?」
「その辺の女なら、別に嫌がられても良いよ。殴って大人しくさせても良いし、面倒だったら、殺せば良いし」

ナマエはまた沈黙する。眉間に皺を寄せて、難しい本でも読んでいるかのような表情でイルミの目を見つめていた。
イルミはようやっとベッドに片膝を載せたままの押し問答を終わらせる手がかりとなる、ナマエとの齟齬を見つけた気がして口を開いた。

「好きな女を、いや、ナマエを傷つけるようなことはできないよ」

これがすべてだった。イルミの方は、根底にこの意識があったからだった。それがナマエとは違っていたのだ。同意を得る必要があるというイルミの前提は、ナマエにとっては付き合うことですでにクリアされているものだった。
どうやらナマエもこの食い違いに気づいたようで、はにかむように口角を上げてイルミに腕を伸ばしていた。

「そっかそっか」
「なるほどね」
「私、イルミにならいつ犯されても良いよ」
「犯すって…」
「イルミの好きにして良いんだよ」

イルミは無表情のまま、ナマエに手を伸ばした。好きにして良い。そういう言葉が好きな女の口から出る。それだけで下半身が重く響いた。一気に甘ったるくなった空気を自覚する。唇を重ね合わせ舌でまさぐりながら、ナマエの肩から肩紐を下ろした。背中に腕をまわし、ベアトップのホックを片手で難なく外す。するりと抜き取ったそれをベッドの下に落として、仰向けに倒したナマエに覆いかぶさる。拒むことなく、むしろ引き寄せるようにナマエの腕が首にまわるのを感じながら、腸骨の下でリボン結びにされた紐を解く。