一番初めに咲いたのは、真っ赤なクレマチスだった。右手の甲に、柔らかそうな長い花弁が六枚、反るように広がっている。私は目の前の奇妙な現象に戸惑った。ベッドの中、起き上がった私は長いこと座ったままその花を見つめる。触れても、肌の感触しかない。何がどうなっているのか、しばらく考えていたらある昔話を思い出したのだった。
あるところに、恋に破れた女がいた。女はあまりの悲しみに、三日三晩島の外れの森の中で隠れるように泣き暮れたという。私が醜いから。だから彼に愛されなかったのだと、昼も夜も泣き続けた。その涙は花に落ち、草に落ち、太陽の日差しを浴び月の光を吸い込み土に染み込んでいったという。三日目の満月の夜、女はまだ泣いていた。もう死んでしまいたいと呟いたとき、風もないのにさわさわと足元の草が揺れた。なかないで。どこからか聞こえた声に、女は涙に濡れた顔を上げる。顔を覆っていた両手を外してみれば、その手のひらには花が咲いていた。皮膚の中に、花が咲いていたのだ。よく見てみれば、腕も足も、身体中に色とりどりの花が咲いていた。あなたはこんなにうつくしいのに。足元の花がまたひとりでに揺れる。女の流した涙が、まだ肌の色をしていた皮膚に落ちた。すると、そこに黄色い花が咲いた。あなたはこんなにうつくしいのに。また声がいう。四日目の朝、そこに女はいなかった。色とりどりの、美しい沢山の花に、なったという。
私はどこかの地域で伝わるこの昔話を混乱する頭で思い出し、ほう、と息を吐いた。こういうものがあるということは、それに準ずる出来事があったということで間違いない。事実、全身、もしくは身体の特定の部位に花が咲き始める開花病は、感染源の不明な不治の病として古くからひっそりと存在している。私も、この死に至る病にかかったのだと、直感した。振り向けば、レースカーテンを通り過ぎた太陽光が白く部屋に差し込んでいる。

「儂も長いこと生きておるが、この目で見たのは初めてじゃわい」
「…そうですか」

私の住む島は小さく、たったひとつの診療所に老いた医師がひとりと私より少し歳上の看護婦がひとりしかいない。医師は垂れ下がる目蓋の下から、青い瞳をきらめかせる。そして、私の差し出す手の甲を恭しく持ち上げ、小さな拡大鏡でじっくり検分した。血のように濃い赤のクレマチス。
開花病にはワクチンもなければ、効果的な薬もない。そもそも、なぜ発症するのかも分かっていなかった。患者はごくごく僅か、あらゆる大陸に住むあらゆる人種で、老若男女いるという。しかし、その圧倒的な患者の少なさから、あまりにも知られていない病のひとつであることは間違いがない。そして患者たちの唯一の共通点が、すべてを失うほどの失恋をしたというものだった。
当然、この小さな診療所に開花病の詳細を記した書物はなく、医師は早急にこの不治の病についての資料を集めてくれると約束した。私は別に、この病を治したかったわけではない。ただ、医師がそうすると言ったのを止めなかっただけだ。医師の小さな瞳が、私に哀れみの情を向ける。まだ肌に若さを残す看護婦は、困ったように眉尻を下げ口数少なく私を見送った。
島の中心部から少しだけ外れたところに建つ診療所を出て畦道を歩く。両側が田んぼで、太陽を遮るものはない。空は見える限りベビーブルーに染まり、少ない絵の具で描いたような薄い雲がところどころにあるだけだった。私は落ち着いた鼓動で、深呼吸をする。
私は死ぬ。近いうちに、死ぬ。全身を花に冒されて死ぬ。それは私にとって、この上ない救いだった。ただ、何の気力もなく、生きているというよりは死んでいないというだけの私に差した、一筋の光明であった。
病で死ぬ、というのは、一番良い。事故や事件は、少なからず誰かを巻き込むことになる。ひとり、心穏やかに果てるというわけにはいかない。自殺も、決して心証の良いものではない。しかし病は、良い。避けられないことなのだ。誰にでも起こり得るし、特にこの開花病は何もかもが謎に包まれた、珍しい奇病なのだ。世界中探しても、発症者は数人、いるかいないかである。開花病を指していると思われる昔話やそのようなものは、ありとあらゆるところにあるらしい。発症者が少ないということは、患者から感染するようなものではない。また、花が咲く、ということ以外には何の症状もないらしい。どこかが痛んだりまた傷んだりすることもなく、食欲も変わらず髪も抜けず、皮膚が乾くこともない。ただただ、日に日に花が増えていき、全身、もしくは特定の部位を埋め尽くしきったとき、絶命するのだという。そしてその身体は、燃やす間も無く花や種になるのだそうだ。
私はとても嬉しかった。あの恋が、報われた瞬間のように嬉しくてたまらなかった。目に映るすべてが美しい。エクルベージュの畦道。ちょうど、田んぼが瑞々しく輝く季節で、葉はつやめき、土もしっとり濡れている。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、限りなく澄んでいて、青い匂いがしていた。深く吸い込んで、深く吐き出す。久しぶりに身体の隅々まで行き渡るような、呼吸をした気がした。彼への恋が、無惨にも破り千切られ、死んでもいないけれど生きてもいない、空っぽの私になってから初めて感じる、清々しさで満たされていた。
私はこの小さな島の小さな学校で、子どもたちに勉強を教えている。先生は、教頭先生と、恐らく私の母くらいの年齢の女性教諭と私の三人でしかいない。一番近くの大陸の、一番近くの小学校の、分校という体を取っていて校長先生もその学校と兼任している。休み明けにすぐ、私は教頭先生と先輩教諭に開花病にかかったことを報告した。その日、花は手の甲のクレマチスだけでなく、手首の辺りに真っ白なエーデルワイスが二輪、咲いていた。死に至るまでどれくらいなのか、それは患者によって違うらしい。記録では、一ヶ月以上二ヶ月未満で死に至り、それは花が増える量や早さに左右されるようだった。
言葉を失うふたりを前に、私はもう少しこの仕事を続けたいと言った。しかしすぐにでも校長先生に連絡をし、後任の先生を決めてもらうべきだと話した。離島の学校は、いつも人手不足である。

「どうしてナマエ先生がこんなことに…」

教頭先生が大きな手のひらで口元を覆う。眉間の皺が心痛を深く表しているようだった。私は切なそうな表情を作り黙っておいた。まさか、何の痛みも伴わない、必ず死ぬ病にかかったことを喜んでいるとは言えなかった。
教頭先生は校長先生に連絡をするために席を立ち、私は先輩教諭に励まされながら教室に向かう。子どもが少ないのでクラスはふたつしかない。上級生クラスと下級生クラスで、私は下級生クラスを受け持っていた。挨拶をしながらドアを開ける。はしゃいでいた子どもたちが眩しくてたまらない。屈託なく笑えるのは、子どもの、しかも幼いときだけだと思っている。ままならないこの世の、どうすることもできない現実を、認識することもなく生きている、いまこの僅かな瞬間だけだ。

「みなさん、おはようございます」

子どもたちの、挨拶を返す高い声。愛おしさに胸をいっぱいにしながら出欠を取った。全員出席していることを確認して、最初の授業を始める。
チョークを持って黒板に向かうと、手の甲から手首にかけての花がよく見えた。

「せんせー、そのお花どうしたの?」

女の子の、無邪気な声に笑顔で振り向く。

「先生、全身にお花が咲く病気になってしまったの」

そう言うと、教室の中がざわりとする。全身に花が咲く病気、そんなもの、聞いたこともないだろう。私は理系ではないから、あの美しく悲しい昔話を知らなければ、終ぞ知ることのない病だったに違いない。彼らはただ、病気になった、という言葉に反応を示したのだろう。教室の不穏なざわめきを打ち消すように言葉を続けて、子どもたちの表情をひとりずつしっかり直視した。

「来週か、再来週には、先生は先生を辞めることになります。新しい先生とも、みんな、仲良くするのよ」
「…いたくないのー?」
「ちっとも痛くないのよ。可愛いでしょう?」

右手を口元にかざして、花をよく見せる。赤いクレマチスと白いエーデルワイス。どちらも大ぶりの花で、くっきりと咲いている。女の子たちから、かわいい、とか、きれい、といった声が上がる。私はそれに少しだけ微笑んで、授業を再開した。
今日も一日は滞りなく終わる。国語も算数も社会も理科も体育も、すべてこのクラスは私が教える。まだこの世に染まっていない子どもたちは、私の心を洗い流してくれる。帰りに、小さな文具店に寄って絵葉書を買った。大きな花が描かれているそれで、たまに連絡を取る人に知らせようと思ったのだ。
私は昔、ノレッジハンターとして生きていた。あらゆる知識が、ハントの対象であった。煌びやかで眠らない都会をあちこち飛び回り、あらゆる知識の吸収に勤しんだ。その頃に出会ったのが、彼だった。彼は暗殺を生業とする一族の長男に生まれ、自身も有能な暗殺者であった。私はそのひとに恋をした。報われた数年間は、多分、私の人生で一番満たされた時間だったであろう。それは彼の友人が、何の気なしにした些細な告げ口で終わった。彼は、多分、悪くないのだと、あのときも、いまでも、思う。ただ、私がダメだっただけで。私という存在がありながら、ほんの少し、たった少しだけ、そういう空気に飲まれてしまいかけた彼を、私はどうしてもどうしても許せなかった。ただそれだけだった。それだけで、私は私の全てを失った。
私はその後、教育者、講師、教師としての仕事を全て辞め、ノレッジハンターとしても引退を決めた。ハンターとしての稼ぎには殆ど手をつけていなかったので、それを資金にして私は人でごった返す都会から姿を消した。そこから遥か遠く、一日二回の連絡船でも一時間はかかる小さな島での、学校教諭という仕事はとにかくなり手がいなかった。一年契約にしてどうにか、という状況だったこの仕事を見つけた私は迷わず長期での契約を結んだ。今年で六年目になる。この穏やかな島で、自由に気ままに、誰も愛さず、誰にも愛されず、何も必要とせず、何にも必要とされず、たったひとりで生きて、もう五年経った。
私は孤児だったし、兄弟もいないので、死を知らせる人というのは殆どいなかった。育ててくれた老夫婦もとっくに亡くなっている。誰にも知らせる必要がないくらいだったけど、ハンター時代の友人ひとりにだけ、葉書を送った。何を、どう書いて良いものか、私は何日も悩んだ。そしてその葉書を投函する頃には、右腕の半分以上が花に覆われ、左腕は肘下まで花が咲き乱れていた。それはあまりに美しい光景だった。うっとりと見惚れてしまう。あらゆる色の、あらゆる形の、あらゆる種の、あらゆる花が一堂に会している。それはすべて満開で、枯れることも散ることもなかった。両腕に、まるで刺青でもいれたかのような鮮やかさで、私はまだ生きていた。

「きっと、あなたの場合は、全身が花に覆われるまでは死なんじゃろうなあ」
「そうですか」

老いた医師は、デスクに書物や沢山の資料を広げていた。そこに散見する、花が咲いた人体の写真や絵が、それらが開花病にまつわるものだと語っている。先週の土曜に私は開花病を発症し、この診療所を訪れた。あれからちょうど一週間。私は今週いっぱいで教師を辞める。後任の教師はなかなか見つからず、教頭先生がクラスを受け持つことになりそうだった。
少しだけ資料を見せてもらったが、どれもが患者の記録でしかなかった。どれだけ検査をしても、身体には何の異常も現れない。眼球を花が覆う場合でも視力に変化はない。ただ、視野が狭くなっていくだけ。身体を覆う場合は、肌が肌色でなくなるというだけのようだった。関節で曲げ伸ばしすると花もそれに合わせて伸び縮みする。皮膚を傷つけると、当然出血し、瘡蓋ができる。しかし、治るとその花が元通りになるだけで、肌色にはならない。つまり、いずれも花が咲くこと以外に異変はなく、覆われたら死ぬというそれだけだった。死因は老衰とされた。診断書に、それ以外書きようがないという理由だった。死ぬと数時間で身体は花と種に変質する。開花病の患者は記録に残っている限りそのすべてが、眠りながら死んだ。発見される頃には、ベッドの中で沢山の花が人型に散りばめられ、茎や葉は無く、首だけの花を除けると種が溢れているそうだ。だから、実際に死んだ身体から死因を探ることは一度もできていないとのことだった。大昔、人体蒐集家が開花病患者の皮膚及び身体の一部を欲したことがあったそうだが、それらは患者の身体から離されるとただの皮膚、ただの人体の一部に戻ってしまったともある。それから患者が狩られることは殆どなくなったようだ。
開花病は身体中を満たすもの、眼球を満たすもののどちらかしか発見されていない。身体中の場合は大ぶりの花が、眼球の場合は爪の先ほどの小さな花が咲くらしい。眼球に花が咲くと、視界が花に満たされるようで、死の直前にはもう殆ど花しか見ることができないと患者は話したそうだ。花しか見ることができない。美しいもので視界を満たして、死にゆく。資料にあった、患者の目元の写真はひどく幻想的であり、鮮烈であり、美しい。また、その患者が描いた、見える世界のスケッチもまた、開花病で咲く花がこの世のものとは思えない鮮やかさで視界を装飾していることを示していた。
そのどちらかを選ぶことはできないが、開花病は罹患者に、美しいものだけを見せるか、自らを美しい姿に変えるかして、死を与える。あの昔話の中で、女は私が醜いから男に愛されなかったと言っていた。だから女は身体中に花が咲いたのだ。私は、愛する彼のほんの僅かな過ちを許すことができなかった。だから開花病は、最期に私を美しい存在にしようとしているのかもしれない。この醜い心をせめて、美しい容れ物の中で絶とうとしているのかもしれない。
診療所からの帰り道、太陽を遮ろうと左腕を翳す。手首と肘の中ほどに咲いた透き通るようなパウダーブルーのライラックが、空と馴染んで見えた。隣に咲く、真上を向いたオレンジのガーベラがその青によく映えて、私は泣きたくなった。互いを引き立て合う美しい色合が、その花弁の甘やかな繊細さが、この地上の全てを照らす太陽の白さが、私には眩し過ぎた。けれど私は泣かない。泣けない。
彼に知らせるべきか、私は悩まなかった。元より、連絡を断って五年だ。彼にとって私はもう死んだも同然であろう。一族の繁栄のために、きっと結婚し子どもだって授かっているに違いない。そんな幸せな日々に、水を差す必要はないのだ。
私は独りで朽ちて果てる。それがお似合いであるし、そうありたかった。誰もいない場所で、空っぽのまま、何にも執着せずに砂のようにさらさらと消えてなくなりたかった。穏やかな気持ちのまま。誰も憎まないまま。誰も恨まないまま。
すべては、彼を手放したあの日から。