彼と初めて会ったのは、静かなバーのカウンターの隅に座ってパナマを舐めていたときだった。以前、同僚が連れてきてくれた暗くて狭いその店。私はたまに、そこでひとりでお酒を飲む。その日もそうしていた。カカオの香りなのに真っ白いカクテルをほんとうに少しずつ口にいれる。ぼんやりと。彼はひとつ離れた席から、それっておいしいの? と声をかけてきた。
彼と初めてセックスをしたのは、私の家の浴室でだった。彼には、私の念能力が傷や怪我や欠損を治せるものであると話していた。事実、仕事もそういうものをしている。たぶんそれで、彼は血まみれの傷だらけで私の家にきた。辺りが血まみれになることを恐れて浴室で彼を治療したのだが、どういうわけか、私はそこで完治したばかりの彼と、セックスをした。
それから彼は、以前より頻繁に家にきて、ほとんど必ず、セックスをし、同じベッドで眠り、帰るようになった。三回に一回は、怪我をしてくる。
「ナマエ、おはよう」
「…おはよう」
「休みの日はいつもお寝坊さんだね」
彼はそう言ってゆるく笑う。彼はいつも早起きだ。ベッドサイドの時計を見る。時間はもう、昼に近い。きっと彼は軽くトレーニングか走ってきて、シャワーを使い朝食とも昼食とも取れるものを作って私を起こしにきたのだろう。
彼に会ってから、私の生活はたぶん豊かになった。こわい夢を見たとき、彼は必ず私よりさきにそれに気がつく。だからこわい夢はいつも、結末を迎えない。途中で彼が私を起こすからだ。いままでずっとひとりきりで耐えていた悪夢を、彼が慰めてくれる。私はいままでも、そしてこれからもそれをひとりでやり過ごすんだと思っていた。彼に会ってから、たぶん私は弱くなった。
それから、彼はその手先の器用さでおいしいお茶をいれてくれる。私がめんどうくさがるあらゆる手間を惜しまず。
「いいんだよ」
彼は優しく言う。一重にも二重にも見える、まぶたの中の、小さな黒目。よく動くその目を、私は気に入っている。彼は目も口も眉も、表情豊かだ。
簡素なダイニングセットは明るい木目の丸いテーブルで、背もたれがなく足の長いチェアに座って彼を待つ。目の前には、あたたかなオムレツとサラダとパンとスープ。彼はほんとうに器用で、なんでもできる。
「ふたりでいるなら、ふたりとも同じことができる必要はないからね」
うん、と私は頷く。彼はたくさんの狂気を孕んでいるけれど、それとまったく同じだけ優しくて面倒見が良い。彼は両端の性質を持っているのだ。そうしてバランスを取っている。天秤の、両方が重い。私が、終始すべてに無気力で天秤の両方がほとんど何もないのに反して。
私は、たぶん彼の思惑に気づいている。そして、それに気づかないふりをしている。ふたりとも同じことができる必要はない。そういうことだ。
「今日はどこか行くの?」
スプーンとフォークを丁寧に扱いながら、彼は視線を私に向けた。彼らしくない、薄味のオムレツはコンソメスープと相性が良い。さっぱりしているけど、ちゃんと味がする。
「特に予定はないよ」
「そっか」
「ナマエは?」
「これと言ってなにも」
「じゃあ買い物にでも行こうか」
冷蔵庫のなか、すっからかんだよ、と彼は瑞々しく笑う。私はいつも簡単に用意できるものしか食べないから仕方ない。うん、と頷いて、彼は何時までいてくれるつもりなのか思いを馳せた。
…
「コンバンハ」
来るまえに必ず連絡をすること。私たちはいつだかそう決めた。彼はいつも夜に来るからだ。無用心にドアを開けて、自分でなかったらどうする、と彼にたしなめられたことがある。その日もメールが届いて、私は部屋中を点検しながら彼を待った。彼のいない、暇なときに拭きあげた床をよく見たり、洗面所や浴室は清潔であるかどうかを。
彼はお行儀良く笑う。今日のお土産は海の向こうの大陸でしか売られていない、ふしぎな名前の茶葉だった。キッチンとダイニングとリビングの役目を果たす小さな部屋でそれを受け取ったとき、あ、と言いそうになった。一瞬動けなかったのを気づかせないように、私はその茶葉がはいった可愛らしいガラス瓶をキッチンに並べる。
「ナマエの好きな、甘い匂いがするんだって」
「そうなの。明日の朝にでも、いれてくれる?」
「モチロン」
にっこりと笑う、顔を、ずきずきする胸で見る。私のほかにもいるのね。そう思った。私のほかにも、あなたの怪我を手当てするひとがいるのね。喉元でわだかまるその言葉を、私は頑張って飲み干す。
さて、と彼は言う。
「お腹がぺこぺこだ」
「お店は決めてるの?」
「ウン。いますごく、肉が食べたい気分なんだ」
どこかで食事しようとメールにあったから、私の支度はもうできていた。仕事終わりの、よれた化粧を整えて、落ち着いた色の膝下まであるワンピースにノーカラーのジャケット。楽しみな気持ちは、シャワーを浴びたであろう彼の腕からわずかにする、血の匂いで揺らいでいく。
彼はきっと、あのバーで私に声をかけたときから知っていたのだと思う。外傷や欠損を治す念能力のことを。だから私に声をかけたんだろう。この類いの念能力を持つ者は少ない。そして彼は、その趣味のために治癒系念能力者と近づきたかったに違いない。そんなことはとっくに気づいていた。ふたりとも同じことをできる必要はない。つまり私は、なんでもできる彼の、できないことができる存在だった。
「ナマエ?」
「…え?」
「疲れてる? 今日はやめとこうか」
「ううん、そんなことないよ」
大丈夫、行こう。言い聞かすように呟く。
こういう話をしたことはなかったけれど、私、あなたが好き。そう言えたらどれだけ良いのだろう。そう言って、彼が私から離れていくことがどれだけ辛いのだろう。
かかとの高く太い靴に足をいれる。化粧をしていない彼の隣を歩く。それだけでじゅうぶんだと、何度言い聞かせたことだろう。
「ナマエ」
「え?」
「やっぱりいっこお願いがあるんだけど」
「…なあに?」
彼が、黒のジャケットを無造作に脱ぐ。私は手を伸ばしてそれを預かる。彼は無表情のままカフスを外して袖をまくった。一見、なんの変哲もない右腕から、左手がべり、っとそれを剥がす。赤黒い線が、その肘下の太い部分に巻きついている。息を飲んだ。
治してくれる? 彼の冷たい声に私は意識を取り戻す。返事をするより先にそこに触れた。千切れた、ことはすぐに分かる。職業柄よく見るからだ。どうしたのかは分からないが、神経や腱や骨やそれ以外のすべてがきっちりくっついては、いる。指先でぐるりとなぞる。なぞった先から、その赤黒い線は消えていく。中のほうがくっつくのには、もう数秒かかるだろう。
「…やっぱり、ナマエはスゴイね」
彼はカフスを留める。そして、左袖もまくる。胸が痛んだ。両腕を千切ってくるなんて。自分の肉体というのは、たったひとつしかない。本来は欠けたらもうそこでおしまいなのだ。どうして。どうして、もっと大切にできないのか。
悲しい気持ちをふり払えないまま、私は左腕の切れ目にも指先を這わせる。ゆっくりと。丁寧に。確実に。その傷口がなかったことになるように。
「すごいね。千切れた腕を、くっつけられるひとがいるんだ」
私、いる? そう言いそうになったのを飲み込んだ。彼の顔が見れなかった。早くジャケットを渡したかったのに、彼は左腕のカフスを留めようともしない。
お願い。私がさっき、口から出してしまった余計な言葉を、なかったことにして。嫌な言い方になった。棘のある言葉だった。お願い、忘れて。お願い、私を捨てないで。
「縫ってくれるだけなんだ」
「…そう、」
「治せるわけじゃない」
まあまあ高いしね。彼はなんともないふうに言う。そして、シャツの袖をきちんと直しカフスを留めた。私はようやく、ジャケットを渡せる。
「ナマエ」
「…ん、」
「いつもアリガト。ごめんね」
「…気にしないで。減るものでもないし」
私は最初から、お金を取ろうなんて考えたこともなかった。あの日、ドアを開けたら、彼が血塗れで立っていた。驚いたけれど、目視では流血しているわけでもなかった。でもよく見たら、それは彼の念で抑えているだけで、私は慌てて彼を浴室に連れていき、いつも通り何も考えずに服を脱がした。彼の無防備な上半身、とか、そういう場合じゃない。念を外させ、途端に噴き出す血液にくらくらしながら、必死でいくつもある生傷を指先でなぞり続けた。それだけだった。
ぴりぴり、ぺりぺりと、心からなにかが剥がれていく気がした。ぱらぱらと落ちて、私の心は無防備になる。
「ウン、やっぱりちゃんとくっついてるほうが調子イイね」
彼の手がドアノブを回す。反対の手が、手のひらを向けて私の手を待つ。それ以外になくて、私はそっと手を預けた。