仕事をしていないと、一日はとても長かった。朝ゆっくり寝てから起きてもまだ昼には遠く、午前のうちに身辺整理を兼ねた掃除や家事をしてようやく昼になる。今日は魚屋に行って刺身を買ってきた。それを食べてから午後は、本当にすることがない。島には図書館もないし、美術館も映画館もない。私は窓辺に椅子を置いて、音楽を聴いたり、持っている本を読み返したり、うたた寝をして過ごす。死ぬまで日があるというのも、なかなか面倒だなと思った。私も正しく降り注ぐ陽の光で消毒された空気を吸っているのにも関わらず、昔のことを思い出してしまう。
葉書を送った友人が来た。その頃、私は両腕のすべてと、顔以外の全身はまだらに、沢山の花を咲かせていた。船着場まで迎えに行った私を見て、荷物を両手から落とした友人の顔が、悲しみでいっぱいに見えて私は初めて心を痛めた。島の誰に悲しそうな顔をされても、私はそんなことを感じなかった。笑顔で、気にしていません、と言うに留まった。都会から、すべてを捨てて外の世界から遠く離れたこの島にやって来た時点で、どう考えても私は訳ありなのだ。死ぬのが怖いとか、惜しいとか、そう思うならそもそも私はきっと逃げ出したりしなかったはずだ。そう、私は逃げ出したんだ。私を打ちのめした苦しみから。事実から。今度は、この世から逃げ出そうとしている。合法的に。
「…ナマエ、久しぶりだね」
「久しぶりね、ーー」
五年振りの再会が、こうなるなんて、私も彼女も想像しなかったに違いない。私は彼女の荷物をひとつ持って、一緒に私の家へ向かった。
この島には単身者は少ない。殆どが小さめの一戸建てで、私の希望する狭いアパートというものはなかった。まさかひとりでファミリー向けのアパートに住むのも、と思っていたところ、久しぶりに長期契約の教師が来てくれたんだからと島長が使っていなかった平屋を簡単にリフォームしてくれることになり、私はそのトイレと浴室とキッチンの他に一部屋しかない家に越して来た。もともと、物の少ない家は、身辺整理によりさらに物がなくなっていた。もう、残りは一ヶ月もない。冬用の服や靴などはすぐに捨てた。私はこの夏で死ぬ。なんて、嬉しいことだろう。清々しいことだろう。私の心はこんなに晴れやかなのに。それは誰にも伝わらない。きっとみんな、きちんと生きているからだ。幸も不幸も、正しさも過ちも、恋も愛も、疚しさも憎しみも、ちゃんと抱えて、消化して、それでも強く生きているからだ。
友人と昔の話になり、私は激動の人生を久しぶりに思い出した。あの頃、私はもっと気性が荒かったように思う。感情の起伏が、もっと激しかった。もっと、たくさん、怒ったり、喜んだり、嬉しがったり、楽しがったり、もっともっと笑っていたように思う。
「ナマエは…死ぬのが怖くないの?」
陽が落ちる頃ようやく友人は、葉書の返事でも触れなかったことについて口を開いた。
「怖くないよ」
「…やっぱりさ、あれが…」
友人が言い淀む。けれど何が言いたいのかは、分かる。激動の人生に終止符を打ったのは開花病なんかじゃない。愛した彼の、些細な行動だった。あのときは何度も考えた。知らなかったら良かったのだろうか? 知らなかったら、私はいまでもまだ彼の隣で激動の人生を送っていたのだろうか?
でも、もうどうしようもできなかった。事実は消せない。私も知ってしまった以上、もう知らなかったことにはできない。私にはそれが、愛した彼の、明確な裏切りに思えた。彼に愛されていると思っていたからこそ、自負していたからこそ、私は真っ逆さまに落っこちた。そして、固い固いそこに強かに叩きつけられたのだ。そうなったらもう、粉々に壊れるしかない。私も、私のこころも、私の恋心も。でもこれが、過剰な反応だとも分かっていた。過ちは些細であり、結局彼は決定的に私を裏切ったわけではないと、思う。少なくとも、彼の肉体は裏切らなかった。こころは、分からない。
「…悪いのは、彼じゃないのよ」
「…うん」
「許せなかった私なの」
「…そう、かな」
「だって、キス、しなかったみたいだし」
私はもう笑ってこの話をできるようになった。彼は、彼の友人とふたりで一仕事することになって、私のいないそこで、現地の女性とそういう雰囲気になったそうだ。星の綺麗な夜だったらしい。パーティー会場のテラスで、彼は美しく着飾った女性と出会い、会話をし、そして見つめ合い、唇を重ねようとした。他の招待客たちが、その映画のような美しい光景に目を奪われるくらいだったらしい。もう少し、というところで、彼は一瞬躊躇する。その瞬間に、彼の友人が予定よりやや早く会場を停電させたことにより、それは阻止された。それだけだった。彼は私にその話をせず、彼の友人がバラしたのだ。褒めてよ、と。君の彼氏の、浮気を僕が止めたんだよ、と言って。まさかそれが、私を強かに打つ、これ以上ない威力の落雷になるとは思わずに。
誓って、いま私は誰も憎んでいない。当時は確かに、彼が憎かった。彼の浮気を阻止してくれた彼の友人には、感謝していたけれど、どうして黙っていてくれなかったのとも思った。しかし、結果として何も無かったのだ。停電を合図に、彼はすぐさまその場を離れ仕事を始めたそうで、友人と合流した後もその女性との接触は一切なかったと断言した。それでも私は許せなかった。キスしなかっただけで、それは私の中では浮気だったのだ。彼のこころは、あの瞬間、私を忘れた。目の前の女性に、奪われた。私の、私だけのものだったのに。私にはそれが、耐え難い屈辱であり、耐え難い痛みであり、耐え難い裏切りにしか、見えなかった。
あの瞬間に、私は激動の人生を終えた。残ったのは、吸い切った煙草の灰のようなものだった。大きく育つも、それ故に避雷針になってしまった大木の枯れた残骸のようなものだった。あの瞬間、私はきっと死んだ。その後の五年は、身体が死ぬまでの、余生みたいなものでしかなかったと、私は断言できる。
友人は、あの頃と変わらない悲痛な面持ちで私を見ていた。
「私、ようやっと解放されるの」
「…何がナマエを縛っていたの?」
「この世よ。必ず来る明日よ」
「ナマエ…」
友人は泣いた。声も上げずに、ただしとしととさらさらとほろほろと、細かい涙が頬を幾筋も伝っていた。私だって、泣かなかった。死ぬと分かったときだって泣かなかった。だって私はもう灰なんだ。燃えさしなんだ。それがようやっと、風で吹き飛ばされる。最後に残っていた物質としての命が、ようやく消えて無くなる。
彼は、別れることを最後まで了承しなかった。謝ることもなかったけれど、別れることを認めなかったし、私の貯金全額を報酬にして私を殺してくれという依頼も拒否された。そして私は逃げ出した。私を傷つけるこの世から。私を燃やしてしまったこの世から。
「私、あいつが憎いよ」
「うん」
「ナマエをこんなにしたイルミが憎い」
懐かしい名前だった。久しぶりに聞いた音だった。イルミ。生きていた頃、多分、一番発した言葉だと思う。イルミ。あの頃、私はとても幸せだった。これ以上ないと思っていた。その通りだった。あの幸せを自ら手放してから、私はもう脱け殻だった。天にも昇るほどの幸せは、その反動で私を深く深く底まで叩き落とした。
もう心は揺れない。いつも穏やかだ。何せ、台風は来ない。いつも晴れている。月の満ち欠けだって、波を立てることはもうできない。
「幸せだったよ」
「じゃあどうして死んじゃうの、」
「恋も愛も、永遠なんて有り得ないだけ」
「そんなこと、」
「私は自分で失恋したんだから。自発的に、好きを手放したんだよ」
長い五年だった。私はもう、老成していた。
もう夜だった。島の夜は、昏い。眠らないビルも深夜仕様のネオンもない。暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。明るいうちに必要な分だけのんびり働いて、食べて、そして夜が来る。島の生活は、必要なものしかない。とても健全だ。私は友人とひとつのベッドで寝た。隣に発熱体がある夜だって、五年振りだ。私、ずっとひとりだったんだな、と実感して、視界が少しだけぼやけた。
次の日、友人は帰った。船着場で、私を抱き締めて泣いた友人につられて泣きそうになった。これが最後だ。ありがとうとごめんなさいをたくさん言った。彼女は、絶対に種を貰いに来ると繰り返した。私は、待ってる、と答えた。彼女を乗せた船が、海を拓いて進んでいく。私は船が見えなくなるまでここにいた。彼女は、帰る前に診療所に寄っていた。
私は真っ直ぐ帰宅して、服を脱いで何も纏わずに全身鏡の前に立つ。顔は何もないが、首は半分くらい花が占めている。胴体は前も後ろも極彩色だ。足は、まだ肌色の方が多かった。赤いクレマチスが咲いてから、もうそろそろ一ヶ月が経とうとしている。あと、一週間だろうか。二週間だろうか。退屈だ。
毎日ぼんやりして過ごしていた。数日続いた雨が終わり、また雲ひとつない青空が広がるようになった頃、玄関のチャイムが鳴った。子どもたちが遊びに来るには早い時間だった。心当たりはないものの、ドアを開ける。とんでもなく背の高い、青年が立っていた。さらさらの髪、切れ長の瞳、そこにいるのが、彼の友人、素顔のヒソカだと気がつくのにたっぷり五秒はかかった。
「やあ…随分と派手な姿になってるじゃないか」
「…どうして…」
「君の友人に聞いた。ああ、責めないであげて。彼女は、ボクたちを苦しめようとしてるだけだから」
ヒソカはにっこり笑った。でも、私はもう気にしない。何せ、あとはもう、死ぬだけなのだから。
立ち話も、と仕方なく家に上げた。ヒソカは手土産に高級スイーツ店のケーキを持って来てくれていたから、紅茶を淹れてふたりで食べながら話をした。昔の話はしなかった。私の身体中の花をじろじろ観察したり、私がここでどういう生活をしていたか、ヒソカが最近何をしていたか、そういう話だけをした。ケーキが、とてもおいしくて、懐かしくて、私は少しだけ寂しくなった。私はこの店のケーキが大好物だったことを、すっかり忘れていたのだ。ヒソカは覚えていたのに。
彼はその日のうちに帰った。私は玄関までしか見送らなかった。最後、さよならと手を振った私にヒソカは、ごめんね、と言った。私は、良いの気にしないで、と言った。本心だった。本当に本当にそう思っていた。みんな、どうしてこんなに色々感じたり、考えたり、思ったりするのだろう。そんなに、悲しそうな顔をするのだろう。もう全部いいのに。もう全部どうでもいいのに。私はいま幸せなのだ。あの頃のように、頭が弾けるような、全身にびりびり感じる幸せではなく、身体のすべてがぬるいものでぼんやりと、けれど確かに満たされるような、そんな幸せでいっぱいなのに。そう感じられるようになったのに。死だけが、私を救える。そう思い続けていた。ようやく、神が、私に微笑んだのだ。私に手向ける花を沢山、沢山、用意して。
その日、私は診療所に来ていた。看護婦に開花病の進行具合を見てもらっていたのだ。もう顔にも咲いていた。ピンクのガーベラと紫がかった水色のヒヤシンスが、左の頬にいる。白い肌によく映えて綺麗だった。しかも、なかなか丁度いいところに咲いているので、お洒落なペイントのようでもあった。太ももはすべて花で満たされ、残すはふくらはぎから下の、半分ほどだった。もう一日に幾つ増えたのかを数えてはいなかったけれど、あと一週間ほどだと思う。
全身の花は、濃い色薄い色、大きい花弁小さい花弁、それぞれが入り混じっていて、季節も土地も無視した花畑のようだ。綺麗なものを、美しいものを、可愛らしいものを、それらだけをかき集めて無造作に散りばめたような乱雑さでもって。
下着だけを身に付けた状態で看護婦が写真を撮る。珍しい病であるし、もう死ぬのだから断る理由もない。最後に、身長と体重を、163センチ45キロと記録して服を着た。簡単な問診の後、島長に挨拶に行き、その他世話になった人たちのところに顔を出した。不安げな表情に、私はさっぱりとした笑顔で対応して帰宅する。もう、荷物は殆どない。数日分の衣類と、綺麗に磨いた少ない家具。僅かな日用品。こんなにも穏やかだ。痛くも苦しくもない。身辺整理の時間も大いにあった。仕方ない。死に至る病になってしまったのだから、仕方ない。この世の全ての人間に、そう思ってもらえる。私は心の中で呟く。やっと死ねる。やっと死ねる。私は本当に本当に幸せだ。