その日は雨だった。昨日まであった、足の最後の肌色にはガザニアが咲いた。まわりの花を押し退けるように、真ん中に赤い筋の入った黄色い花弁を拡げている。私はその花の鮮やかさと美しさに見惚れた。赤い筋は根元も先も同じ太さを貫き、その黄色と赤色のコントラストはあまりに見事で溜息が出る。これが造花でないなんて、信じられないほどだった。私も知らないような花を、この病は私の肌に咲かせてくれる。
顔の方は進行が遅く、私は不安になった。まだ半分ほど肌が残っている。私の、最後の肌色だ。この頃にはもう、液体だけを摂取していた。食べる必要は、もう無い。
ざあざあと雨が降っている。窓硝子に残る雨の軌跡はそれだけでも外の世界を遮断しているのに、降り注ぐ細かい粒が幾重にも重なって少し先すら見えないくらいだった。椅子に掛けて、目を閉じる。雨音を聴く。ノイズのようで、耳鳴りのようで、壊れたテレビのようでもあった。
彼と、会う日は雨が降ることが多かった。仕事の日は晴れるのに、とよく言い合ったものだ。晴れた日には、色んなところに行った。海にも行ったし、テーマパークにも行った。夜景が見たいと、何時間も運転してもらったこともあった。でも、いまはもう何も思い出せない。思い出せるのは、どこに行った、とか、何を見た、とか、何を食べた、とかそういう事実だけだった。海には行ったけど、それがどこの海だったかも覚えているけれど、彼が乗り気だったのか、そうでなかったのか、何か食べたのか、何を話したのか、何を見たのか、何を触ったのか、そういうのはちっとも思い出せなかった。夜景を見に行ったことは覚えているけれど、どんな景色だったのかは、忘れた。そのとき話したであろうことも、忘れた。だからたぶん、私はいまこの瞬間まで、発狂することなく穏やかに余生を過ごせたのだろう。雨の日何をしていた? たぶん、家にいたのだろう。ふたりとも、傘をさしてまでどこかに行こうとは思わない方だった筈だ。いや、私だけだったのかもしれない。彼は、どこか行きたかったのかもしれない。もう何も思い出せないし、分からない。でも、それで良いのだ。いまなら、その愚鈍さが優しさだと分かる。
窓の外の、雨音が少しだけ変わる。ざーという一定の音に混ざって、バタバタと雨粒が激しく弾ける音がした。目を開ける。窓の外に目をやる。窓が濁っていてよく見えなかったけれど、誰かが傘をさして歩いてきていた。この辺は民家が多いから不思議なことではない。でも、コウモリのような黒い傘は珍しいものだった。また目を閉じて、高い湿度に湿る窓に頭を預ける。肌寒かったけど、どうでも良かった。冷えた空気を吸うと、考え過ぎた脳が冷めていく錯覚すらする。
損傷を治そうと、破損部位に集まる血液。ぱんぱんに腫れ上がる脳味噌。熱を孕んで、じんじんと違和感を残す。治らなくって良いから、良いから解放されたかった。この熱で茹で上がった、ぐらぐら揺れる私から。私の記憶から。私の感情から。

「怖いものなんて、何にもないわ」

右手の甲のクレマチスが喋った。花弁が揺れたからきっとそうなのだろう。美しいソプラノだった。言われずとも、私に怖いものはもうない。私が恐怖を覚えるのは、彼を失うということだけだった筈だ。彼さえいれば、他の何を失ってもどうにでもできると思っていた。彼を失ったいま、恐れるものなど何もない。私は、彼がいなくても、なんでもどうにでもできるということを知ってしまった。
私はクレマチスの美しい声に、そうね、と、小さく返した。すると、身体中の花たちが喋り出す。それは酷く淡い声で、空気が震えているようで、身体の中から響くようでもあった。この花たちは私の肌の中に咲いているのだから、きっと身体中で響くのだ。それらは、綺麗だよ、とか、素敵よ、とか、笑って、とか、そういう言葉を口々に発する。座っていた私は、ふと右足の甲を見た。鮮やかで大きなガザニアがいる。くっきりと際立つ輪郭。凜としている開き切った花弁。曖昧なところなど何一つなく、鮮烈で確固たる存在感を放っている。色とりどりの指先で、吸い込まれるようにその花に触れた。質感は私の肌のそれでしかない。でもその美しいガザニアが、指先で震えた。

「わたし、あなたが好きよ」

花弁が震える、かさかさという音が聞こえた気がする。風に揺れているようでもあり、悲しみにその身を震わせているようでもあった。
他の花たちが、一斉に押し黙る。しん、と静まり返る、そこら中。またガザニアが震える。聞きたいような聞きたくないような、そんな気持ちで私は下唇を少し噛む。ガザニアが、ぶわりと、花弁を拡げた、ように見えた。

「愛しているわ」

優しくて、強くて、あやすようで、叱るようで、言い聞かすようで、懇願するようで、胸が張り裂けそうになるような、どうしようもなく切ない、それを聞いたとき、私は泣いた。心が大きく震えたのが分かった。雨のように大粒の涙が、ぼろっと目から落ちる。それはみるみるうちに私の視界を不明瞭なものにしていく。とめどない。溢れ出して、とまらない。
私はあの日、雷に打たれてから、泣くことがなかった。彼の背信を受けて、私は泣けなかった。ただ、ぴしん、と何かに亀裂が走って、それはあっという間に粉々になって、どうしようもなくなってしまったのだ。私は、これ以上ないくらい、悲しかった。寂しかった。異国の美しい女性に、忘れさせられてしまう程度の存在であることが悲しかった。彼を止めたのが私でないことが悲しかった。彼のこころに、私がいないようで寂しかった。彼を失う、ただそれだけで、何もかもの価値を見失い空っぽになってしまうような私を、こんなにも脆弱な私を、傷つけることが彼にできるなんて、知りたくなかった。
彼は強いから、きっといまも変わらず生きているのだ。友人もそう言っていた。仕事の評判は変わりない、と。きっとそれ以上の情報だってあるだろう。でも友人は恐らく敢えてそれ以上言わなかった。彼にとって、私を失うということは、何でもないことだったのだ。私はきっと、それを知りたくなかった。でも、本当は初めから知っていた。いつか終わりがくること。彼は私無しでも生きていけること。すべては、おままごとのような、恋だった。
私は両手で顔を覆う。肩を大きく震わせて、子どものように泣いた。わんわん泣いた。あの日泣きたかったのに泣けなかった分を、いまようやっと、吐き出したような気がした。私が手放した恋だった。愛だった。でもやっぱり、失恋したのも私だった。
目が覚めた。私はすぐに、花が喋る夢を見ていたと知る。雨は上がっていた。私は泣いていた。下を向く。両腕や、両足を見る。花は動かない。話し掛けない。あの、美しい声で、私を愛していると、もう言ってはくれない。私は両手で顔を覆う。今度は静かに泣いた。静かに静かに、音も無く。
次の日、起きた。しばらく微睡んでから、鏡で顔を見た。花が、増えていた。肌色はもう、右の眉から目の下、涙袋までしかない。明日、最後の花が咲いて、そして明後日は来ないだろうと私は思う。先週から、毎朝起きたら診療所に電話をすることになっていた。生存確認のためだ。目覚めたら、恐らくその日は一日生きている。電話が来なかったら、きっと医師は私が花になったことを確かめに来るだろう。そして、友人に連絡をするのだろう。私の欠片を渡すために。私は電話口で、明日が最後になると思うとは言わなかった。今日も、花は増えたとだけ伝えた。もう誰にも会いたくなくて、外にすら出ていなかった。でも今日は、夜になったら海を見に行こう。そう思った。
コットンの白いワンピース、ウェッジソールのサンダルを履いて、私は大きな月の夜、家を出た。夏とはいえ、夜の空気は張り詰めたように冴えている。島の中心部から離れながら、土と砂の道を歩く。人通りはない。海の音が、遠くからする。ざざ、と波が寄せては返る懐かしい音がする。一本道を進んで、少し下る。この辺りから、雑草が増え始める。もう少し歩くと、人の手が加えられていない草むらが見える。この島は、海の近くには降りられない。この草むらの中を進み、島の、本当に端の端から見るのが一番海に近い。足跡がうっすらとある道なき道を踏みしめて、崖っぷちに来た。もう二歩踏み出したら、真っ逆さまに海に落ちるだろう。
夜の闇はすべての境界を曖昧にしていたが、顔を上げると満月が海に光の道を作っていた。一直線に、海に細かい光がきらきらと反射している。真っ直ぐ、まるで私に向けられたかのようなそれに目を奪われて立ち尽くす。

「素敵な景色ですね」

背後から聞こえた声に、私はびくりと身体を強張らせて振り返る。数メートル後ろ、青々と生い茂る草むらにふくらはぎを突っ込みながら、背の高い男が立っていた。さっぱりと刈り上げられている短い黒髪。しっかりとした骨格が見てとれる、アスリートのような体型の、はにかんでいるように、微笑んでいるように、細められた目と引き締まった口角。知らない人だ。島の人間じゃない。私の警戒に気づいた男は白い歯を覗かせながら屈託なく笑って言う。

「すみません、突然。一昨日から、観光に来てるんです」

その男は島にひとつしかない民宿の名を上げた。何も言わない私の方へ、男はざくざくと歩いてくる。私は肩から腕を、膝から下を、鎖骨から上を、剥き出しのままにしていた。島の人間であれば、私の肌がなぜこうなっているか知っている。恐らくこの男は知らない。面倒だなと思って、こっそり溜息を吐いた。

「のどかな島ですね。空気は綺麗だし、魚はうまいし、」

私の隣に立った男が口を噤む。私は男を見上げる。背が高い。この首の角度を、覚えているなと思った。男は案の定、私を見て息を飲んでいた。私は右腕を真っ直ぐ前に伸ばす。月の光を受ける肌は、本来の色を失い、狭いキャンバスいっぱいに、ぎゅうぎゅうに、花が敷き詰められているのだ。

「病気なんです。開花病って、ご存知ですか?」
「…全身に花が咲くと死ぬという、」
「そうなんです」

知っているなら話が早い。私は美しく変質した腕を月の光に翳しながら微笑む。この世のものじゃないみたいだ。私なんかもう、この世のものじゃないみたいだ。
その男は、いかにも男らしい形をしていた。小さい目、盛り上がる額と太い鼻筋。細めると瞑っているように見える目元。

「僕の生まれ育った町に、そういうお伽話がありましたよ」
「へえ、どんなお話ですか?」

昔々あるところに、若い男と女がいた。ふたりは両親も認める恋仲だった。男が家業を継いで、結婚するという話も出ていた。しかし、そんなとき、男が徴兵されることになってしまう。期間は二年。男は、必ず二年後戻ってくると誓い、そのときに結婚しようと約束をした。女は悲しみに泣き暮れながらも、その約束を胸に男の無事を祈り、帰りを待ち続けた。生きて帰ってきてくれますように。元気で帰ってきてくれますように。
しかし、男は二年経っても帰って来ない。同時に徴兵されたものたちは続々と帰還してくるというのに。まさか、戦死してしまったのではないかと女は気が狂いそうになりながら、待ち続けた。そんなある日、女のもとに地方の名士の遣いを名乗る者がやってきた。その遣いは女に話をする。女と結婚を約束した男は、徴兵後、戦地に赴き些細であるがいくつか武勲をたてた。男は腕を買われ、名士の護衛の任務に就いたそうだ。そこで男はその名士の一人娘に見初められてしまう。徴兵されて、一年が過ぎた頃だった。名士たっての希望で、男はその娘と結婚したという。同時に功績を認められた男は正式に軍に入隊することとなった、とその遣いは言った。
女は悲しみのあまり、言葉を失った。遣いの手によって返された揃いのペンダントが、手のひらで冷えていた。女は泣いた。泣き暮れた。死んでしまいたいと泣いた。殺してくれと泣いた。一晩中泣き続けた。朝が来ると、身体に花が咲いていた。顔を覆っていた手のひらに、涙が伝った頬に、首に、腕に、涙が落ちた足に。女は驚いた。それでも、そんなことどうでも良いほどに悲しかった。裏切られたことが悲しかった。ふたりで過ごした幾星霜。ふたりで語り合った未来は、何一つ叶うことなく、無残に散り果てた。約束したのに。女が死にたいと言って泣く。殺してくれと言って泣く。そのたびに、花が身体中を覆っていく。女の両親が医者に見せようと言うのも女は聞かず男に捨てられた悲しみに泣き暮れた。ある朝、母が朝餉を持って女のもとに向かうと、そこに女はいなかった。ただただたくさんの、花と種が落ちていた。それと、揃いのペンダント、ふたつ。

「…私が知っているものと、似ていますね」
「…そうですか」
「私はあと、顔だけです」

そう言って男に顔を向けた。まだ、右側に肌色が残っている。男は、言葉を探しているのか、失ったのか、少し狼狽えたように顔を横に振った。

「良いんです。気にしてません。本当ですよ」
「…それは、」
「きっと、私、ずっと、死にたかったんです。ううん、生きることに、もう意味がなかったんです」
「…この世には、あなたの生き甲斐になるようなものが、まだまだたくさんあると思いますが…」
「一番の生き甲斐を失ったらもう、それ以上なんて存在しないんです。私は、彼を失ったあの瞬間に、殆ど死んだんです」

自分でも驚くほど、穏やかな声だった。波音が、私たちの沈黙を破る。静かな、優しい、波の音。

「…捨てられたんですか?」
「どちらかというと、捨てました」
「ほう」
「私を忘れて、他の女性とキスしようとしたんです。私、どうしても、それが許せなかったし、悲しかった。彼にとって、私はその程度だったんだなって」
「その彼は…」
「謝りませんでしたよ。でも、私がもう別れる、と言っても嫌だと言われました。好きなのは私だけだって。でも、私はもうダメになってたんです」
「…もう信じられなかった?」
「なんていうか…そういうのじゃなくって、こう、壊れたものはもう元通りになることはないじゃないですか」

落として割れた硝子のグラスは、もうただの硝子片で、もうグラスに戻ることはない。私の心も、あのとき割れて砕けて殆どが壊死してしまった。だからもう、それ以前のふたりに戻ることはできない。できなかった。
隣に立つ男を見上げる。精悍な顔つきは沈痛な面持ちで海を眺めていた。あの真っ直ぐ伸びる、白い道を。

「もう…やり直せなかったんですか?」
「…やり直せたと…思います? あなたなら、やり直せましたか?」
「死ぬほど好きな相手なら、きっと、それでも一緒にいたいと思う気がします。相手もそう望んでいるなら尚更」
「そっか…でも私、そうは思えなかったんです」

赤いクレマチスは、何も言わない。黄色と赤色のガザニアも、無言だった。
もしやり直したなら、どうなっていたんだろう。私はまた、幸せになれたのだろうか? まだ、幸せだったのだろうか?
濃紺に沈む海が、白い手で手招きをしているように波を寄越す。あの、月に向かう白い道に、誘うように声を上げている。でも私は動かない。目を閉じる。もう、彼の形を、思い出せない。あんなに好きだった顔も、どこか遠く、ぼやけている。好きな匂いだったのは覚えているけれど、どんな匂いだったのかは思い出せない。どんな話をしただろう。どんな未来を、ふたりで望んでいただろう。もう何も、思い出せない。

「…でも、綺麗な花ですね」
「ありがとう。そうなの、綺麗でしょう」

私は、昨日、花たちが喋る夢を見たことを話した。男は笑顔で聞いてくれた。ガザニアに、愛していると言われたことも話したけど、もう私は泣かなかった。

「でも私、死ぬことが分かって、本当に嬉しかった」
「…その彼に言ってやろうとか思いませんでした?」
「思いません。きっともう、私のことなんか忘れて、楽しく、幸せに生きていると思う」
「そう…だと良いですね」

私たちは、雲が月を覆い始めた辺りで、帰ることにした。男は私を家まで送ってくれた。民宿はもう少し先、島の中心部寄りにある。私は帰ってすぐにベッドに入った。あの、お伽話の夢を見た。顔が見えない男を、私はイルミと呼んでいた。彼の名前だけを呼んで叫んで、泣いていた。
起きた。カーテンを開け放したままだったから、白い光が部屋だけでなく目蓋を突き抜けてきていた。がらんとした、部屋。日の光に満たされて、清められている。私はベッドに座り込んだままぼんやりする。診療所に電話をしなくては。
ああ、鏡を見なくては。
右目のまわりに、濃い紫のクロッカスが咲いていた。目を閉じるとよく見える。小さめの花が、同じ大きさで、同じ、少し斜め上を向くようにして。比較的淡く薄い色合いの花ばかりが咲いていた顔面に、目を惹く紫だった。仕事を辞めてから、花の図鑑を眺めていた私はクロッカスの花言葉を覚えている。あまりに切ない言葉だった。あまりに辛い言葉だった。
あなたを待っています、愛をもう一度、私を裏切らないで。
私は鏡の前で顔をくしゃくしゃにして泣いた。私はもう、彼を待ってなんかいない。愛はもう二度とこの心に産まれない。彼は私を裏切った。この残酷な花言葉を持つ、可愛らしい花。私は、どうしたら良かったの? 何が正しかったの? もう何も、分からないし、答えももう存在しない。
私は結局、今日はクロッカスが咲きましたとだけ言った。明日あたり、診療所にいらしてください、と看護婦が言うのをぼんやり聞いて適当に返事をした。私に明日は無い。今日が正真正銘、最後の一日だ。けれど、私は何もしない。最後の一日だからって、どうともしない。ラジオを聴いていた。軽快な語り口調と、聴いたことのない音楽。何が正しかったかなんて、考えたところで無駄なのだ。私は今夜眠る。そして、終わる。なんて、素晴らしいのだろう。朝が来ませんように、目覚めませんように、そう何度願っただろう。それがやっと、実現する。こんなにも穏やかなこころのまま。
もう雨は降らない。窓の外は、どこまでも澄み切っている。思い残すことは、何もない。開花病の罹患者が絶命したこの平屋は取り壊される。私の全財産は、私を受け入れてくれたこの島に全額寄付した。私の死後、処分してもらうものももう僅か。慌てることはない。恐れることもない。幸せな一生だった。決して、不幸ではなかった。愛しい彼に、僅かでも愛された、幸福な時間が、確かにあった。身体の、見える範囲にある花の名を呼びながら、指先で撫でる。ありがとう。私を選んでくれて。ありがとう。最後に私を美しくしてくれて。
何度か水を飲んだ。最後は、洗ったコップを伏せて置いておく。カーテンは閉めない。今日も月は殆ど丸く、明るい。ベッドに入り、最後の感触に目を閉じる。目を閉じる。目を閉じる。