鍵がかかっていなかったので、家の中に入ってみた。閑散とした室内、真っ白なシーツに覆われたベッド、眠る彼女。いまも昔も変わらない、光に透ける淡い栗色の髪を指先で確かめる。
美しい彼女は、もうどこにもいない。俺が殺した。
呼吸をやめたように見える彼女の首筋に指を当てた。脈がない。もう本当に死んでしまった。
どこかで生きていてくれるなら、良いと思っていた。きっと俺がいなくても、いや、俺がいない方が、幸せでいられるだろうと思っていた。美しく、聡く、優しく、正しい彼女が、俺は大好きだった。笑って、怒って、はしゃいで、泣いて、食べる、彼女を愛していた。愛していたのに。
剥き出しの肌に触れる。冷たい。命の無い、冷え方をしている。彼女はこれから、幾らかの時間をかけてこの身体を花と種にする。最後の逢瀬であり、最初の逢瀬だ。こんなことなら、俺が、殺しておけば良かった。
この、花たちが、憎い。何が、愛している、だ。愛しているなら死なせるな。愛しているなら連れていくな。それが、独り善がりの気持ちでしかなくても。生きてさえ、いてくれれば。幸せになってくれていたなら。
俺はよく分かっていたはずだった。殺してしまえば、もう生き返らない。壊してしまえば、もう直らない。あの瞬間の、彼女の鳶色の瞳を、いまでも覚えていた。収縮する瞳孔を。戦慄く唇を。俺が壊してしまった瞬間を。間違っていたのは、全部俺の方だった。花になって死ぬのは俺であるべきだった。
楽しく、幸せになんて、俺は生きていない。そう言いたかった。結婚はした。政略結婚だった。忘れられない人がいると明言した上でのものだった。子どもも数人いる。けれど俺はいつも君のことを思い浮かべてセックスをしたし、呼んだ名前は君のものだった。俺は、不幸せでもないけれど、幸せでもない。ただ、死んでないから生きている。家族の一員としての役割を、ただ全うしている。
美しい彼女の寝顔。花に埋もれた彼女の姿。君はどうしてそれでも笑っていられたのか。美しい思い出は、後悔にまみれてただただ沈澱していく。ごめん、俺が悪かった。あのときそう言えば良かったんだ。許しを乞えば良かったんだ。壊れたものは元に戻らなくても、また新しい形を築けば良かったんだ。
冷えた指先に、自らのそれを絡める。最後のキスは氷のように冷たく、無味だった。
朝が来るまで、ここにいようと思った。日中はまた、あの観光客の男になっていないといけない。
君はやがて、花と種になる。骨も残さず君は朽ちる。だから、俺にそれを、一番にくれ。ひとつ残らず庭に植えて、今度はちゃんと、花を咲かせるから。今度はちゃんと、正しく、間違えずに。