あの夜明けの空を背景に、俺の世界に大量の絵の具が振り撒かれた。
あの日まで、俺は産まれ堕ちた瞬間に、終わるその瞬間までが決まったこの人生を唯々諾々と生きていた。初めて飲んだ猛毒の味。舌の痺れる感覚。喉を締め上げるような、胃をひっくり返すような強烈な激痛と、瞬時に暗転する視界。初めて刺した針の感触。体内を通じて聞こえた皮膚に沈む音。じくじくと鈍く響く痛みを、自らの念能力で無視する閉塞感。自分の痛みを無視して、他人の痛みを無視して、それが一番の近道だった。
あの限りない苦痛の始まりを、俺はいまでも確りと覚えていた。正確に言えば忘れられなかった。俺にはここから逃げるという選択肢すらなかったし、そんな発想すらなかった。いつか死ねるその瞬間まで、俺は人形で、死んでやっとヒトになれると思っていた。あの日までは。空だって、多分、ちゃんと見てなんかいなかった。それはただの背景だった。青くたって赤くたって、俺にとっては時間帯を示すものくらいでしかなかった。

「ごめんね、横取りしちゃった」

彼女の声は朗らかで、俺は夢から醒めたようだった。白黒に霞んだ世界は、あのときの瞬きひとつで引き摺り下ろされたのかもしれない。着色された世界を、初めて見たようにすら感じた。明け方の空。空って、こんな色をしていたっけ。そうぼんやり考えていた。その真っ青を、押し上げるような地平線の白い光。それよりも遥かに、その笑顔の方が眩くて。
俺は暗殺の仕事を横取りされたことなどどうでも良いかのように、彼女を見つめていた。強烈だったのだ。彼女の栗色の髪より、強い強い青。目を覚ました太陽が放つ白い光の縁取り。柔らかいけど凛と響く声。長い睫毛と濃い縁取りの美しい目元。煌めく眼球。逆光の中、そんなことものともしない彼女の神々しさ。まるで初めて女性を見たかのように、その全てが強烈で、鮮烈だった。

「君がやったことにして良いよ」

彼女は手元に視線を落としながら伏し目がちに、しかし三日月のように笑んだまま言う。
俺の、三回目の仕事だった。まだ髪も短かったし、喋らない子どもだった。自らの運命を自覚して、全てを飲み込んできた。そこに俺の意思は介入しなかった。する必要はないと思っていた。俺がどう思っても、未来は何も変わらないと思っていた。人を殺めるだけの人形。機械化歩兵のような精確さと無情さと無欲さで、俺は望まれた通りの暗殺者になる筈だった。与えられるものだけを、注ぎ込まれるものだけを、延々と飲み込んで、その通りの形になる筈だった。でも俺はそのとき、初めて、もっと強くなりたいと思った。何でもできるようになりたいし、何でも耐えられるようになりたい。俺が望めば誰でも殺せるようになりたい。そう思った。俺の望む形を見つけてしまった。
全ては、彼女のせいだ。
それを、いま、鮮明に思い出した。なんでかって、彼女を見つけたからだ。仕事で潜入したオークション会場で、あの日の空みたいな真っ青で、キラキラ光るラメの入ったワンピースを着た彼女を、見つけたからだ。

「久しぶりだね」
「え?」
「こんなとこで会えるなんて、思ってもいなかった」

彼女の、光を弾く瞳が俺を見ている。少し間があって、ああ、と彼女は破顔する。あのときの。そう言って、あの日と同じ笑顔を俺に向ける。俺はそれを見ると、どうしても、やっぱり、とんでもない焦燥感に駆られる。こんなところでもたついている時間はない。そう強く思う。
また少し、色をなくしていた世界が、鮮明に色付く。浮き上がる。周囲の音も、はっきり聞こえるようになる。あらゆる感覚器官が活発に動き出す。多分俺は、あの日、産まれた。あれから俺は、意思を持った。心を持った。何かを欲しいと思った。自らの意思で生きたいと思った。きっと、運命だった。今日この瞬間を迎えるためにあの日があった。いまがそのときだと、もう気づいていた。

「随分、大きくなったね」

彼女は目を細めて近づいた俺を見上げる。あれから何年経ったか。俺は毎日生き急いだ。毎日駆け抜けた。余すことなく、いま、を使い切った。望むものを吸収するためには、どれだけ時間があっても足りないことなんて分かっていた。望む形の、足りない部分を補うためには必要なものしかなかった。ただ、彼女を見つけた瞬間の感情だけに突き動かされていた。この指先から、脚も、目も、口も、心も、骨の髄まで染み込んでいた。目を閉じていたって、あの眩しさに目を焼かれるようだった。夜明けの空に白い縁取りで浮き上がる眩い彼女が、満面の笑みを俺に向ける。ただ、それだけで。

「俺も、いまは一流だよ」
「知ってるよ。ていうか、あのときから一流だったよ」
「まさか。あのときの俺は空っぽだったんだ」

彼女は意味が分からないようで、少しだけ首を傾げた。でも俺はそれをやり過ごす。あれは俺だけの思い出だ。いままで見たどんな景色よりも鮮やかで輝いていて、あまりの強烈さに、脳のどこかに焼き付いてしまった景色。彼女だけは、人形だった俺を、ヒトだと思った。いや、彼女が、人形だった俺を、ヒトにした。命を、吹き込んだんだ。

「今日も仕事?」
「そうだよ」
「そう。俺もだよ」

ーーを殺すんだ。俺は彼女の耳元に口を寄せてそう言う。彼女は口元に手を添えてクスクス笑った。

「今日はかぶらなかったね。私はーー」

彼女が声を潜める。生き急いだ日々を思い出す。駆け抜けた日々を思い出す。何もかもを欲した日々を思い出す。彼女を見つけた瞬間の感情が、この五臓六腑を動かしていた。俺の心臓を強く叩いて、肺を膨らました。目蓋に描かれたあの鮮烈な残像が、どれだけ目を閉じても、真っ暗闇でも、俺の向かうべき道を照らして、指差していた。

「ねえ、折角だからさ、記念になんか盗んでいこうよ」
「ええ? 君、見かけによらず結構大胆なんだね」
「そうだよ。知らなかった?」
「知らなかった」

再会記念だよ、と俺は呟く。会場にアナウンスが響いて、ステージ以外の照明が落とされていく。俺たちは席についても恋人のように顔を寄せ合いながら、もっともそれは会話の内容を聞かれないためだけであったけれど、声を潜めて話を続けていた。ステージにひとつずつ出される競売品を見ながら、どれが欲しいか話し合った。大粒の宝石。珍しい人体の一部。貴重な生き物。俺は彼女に、涙型に整えられたブルーサファイアのネックレスを勧めた。彼女には青が良く似合う。
オークションが全て終了し、客が席を立つ騒めきに乗じて標的に針を刺す。ついでに、ブルーサファイアのネックレスを競り落とした客にも針を刺した。彼女も帰りがけを狙い標的を難なく始末し終えたようで、涼しい顔で会場の外のロビーに現れる。

「終わった?」
「もちろん」
「今日は俺が横取りすれば良かったかな」
「もう、ごめんてば、」

彼女が茶化すように笑う。俺は右手に持つ、ブルーサファイアの重みを感じていた。聞こうと思っていることがあった。彼女を見つけたときの感情が、ぐるぐる回る。血液に染み込んだように、身体中を巡っている。あの、青に浸食された血液だ。

「はい、これ、再会記念」
「ほんとに盗ってきたの?」
「勿論」
「貰って良いの?」
「良いよ。そのために盗ったんだから」
「そう? じゃあ、貰うね。ありがとう」
「それでさ、」

目蓋の裏の、もしくは脳のどこかに焼き付いた、あの日の彼女を思い出す。目の前の彼女に重なる。彼女を印象付ける、どこまでも澄んだ、青。俺は多分、あの日、初めて青空を美しいと思った。美しいと思う感性を得た。彼女を縁取る全てが美しかった。あの朗らかな声を思い出す。いまがそのときだと、もう気づいている。

「名前を教えて欲しいんだ」

彼女を見つけた瞬間の感情に、眩し過ぎるこの残像に、俺は彼女の名前を付けたい。俺は、俺に命を吹き込み、心を与えた彼女が、欲しい。この青ごと、全部全部、欲しいんだ。俺の全てはそのために在るんだ。そのために、俺はどこまでも生き急いで、どこまでも駆け抜けた。日々を、思い出す。今日がまさに、報われた瞬間の連続だった。俺の皮膚の下に息づく、青い血液が熱く巡る。
彼女が、目を細めて口角を上げた。その唇が紡ぎ出す言葉を、俺は心臓を弾ませながら待ち望んでいる。





君と羊と青/RADWIMPSより