ああ、もう、心が此処に無いっていまやっと気がついた。
いつから崩壊していたんだろう。ちっとも気づかなかった。だからダメだったのだろう。ただ、空しく、私の中の何かが欠落したことだけが確かだった。
彼が、自分の分のついでに作ってくれるコーヒー。ブラックで飲む彼は私のために、ミルクを用意してくれる。あの頃はそれがとても嬉しかった。でも私は最後まで、砂糖も欲しいと言えなかった。私は紅茶の方が好きだとも言えなかった。それがダメだったんだと思う。
電話の向こうで、彼が押し黙る。誰かが喋っている。聞き取れない、高い声。ああ、と溜息のような声のような、そんなものがこぼれた。

「気づかなくて、ごめんね」

こういう日が来ることは、最初から分かっていた。何度も何度も、彼がいなくなる瞬間を想像していた。この身を切られるような痛みを何度も受けていた。彼のくれた言葉のすべてが、嘘になる瞬間。来ないわけが無いことくらい、私には分かっていた。ただそれが、今日で無いことを明日で無いことを、とにかくずっとずっと遠い未来であることを願っていた。このところ、何かと会えない日が続いていたことを何とも思わなかった。
ずっと好きだった。長いこと会えなくて、彼の記憶が、匂いが、声が、眼差しが、体温が、私の中から薄れていっても、彼を見た瞬間に私はまた彼に恋をした。恋をしていたときの記憶が、噴水のように溢れ出した。だから、大丈夫だと思っていた。大丈夫な気がしていた。

「…私のこと、もう好きじゃない?」
「…うん」
「…そっか、じゃあ、しょうがないね」

こころ、という臓器はどこにも無いのに、私は頭で考え事をしているはずなのに、胸の真ん中がずしんと重くなる。ぎゅう、と気管を押さえつけるように息ができなくなる。
こんな日がいつか来るって、分かっていた。だから、涙も出てこない。口の中から水分が消え失せて、ぱさぱさに乾いてしまうだけだ。それが今日だって分かっていたら、こんなに苦しまなくても良かったのだろうか?
ふたりで出かけた場所、ふたりで見た景色、ふたりで聴いた音楽、ふたりで食べた色んなもの、ふたりで過ごした沢山の時間。それが全部、覆されてしまう。覆されてしまった。

「…ごめんね」

結局最後まで、彼の声色を読み取ることができないままだった。私は、うん、とか、ううん、とかを多分言って、口を閉じた。彼も黙る。お互いに黙り込んでいたら、電話が終わらないよ。きっとあの頃ならそう言えたのに。口を開く。もう私には、これ以外に言えることがなかった。

「じゃあ、もうさよならだね」
「…うん」
「切るよ。さよなら」

彼が何か言ったかもしれない。でも私はスマートフォンをすぐに耳から離した。親指で通話を終了させる。しばらくそこから動けなかった。涙は出ない。
いつかこんな日が来るって分かっていた。それが今日だった。何の前触れもなかった。それは私が鈍感だったからだ。彼が好きという気持ちが私の目を覆い隠していたのかもしれない。彼を、どうしてちゃんと見ようとしなかったのだろう。こんなに好きなのに。あんなに、好きだったのに。
いつかこんな日が来るって分かっていた。何度も何度も、この苦しみを想像した。涙は出ない。砂糖が、あってもなくても、きっと、いや間違いなく、こうなっていた。もうずっと前から、分かっていたことだった。それでもやっぱり、苦しみのあまり死んでしまいたいと心の底から願った。