early morning
いまでもあの夢を見ることがある。教会のアイアンメイデンが、ひとりでにかぱっと開き、中から黒い腕が無数に伸びてきて私を捕まえる夢だ。私はあっけなくそれらに捕えられ、彼女の中に引きずりこまれる。黒い腕の感触まで酷く鮮明で、冷たいような温いような、柔らかいような弾力があるような質感が私を捕らえる。そして、軋んだ音を立てながら鉄の扉が閉まっていく。私はなんと助けを呼んで良いかも分からず、ただ悲鳴だけを上げているけれど誰も助けには来ない。胸の扉がゆっくり閉ざされる、その光の加減で鋭さと長さの強調された針が何本も何十本も突き刺さる、というその瞬間にいつも目が覚めた。
心臓が早鐘を打っている。春だというのに汗をかいていた。この夢を見るようになって、もう十年以上経つのに一向に慣れない、いや寧ろ、どうしてこんな長い間この夢を見るのか。未だに、怖くて怖くて堪らない。寝返りを打って、掛布と身体の間に新しい空気を入れる。
私は孤児で、教会で育った。その教会には、両親を亡くしたもの、両親に捨てられたものなど、様々な境遇の子どもたちがいた。私は前者だった。教会で暮らす子どもたちの中で一番歳下だった私はよく意地悪をされていたし、嫌なことを押し付けられた。その嫌なことのひとつが、アイアンメイデンの掃除だった。子どもたち全員で教会の敷地内の掃除を毎日するのだが、私は教会の敷地内にある孤児院の倉庫の掃除をさせられていた。その部屋の一番奥、壁の中央に恐ろしい彼女はいる。くすんだ鉄色で、でも優しく口角を上げて。後から知ったことには、私が育った教会は増改築を経てあの頃の姿になったそうだ。孤児院として使っている建物こそが昔は教会だったらしい。そして、実はあれはちっとも怖いものではなかった。彼女の身体の扉が閉まると、底が開いて地下に滑り落ちる構造になっているのだ。だから彼女は動けない。つまり、あの建物に設えられていて、地下部屋への入口のような役割をしている。尤も、処刑される罪人への慈悲深さにより作られたのか、教会への迫害から逃れるために作られたものなのかはもう定かではない。
しかし、当時の私はそんなことちっとも知らなかった。他の子どもたちは勿論知っていたが、知らずに怖がる私を見て楽しんでいたのだろう。扉が開け放たれていれば当然底は抜けない。倉庫の床を磨き、壁を拭き、据え付けられた棚に置かれた聖杯や聖餐器、卓上鐘や使わないのに幾つもある花台なんかの埃を払い、アイアンメイデンの腹の中の埃も払う。あの長く突き出た鋭い針のひとつひとつに、はたきをかけるのだ。私はそれが、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかったのをいまでも覚えている。
今日泊まっているホテルは、清潔で狭かった。カーテンを開け放すと真っ白い光が部屋中を満たす。向きが良いらしい。見下ろす街並みは温かなレンガ調で活気があった。あちこちの建物の出窓から植木鉢に植えられた花が太陽に向かって伸びていたし、耐えず足音、話し声、笑い声がしている。こんなに朝早いのに。なんとなく、こんがり焼けたホットサンドが食べたいなと思った。
シャワーを浴びて、軽く髪を乾かす。デニムスキニーに脚を通す。濃色のタンクトップに白いシャツを羽織って、スマートフォンをバックポケットに入れ、財布を持ってホテルを出た。気になっていたカフェに入る。テラス席でブラックボードにあったホットサンドとスムージーを頼んで、頬杖をついた。随分暖かい地域だ。私は雪国育ちだから、快適で過ごしやすい。
「相席、良いかな?」
「え?」
斜向かいにある花屋を眺めていた私は、不意にかけられた声に視線をやる。とても長身の、赤毛の男が立っていた。その男の後ろのテラス席や、屋内席にだって空きが目立つ。私は何かの間違いかと思って、黙ったまま男を見上げた。彼はもう一度、明瞭な口調で同じ言葉を繰り返す。
「混んではいないようですが」
「せっかくのモーニングなんだから、お喋りしながら食べたいなと思って」
柔らかい声で穏やかな話し方をする男だ。にっこり微笑んだ顔はドキドキするほど整っている。私はうまい断り方が思いつかず、構いませんが、と無愛想な返事をした。
「何を頼んだの?」
「あの、アレ、ハムチーズ」
私は入口にあるブラックボードを指差した。そこには、ベーコンエッグとかツナメルトとかスクランブルエッグとかベーコンレタストマトとかロコモコとか、ホットサンドの具材がポップな字体で列挙されている。
Tシャツにコットンパンツという出で立ちの彼は、振り返って興味深そうにその文字を眺める。それからメニューを持ってきた店員に、ホットサンドを四種類とフルーツとコーヒーを頼んだ。
「朝からそんなに食べるの?」
「食べるよ。男の子だからね」
「ふうん」
茶化して笑った顔があどけないけれど、歳上なんだろうな、と思いながらいましがた来たばっかりの、きんきんに冷えたスムージーを飲む。あまりにも冷えていて、喉を落ちていく中でいまどの辺りにいるのかまで分かった。私はこういうとき、人体の不思議さと神秘さを感じる。彼の視線を感じて、スムージーの太いカラフルなストローから視線を上げる。
「観光?」
「…そんなところ」
「この辺のヒトじゃないよね」
ここは日差しの強い国だ。人々は皆、健康的に日に焼けている。太陽がゆっくり昇り、さっさと沈む雪国で生まれ育った私は目立って白かった。でも彼も、どちらかというと白い。
私は頷くだけに留めた。仕事で来ていた私には、あまり話したくない事柄だった。私も彼の肌の白さを指摘したとして、彼が出身やこの国にいる理由なんかを話し始めたら、私も話さないといけない雰囲気になるかもしれないと危惧して私は黙っていた。普段からあまり他人と接触しない私には、そういうのを乗り切る会話術などは無い。肌が白いのは引きこもっているからだ。
平日だからか店はあまり混まずに、気をきかされたのか、私たちの頼んだホットサンドは同時に届いた。対角線でカットされたサンドの断面から、溶けたチーズが顔を覗かせる。
「あ、おいしい」
「ね、さくさく」
焼けたパンが、かりっと爽やかな音を立てる。厚めにスライスされたハムとコクのあるとろとろのチーズが口の中をいっぱいに満たす。四種類も頼んだ彼はまずチキンカツのホットサンドを食べていた。熱い方がおいしいからかもしれない。さくさく音を立てるパンとカツ。彼の言った、さくさく、という言葉の可愛らしさに私は彼を盗み見た。不思議な男だ。小さい顔に、愛らしい目尻の猫目。通った鼻筋はどの角度から見ても完璧だ。二枚重ね合わせて作ったサンドのカットした半分をすぐに食べ切って、彼はもう半分に手を伸ばす。
「ひとくちどうぞ」
「え、っと、」
「せっかくおいしいんだから、食べてみて」
屈託のない笑顔で差し出された、サンドの三角にとがった端。困った私は、やましくない理由で駄目押しをされて、端まで詰まったチキンカツのホットサンドの角を渋々齧った。柔らかいチキンと、甘めのソースが口の中に広がる。
「おいしい」
「でしょ」
いつもひとりで食事をする私はこういうときどうするべきなのか分からず、咀嚼しながら途方にくれた。やっぱり私のも一口あげるべきなのか。べきなのかもしれない。私はおずおずと、ひとくちどうぞと彼の言葉をそっくり真似て、これから食べようとしていた半分を彼の方に差し出した。彼は遠慮することなく、そこそこ大きめに一口を奪っていく。私が硬直気味なのを一切気にせず、彼は、チーズおいしいね、と笑った。
私はそれから、彼に他の三種類も一口ずつ貰い、フルーツも小皿に取り分けられ、当初の予定よりたっぷり朝食をとった。こんな風に他人と食事をするのは初めてだった。すべて食べきってから、スマートフォンで時間を確認する。それに気づいた彼が、そろそろ出る?と声をかけてきたから頷いた。結局奢ってくれた彼に何度も礼を言ってカフェを出る。並んで立つと、彼の背の高さや全身についた筋肉の迫力を感じた。顔つきに似合わない、過剰とも思える膨らみ方をした腕や足の筋肉。何をしている人なんだろうと息を飲んだけど、追及はしない。この後の予定は聞かれなかったし、聞かなかった。カフェの前で別れる。私はホテルに戻り、彼は分からない。
名前くらい、聞いておけば良かったのかな、と思いながらこじんまりしたホテルの、小さいエレベーターに乗り込んだ。部屋に戻って、バックポケットからスマートフォンを取り出す。ここには仕事で来た。人には言えない仕事だ。私は天罰を下す仕事をしている。
広い電脳ページには色んなサイトや掲示板なんかがあるが、そのひとつにそれはあった。表向きは交流のない、愚痴などの吐き出し用の掲示板にも見える。こういう理由で天罰が下って欲しい人がいる、と書き込むだけの掲示板。そこに吐き出して、許そう忘れようという主旨で、トップには喜捨箱ならぬ喜捨口座も掲載されている。それだけだ。それだけなのだが、誰が作ったのかこの掲示板は本当に天罰を下す仕組みを構築していた。掲示板に書き込み、自分の書き込み番号と天罰が下って欲しい人の名前で、その人の居住地域の銀行から振り込むことで、天罰の依頼をしたことになる。実際はそういうふうに使われている掲示板なのだ。その振込を受けて、私たち執行人が天罰を下しにその人のもとへ派遣される。勿論、全員がそうなるわけではない。振込額が少なければ執行されないこともあるし、逆恨みなどは執行されないことが多い。私たちが天罰を下すのは、法で裁くことのできない類いの犯罪者や、権力でもって法の裁きを跳ね返すような人種が多い。執行人が何人いるのかも、掲示板の運営組織の実態も、私は詳細を知らない。執行人の共通項はただひとつ、天罰が下ったように見える殺し方ができること、これだけだ。どこに内通者がいるのか、私はスカウトされた。依頼金は半分が前払いで、執行を完了すると残りの半分が振り込まれる。頻度は少ないがギャラは大きい。
今回は、兄が政治家であるためにその犯罪の殆どを見逃され、捕まってもすぐに出てきてしまうギャングの男に天罰を下すのが私の仕事だった。スマートフォンに送られてきた写真入りのネットニュースのページを見る。目を通すのは何度目だろう。この男の罪状はただひとつ、婦女暴行だった。どこに行っても、女は男よりも粗末に扱われ、ヒトとして生きることもままならないのだと、胸が締め付けられる。国内で転々と、被害人数は二桁に及ぶがその殆どが泣き寝入りを余儀なくされているようだ。この男の名前での振込は複数の銀行から複数回されている、とメールにあった。つまり、天罰を願っているのは最低でもふたり以上いるということなのだろう。
私は溜息を吐いてそのページを閉じる。刈り上げたような短い髪、大きな一重の釣り目、鷲鼻、薄い唇。この男は今日の十時、この街の外れにある刑務所から出される。いつも一年に満たない期間だというのに、必ず出迎えに組織の連中が集まるその目の前で、私はこの男に天罰を下す。
窓の外は、平穏そのものの明るさと喧騒で、酷く眩しい。私は陽の光を避けるように、厚いカーテンでそれを遮断する。時間までもう間もない。
レンガ造りの巨大な刑務所はホテルからタクシーに乗って大通りを三十分ほど進み、降りてから二十分ほど歩いた、まばらな住宅街の奥にある。もう何百年も昔、この辺一帯を治める領主の城であったというこの建物は樹海を背に立ち、正面は先が鋭く尖った、高い鉄柵がぐるりと敷地を囲んで聳え立っていた。門番がいるのは門の内側で、基本的に外に出ることはないらしい。門から建物までそう遠くないアプローチは一直線で、両側には何もなく、ある程度大幅な改修工事を行ったことが窺える。正面からは門と薄い色の土で覆われた何もない敷地と建物の前面しか見えず、運動場などは樹海側にあり、受刑者は近隣住民など、誰の目にも触れない造りになっていた。勿論樹海と敷地を隔てる鉄柵は巡らされているが、その樹海は昼でも太陽を拒む常闇の森とされており、磁石は狂い、湿った土が体力を奪うだけでなく獰猛な動物が多数棲みついているという。その向こうは国境であり、すぐに隣国であるがこの樹海を超えるのは念能力者でも難しいとされていた。
刑務官が来るのか、面会者が来るのか、意外と近隣住民が来るのか、近くにはカフェが幾つかある。私は門に一番近いカフェに入った。スマートフォンで時間を確認する。九時四十分。出迎えはまだ来ていない。閑静ではあったけれど、レンガ造りの古い建物があらゆる音を吸い取って、そこら中を沈黙させてしまっているようなひりつきがあった。窓からは門がよく見えた。内側に立つ刑務官の目の色まで判別できる。
カフェには二組、客がいた。いずれも近くに住んでいるのだろうと予想できる出で立ちだった。注文したカフェモカが届いて、私はほんの少しだけそれを口に含む。こういうとき、時間はとても遅く流れる。さっさと時間になって欲しい。早く黒塗りの高級車が門の脇につけられ、そこから連中が降りて来て欲しい。あの男はこの世の全てを舐め切った態度であの堅牢な門を出るだろう。連中はそれを大いに喜ぶのだろう。どんな罪も、自分たちには何の障害にならないことを、手を挙げて祝福する。自分たちは搾取する側だと誤認し、傷つけて踏み躙ってきた人々を更に嘲り蹂躙するのだ。どんな罪だって咎められないフリーパスを手にしていると勘違いして。
私は今朝見た夢を思い出している。艶を失った、燻んだ鉄色。滑らかなフォルム。優しい微笑み。その大きな胴体が開くと、とんでもない凶暴さが露わになる。長くて、沢山の、棘。その中は真っ暗だ。がらんどうなのに、光を拒絶して冷えている。そして、真っ黒な手が上から下から、空間を埋め尽くすように、伸びてくる。私を捕まえようと伸びてくる。嗚呼。
エンジンの音が響いた。私ははっとして目を開く。窓の外を白い高級車が乱暴に通った。黒だと思っていたのに、予想が外れたことに少し動揺した。これ以上、思い描いた瞬間と現実が離れてしまわないことを祈る。チャンスはほんの一瞬だ。ここを逃すと、連中を追わないといけなくなる。それだけじゃない。天罰を下すならこのタイミングでなくてはいけない。法はお前を捕えられなくても、神の裁きからは逃れられない。そう、身を以て知る必要がある。沢山の観衆の前に引き出され、見守られ、処刑される必要がある。悪は必ず滅びると、知らしめる必要が、ある。
時間を確認する。あと三分。細長い高級車二台から、八人ほど、白いスーツと黒いスーツの男たちが降りてきた。門を囲むようにぐるりと並ぶ。あれ以上近づかれると隙間から見えなくなるな、と思いながら温くなったカフェモカを飲んだ。遠くの建物から刑務官とあの男が出てきた。門に向かって真っ直ぐ歩いてくる。近づくにつれて、男の口角まで見えた。苛立ちが増す。私が何をされたわけでもないのに、許せない気持ちでいっぱいになる。私があの男に犯されたかのような、親しい人があの男に犯されたかのような、そんな錯覚をし、憎くて憎くてたまらない。なぜ、いまのいままで生きていることが許されたのか?
門が開く。無表情の刑務官は、そこまで。男が大股に刑務所の敷地を出る。蛇のような目。裂けたように、鋭くつり上がる口角。頭を下げて出迎える連中に、両腕を広げて自由を誇示する。束の間の自由。そう、それは、いま、この瞬間に、終わる。私が終わらせる。
「…hug me softly」
マグカップに口をつけたまま、噛み締めるようにゆっくり発音した。やさしく抱き締めて。それが具現化系である私の念能力の、タイトルだった。
地を揺らす轟音が疾る。その激しさにカフェまでが揺れた。人々が、一斉に沈黙した。そして轟音の居場所を探す。門と、門を背に立つ男の間に、それが落下した。男よりも遥かに遥かに背が高い。頭を上げた連中がフリーズする。男が振り返る。なぜ、真後ろに、鈍色のアイアンメイデンが立っているのか。誰もそう思う間もないまま、その胸ががぱりと開く。錆びた鉄とは思えない速さで、滑らかさで、男を抱き締めるために。やさしくやさしく抱き締めるために。
私はそれを眺める。あの、夢のようだ。開いた胸の、その濃く深い闇から無数の腕がにょきにょき伸びる。男の悲鳴が辺りをこだまして、カフェのオーナーまでが窓から外を覗いた。他の客は席を立って窓際に張り付いている。外には、どこからか出てきた人々がいる。その沢山の黒い腕が、男を捕らえるのを為す術もなく見つめていた。この、現実とは受け入れ難い光景を、呆然と眺めている。観衆とはそういうものだ。喉を裂くような長い悲鳴が響き続けていた。細い目をいっぱいに開いて、逃げようと伸ばした腕が空を切る。その黒い腕は、男の足に絡みつき、腕に絡みつき、胴を捉え、口を塞ぎ、目を覆う。そのまま、その美しいひとの、恐ろしい肚の中に男を引き摺り込む。産まれた、ところに、還る。何人たりともそれを阻むことはできない。あのアイアンメイデンは人の手、人の力ごときではびくともしない。だって、床に据えられているのだ。劈く悲鳴が、押し込められるように、観音開きの胸が閉ざされる。鈍い音を立てながら、ゆっくりゆっくり。長い長い、鋭い鋭い、胸の裡に生えた棘を観衆に見せつけながら、その先に起こることを予感させる。
神の怒りに触れた。誠実さを失い、勤勉を捨てた。神を差し置いて、正義を蔑ろにし、己が強大であると見誤った。神はそんなことを許さない。いや、私は、そんなもの許さない。お前なんか許さない。絶対に。
再び落下したときのような轟音を立てて、その胸が完全に閉ざされる。アイアンメイデンが落ちてきて、五秒足らずの出来事だった。すぐに足元から、黒ずんだ血液が染み出る。静かにけれどじわじわと血溜まりを作り、この現実に置いてかれていた連中が騒ぎ出した。アイアンメイデンの肚を叩く。銃を取り出す者もいた。私は客たちに混ざってその光景を何の感慨もなく見ている。男を芯まで抱きかかえた彼女は、連中を突き飛ばしながら勢い良くその胸を開いた。中から、全身穴だらけで、そこから血を吹き出す男が放たれた。辺りに、悲鳴が巻き起こる。どう見ても、絶命していた。アイアンメイデンは男を離すと靄のように消える。私も静かにその場を離れ、カウンターにお代を置いてカフェを出た。
人波に逆らい、大通りを目指す。列をなしていた乗り場の、先頭のタクシーに乗り込んでホテルの名を告げる。スマートフォンを取り出して、神様にメールをした。任務完了。私は座面に深くもたれる。目を閉じた。
ああいう人種を目にすると、私は酷く乱れる。この世の全てが許せなくなる。この世に蔓延る悪も、それを許容する世界も、全てが許せなくなる。神が、大洪水を起こすのも尤もだと思う。この世の全てを許せない私が死ぬか、私が許せないこの世の全てが消滅するか、どちらかでない限り、私は救われないだろうとさえ思う。たったひとり殺したくらいで、この世は洗浄されやしない。殺すべき悪は、死ぬべき愚民共は、まだまだ掃いて捨てても余るほど存在している。私はその全てが、本当に全てが許せなくてどうしようもない。子どもの頃から漠然と感じていた。大人になると強く切実に思うようになった。私が神様だったら、良いのに。もっと、優しくて美しい世界にするのに。
この上ない不快感を堪えながら目を閉じていた。落ち着こうと息を深く吐くと、今朝食べたホットサンドのことを思い出す。誰かが作ってくれた、温かい食事。そして、それを一緒に食べた見ず知らずの男性。濃厚なチーズの味とチキンカツのソースの香ばしさ。それから、彼の柔らかい目尻と優しい声。