きっと、心のなかでほくそ笑んでるのだと思う。バカな女だと思って、私の滑稽さや愚かさを笑っているのだと思う。
そんなこと分かっているのに。
彼はいつも不自然なくらいにっこり笑って、私のお願いを聞くから。どうにも私は、引き際が分からないでいる。
「ホラ、ナマエ、ボクにお願いしてよ」
「…もうべつにないよ」
「ウソばっかり」
そんな言葉だって、彼は目を細めて口角を上げて言うから、私は困ってしまう。女王様ゲーム。彼はこれをそう言った。彼が私のお願いを、なんでも聞く遊びだ。
私はひどく疲れている。ハンター協会の末端で事務仕事をしているのだけれど、ハンター専用の情報サイトの巡回やハンター試験の準備に協専ハンターの管理など、こまごまとした作業が次から次へと舞い込むせいで死にたくなるほど忙しい。
けれど彼はそんなことはこれっぽっちも考慮せず、今日も私の住むワンルームに押しかける。願いを聞くと言って。
「夕食はどうする?」
「…スープかなんかで良いよ」
「ダメじゃないか、ちゃんと食べなきゃ」
「食欲ないの。すぐにでも寝たいくらい」
「仕方ないなあ」
忙しいのは残業ができないからで、だからまだ外は明るい。うす水色の空が朝のように眩しくて、私はひとつ溜息を吐いた。
仕方ない、なんて言いながらも彼は楽しそうで、それがまた私をムカムカさせる。日々仕事に追われる毎日を過ごしている私をよそに、彼はその高い身体能力や殺傷能力を武器に、大きな声では言えないようなことを個人的に請け負っては大金を稼いでいるのだ。彼が一度に稼ぐ額は、たぶん私の年収を優に超える。だから彼はいつも暇そうにしている。たった数日で、私の一年分以上を稼いでしまうからだ。そう考えるとほんとうにやるせない。私の毎日が、なんの価値もない、ただひたすらに無駄なものに思えてくる。
つまるところ、そんなことしかできない私はなんの価値もなくて、ただひたすらに無駄であることは、間違いないのだけれど。
「でもさ、そう言うと思って用意してあるんだ」
「…また勝手にうちに入ったの?」
「ウン。冷蔵庫も開けちゃった」
「それは良いけど…」
冷蔵庫の中は、飲み物とわずかな調味料くらいしか入っていない。むかしはきちんと自炊し食事をしていたけれど、この仕事に就いてからは、すっかりそんな余裕をなくしてしまった。毎日、朝と夜にかかさずサプリメントを摂る。朝と昼は仕事をするために少量の固形物を食べる。夜はべつに、食べなくても良いけどお腹は空く。彼が来るようになるまでは、仕事帰りにパンなんかを買ったりしていた。
「シャワー浴びておいでよ。そのあいだに作っておくから」
「うーん…」
「ホラ、はやくはやく」
彼はもうすっかり馴染んでいて、替えの下着や部屋着なんかをとっくにユーティリティスペースに用意してくれている。私が愛用する、紺やグレーにレースや花柄の縁取りを刺繍したくらいの地味ではないけれど派手でもない下着も、そのまま寝てしまうからと、ゆるいワンピースタイプしかない部屋着さえ、彼は素敵だねと笑ってくれる。もうなんだか、ここまでくると信用ならない。そんなわけないでしょ、と言いたくなる。けれど彼の不自然だけど自然な笑顔に何も言えず、私は押し黙ることしかできない。
ほとんど素顔同然の化粧を落とし、うっすらかいた汗を流す。シャンプーもトリートメントも、何から何まで無頓着な私に代わり、彼の選んだものが浴室を占拠している。特に何も思わずにそれを使って、長い髪に絡みつく水分をしぼりながら浴室を出た。タオルに全身の水滴を吸わせていたら、良い匂いがすることに気がつく。
「なに作ったの?」
「具沢山チキンスープ」
「ふうん」
髪を拭っていたタオルを肩にかけたまま、イスにかける。スープを注いだお椀とスプーンを載せたトレーを、彼はテーブルにそっと置いた。かすかにたつ湯気がやさしい匂いを運んでくる。
「ヒソカは食べないの?」
「ナマエに会うまえに食べたから大丈夫」
「そう」
誰と?とは聞けない。何を?とも聞けない。私はきごちなくスプーンをとる。お椀の取っ手を指先でつかんで、小さい角切りにされた鶏肉やトマトや人参をやわらかい味のスープとともに口にいれる。私がもそもそと食事をするあいだ、彼は私の肩にかかるタオルを取り、やさしい手つきで髪を乾かしてくれる。
私は無言で小さくやわらかい、噛んでもすぐに形をうしなうそれらを食んで飲み込んでいく。うしろで彼が、どんな表情をしているのか想像しながら。けれどけして、ふり返ることはしない。ふり返ったら、魔法がとけてしまう気がする。塩の柱になってしまう気がする。あの世とこの世に引き離されてしまう気がする。
彼の作るものはすべておいしい。やさしい味がする。私はそれを、自分以外のひとが作ったからだと思っている。
「ナマエ」
「…ん?」
「つぎのお願いは?」
「…べつに、ないってば」
「どうしてウソつくの」
ほら、と彼はたぶん背を丸めて私の耳もとに口を近づけて囁く。悪魔のように。お願いなんて。この遊びはいつ終わるのか。はじめる前にそれを確かめておくべきだったと、あとになって気づいた。
おねがい。頭のなかでつぶやく。なにか、あっただろうか。目の奥が、ぎゅうと痛む。ほそく長い溜息は、私の。
「…洗いものしておいて」
「モチロン」
「…うん」
「ほかは?」
「思いつかない…」
洗濯をしよう、と考えた。彼が私の下着を干すところを想像すると、その想像すら両手でかき消したくなる。だから、これはお願いしない。部屋の掃除も、なんだか恥ずかしいから自分でする。毎日飲む、ミネラルウォーターをケースで買ってきてもらうのは今日でなくて良いか、と考えながら目を開ける。
お願いを聞く遊び、なんて言っても、所詮この程度で、だから、もう、ほんとうに、やめてほしい。心のなかでほくそ笑んでるはずだ。バカな女だと、私の滑稽さや愚かさを笑っているのだと思う。たいしたことのない、これっぽっちの、価値の女だと。
「歯みがきは?」
「自分でする…」
「明日の朝食は?」
「…これ、まだあるんでしょ?」
「モチロン。ああ、バゲットもあるよ、ナマエがよく買ってるベーカリーの」
「…そう、ありがとう」
「…子守り歌は?」
「なくても眠れるよ」
「じゃあ、セックスは?」
「、」
返事につまって、会話が途切れる。にやにや笑っている、彼の口角や頬が想像できる。頬と言わず、頭にまで血がのぼっている気がした。
そんな私を知っているはずなのに、彼は私の耳に直接そそぎ込むように声をひそめる。ふたりきりなのに。私と彼のほかにはだれも聞いていないはずなのに。
「そのお願い、叶えてあげる」
頼んでいない。願っていない。叶えなくていい。私がそうつぶやいても彼はちいさく笑うだけ。なにが、そんなに楽しいの。恥ずかしさにくちびるを噛んだ。彼は、私のお願いを聞く、という名目で私にたくさん恥ずかしい思いをさせる。
それでも、本気で拒絶できない私を彼は嘲っている。そうに違いない。それ以外に、なにがあるっていうの?
「ナマエ」
「…なに」
「たぶんボクは、ナマエが思っている以上に、ナマエのお願いを聞いてあげられるよ」
「だから、なんにもないよ。聞いてほしいお願いなんて」
「ウソ」
「嘘じゃない」
「ウソだよ。残念、ボクには分かるんだ」
やめてよ。そう、言えたら良いのに。
これ以上私を傷つけないでよ。もう、とっくに私は傷だらけなんだから、これ以上、私を傷つけないで。お願い、だから。
どうして、それを言えないの。どうしてそう言えないの。
からになったお椀をトレーに戻す。少し色の変わった、木でできたスプーン。掬いきれずに底に残った、わずかなスープと脂。また目を閉じる。
「ナマエを傷つけてるのはボクじゃないよ」
「…うるさい」
「ボクには、わざわざ自分を傷つける趣味はないんだけど…それって気持ちイイの?」
嘘つき。いっつも、傷だらけになっているくせに。いろんなところが千切れても、裂けても、あざになっても、気にもしていないくせに。
彼から身を守るように、椅子の上で膝をかかえて縮こまる。彼は相変わらず、ゆるゆるとタオルで髪を拭っている。
分かったように、言わないでよ。なんにも知らないくせに。私のことなんか。私のことなんて。言いたいことなら、たぶんたくさんあるのに、私は今日もそれをひとつもぶつけられないまま。目を開けたさきの窓からはさっき食べたスープみたいな色の空が見えた。やさしい色をしている。彼の指先みたいに。
「ナマエがちゃんとお願いしてくれたら」
「…」
「それで済む、話なんだけどな」
彼の声が夕空にしずんでいくように消える。分からない。私にはなにも分からない。目を閉じて、両手で耳をふさぐ。彼は私に、なにをお願いしてほしいのか。そんなこと、考えたくもない。考えてなんか、やらない。ふたをする。彼に、ではなく、私に。気持ちイイわけがない。きっと彼は分かっている。ぜんぶ。私から言い出すまで、ずっと待つつもりなんだ。
しゃくしゃく、髪がこすれて音をたてている。どれもこれも、やさしさばかり孕んでいる。たぶん私はどうしてもそれが許せない。
陽炎(かげろう)とは、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことでひかりが屈折し、起こる現象。よく晴れて日射が強く、かつ風があまり強くない日に、道路のアスファルト上、自動車の屋根部分の上などに立ち昇る、もやもやとしたゆらめきのこと。
(ウィキペディアより)
貴方をさらってしまいたい
秋の鈴鳴り 冬の吐息
微かな祈りを両手ですくって
涙がひとつ さよならひとつ
貴方がいなければ
ただそれが全てだと
(陽炎/鬼束ちひろ)