職場にある、おやつカゴの中にやたら簡素なあめがあった。白一色の個包装で、大きくなんの味か書いてあるだけのそれをなんとなくひとつ貰ってみる。破いて取りだすと、それはきれいな色をしていた。
きらきら輝いているわけでもない。ひかりに透かしても特に変わりばえはしないけれど、その味を彷彿とさせる色合いで透ける球体。ちょうど真ん中のところが帯を巻いたように太くなっているのも、なんとなく愛着のわくかたちだった。
なんの期待もせずに開けたあめに心を奪われた私は、特にきれいだったもも味とレモン味をこっそりと持ち帰った。仕事を終え家に帰ると、どっと疲れが襲ってくる。ここは私が誰にも気をつかうことなくいられるただひとつの居場所で、私は荷物を定位置にもどし、部屋着に着替えてベッドに腰かけた。ここには、ソファとか気のきいたものはない。
彼は先月、仕事のために海のむこうへ行った。いつ帰ることになるかは、分からないそうだ。そう、と私はいつも通りに返事をした。そう。だから私は少し前からひとりだ。まめに部屋を掃除することもないし、きれいな洋服を着て出かけることもない。疲れていたら、シャワーを浴びてそのまま寝ることが、できる。
スマートフォンで世の中を流し見していると、急に画面が変わって手のなかのそれがこきざみに震えだした。電話だ。彼から。
「…はい」
「ボクだよ」
「うん。お疲れさま」
「ナマエもお仕事お疲れサマ。いま大丈夫?」
「大丈夫だよ」
今日持って帰ってきたあめを、袋から取りださずに手のひらでもてあそぶ。かさかさと、小さな音。下をむきすぎて、頭の重さに耐えきれない首がもげて落ちてしまいそうだ。ころり、と。落ちたのは私の首から上でなく、レモン味のほうのあめだったけど。
「実はさっき仕事が終わったんだ。明日にはソッチに着くよ」
「そう。ずいぶん早いね」
「そう?もう二週間はナマエのカオ、見てないよ」
「おぼえてる?」
「…当たりまえじゃないか」
「うん、ごめんね。冗談」
その声色に、滲みでたものをかぎとって私は先に謝った。彼は、たぶん、こういうのを嫌がる。はじめはその意外さに、拍子抜けしたことをおぼえている。彼はもっと、ふわふわしていて、なんにも執着しなさそうだと思っていた。この世のすべてを、どうでも良いと思っていると思っていたのに。
「仕事終わっても、少し遊んでくるのかと思ってたの」
「もう充分遊んだよ。あ、おみやげあるから、楽しみにしててね」
「ほんとう? なにかな、ありがとう」
ほんとうは、聞きたいことも知りたいこともたくさんある。どういう仕事だったのか、気になるし、充分遊んだっていうのはどういうことか知りたかった。けれど私はそれを尋ねることばを持たない。彼のことばが、ほんとうとか、嘘とか、そういうことが問題なんじゃない。実際彼が嘘をついていたとしても私にはそれを暴く手だてはない。ただただ、疑心暗鬼になるだけだと、よく理解している。彼のためじゃない。すべては私のためだ。
「ナマエ」
「んー?」
「…いや、なんでもないや。ちゃんと食べて、はやく寝るんだよ」
「うん、分かってるよ」
「声を聞けて良かったよ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ。気をつけてね」
別れのことばをお互いにかけあって、通話を終了させる。彼はほんとうに、むずかしい。この世のすべてがどうでも良いと思っているようにもみえるし、ちゃんと大切なものを持っているようにもみえる。なにより、とても丈夫でしなやかな強いこころを持っていた。私のとはちがう。私のそれは、固くて強そうだけど、たぶん脆い。
その日は、レモン味のあめをなめながらシャワーを浴びて、お湯をわかした。マグカップに粉末をといて作ったコーンスープを飲んで、しばらくつまらない考えごとをしてから寝た。
…
こういうのは、消えものが良いといつか言った。所有するものをこれ以上増やしたくなかった。いまでもそう思う。もてあましてしまう。そんな気がしていた。
しかし彼は、自分が良いと思ったものを買ってくるので、今回のおみやげはネックレスとピアスだった。肌なじみの良い色のチェーンと台座に、淡い色の小さな石がはめ込んである。その可愛らしい色の石は特産品らしい。ピアスも同じ石で作られていて、目立たないけれど上品な大きさのもの。シンプルだけどその石の色がとてもきれいで、私は窓からさす夕日をあらゆる角度でその石にあてて、ひとしきり楽しんだ。こういうものは、私のこころを穏やかにしてくれる。
顔をあげた、彼も穏やかな表情で私を見ていた。
「とってもすてき。ヒソカ、センスあるよね」
「気にいってくれたみたいで良かったよ」
「よく分からないけど、この色、好きかも」
「そんな気がしたんだ」
昨日のあめのような、うすくて少しだけ透きとおった色。彼はそれを私の手からとり、繊細な手つきで私の首にかけた。肌のうえの違和感も、私の熱を吸うことでまぎれていく。
「ナマエは消えものが良いって言うけど、ね」
「…うん」
「…キミをそんなふうにした男が羨ましくてたまらないよ」
「…思ってもいないくせに」
「…いつもそう言うね」
もう、何年もまえの話で、頑なな私のそのわけを彼は知りたがって、あまりにも知りたがるから、少しだけ教えたことがあった。もちろん私は、自分からこの話題を持ちだすことはない。彼を、ヒソカを尊重するために。そしてたぶん、彼も私を慮って、この話題には触れない。
ソファのない部屋にふたりでベッドにかけて、少しだけあいていた距離をものともせずに、彼が腕を伸ばして私の頬に触れた。あたたかい。私より彼のほうがあたたかい。大きな手のひらの感触。指先の力加減。もう彼のそれしか、記憶にない。目を閉じたら、何もかもを明け渡してしまいそうで、怖かった。いつかそうだったように、きっと彼も、私を置いていってしまう。ちがう誰かと、私と歩むはずだった未来をはじめてしまう。
「…べつに、もう覚えてないんだよ」
「…そうかな?」
「顔も声も匂いも、はっきり思いだせないよ。たぶんこんな感じ、ってくらい」
「…信じるよ」
ほんとうに?そう言いそうになったのをすんでのところで堪えた。私はもうなにも信じられないのに、信じられない私を、私なんかを、どうして彼は信じられるだなんて言えるのだろう。
頬に落ちついた、手のひら。あまりに大きくて、くすり指と小指は耳にかかっているし、親指は私のくちびるをやすやすとふさげる位置にある。彼の、ちいさな瞳をみつめる。なんにも、みえない。
たとえば、同じ歌手が好きだった。同じ映画が好きだった。食べものの好みが違っていなかった。私はそのひとの愚かさや至らなさを許せたし、そのひとは私の感情の起伏を許してくれた。それでも。それでも、永遠にはならなかった。それでも、永遠にはなれないことを、私は知ってしまった。私の愛だけでは、永遠をつくりだせない。
「いつかヒソカが私から離れていっても、大丈夫なようにがんばるしかないの」
「…いまからそんな心配をしてるなんて、ナマエ、そういうトコあるよね」
でも彼は、それを否定しない。いつか嘘になるような約束をしない。私を、期待させない。それが、私を助ける気もするけれど、ひどく傷つける、気もする。
私はすごくわがままだ。心のなかで相反する感情ばかりがうずまいて、どちらが正しいか、主導権を握るかで争っている。いつもいつも。おかげで、私の心のなかは傷だらけだ。誰だって傷つけたくない。私の心のなかだけにそれを収めておけば、誰も傷つけないし、巡りめぐって私が傷つくこともない。私はあの経験からきちんと学習したのだ。
「…ナマエ」
彼は少しだけ身を乗りだす。首をわずかにかしげて、親指でなぞった私のくちびるに自分のそれを重ねた。そのすべてがやさしすぎて、泣きそうになる。戻らない彼を探してさまよう私を思って、辛くなる。手放しに、彼に愛を叫び、彼のことばを疑いなく受け取る、強く豊かなこころと、幸せを、目を閉じて思う。私のよりは薄いけれど、やわらかく厚みのあるくちびるを感じながら。
好きは、悲しさやおそろしさといつも一緒だ。好きになればなるほど、うしなう瞬間を想像してしまう。そのときの、ひき裂かれるような、破りちぎられるような、激しい痛みと首をしめるような喪失感を自分で自分に課してしまう。
もしほんとうに、その瞬間がきても、ひとつしかない心がひき裂かれることも、破りちぎられることも、その痛みや喪失感に壊れてしまうことも、けしてないようにと。