産まれてから一度も傷めつけたことがないという。そのまっすぐな黒髪に触れる。波うつたびに光をはね返すつややかなそれは、しなやか過ぎて私の指からすり抜けていってしまう。はらりと。仕方ないからもう一度すくう。ブラウンの、地味な色のシーツになじんでしまうその黒々とした彼の髪。ぱらりと、やっぱりすべり落ちてしまう。なめらかで、やわらかで。
「…いつまで遊んでるつもり」
「…もう寝るよ」
「ずいぶん目が冴えてるみたいだね」
「…そうでもないよ」
はっきりした二重のなかのまるい目。そのなかにぼんやりと私を見つける。そこにいたの。通った鼻筋、均整のとれたくちびる、骨格を想像させる顎から耳にかけてのライン。すべてが信じられないくらい美しいかたちをしている。それを目のあたりにするたびに、私ははっとして見いってしまう。まるでいまはじめて気づいたかのように。こんなに美しいかたちが、この世に存在していたなんて、と。みずみずしい飛沫が私のなかを撹拌する。私の世界に色を与える。彼はそんな存在だった。
両肘をベッドについて体を起こしていた私のあたまに、彼の手がのびる。なだらかな線をえがくその腕は、華奢に見えてそうでなく、限りないたくましさで私をベッドに溺れさせる。
彼はこう見えて、どう見えるのかと言われると困るけれど、自分の感情をもてあましている。気がする。私はしばしば、彼が自らのなかに湧きあがる感情を正確に認識し、整理しようと一時停止するところを見たことがある。たとえば、彼が私の髪をなでるとき、みつめる私の目を見返すとき、私が彼にすきだよと言うとき。
「イルミ」
私ははっきりと、いまは愛称でなくほんとうの名前で彼を呼ぶ。視線だけよこした彼に、どうしてか頬がゆるむ。愛おしいのだ。こんなにも。どうしてか、私は彼を心の底から愛している。その感情は頻繁に発露して、彼を困らせる。彼に向けられる、未知の感情として。
少なくとも私たちには、恋心や愛情というものはとても不可解で難解なものだった。いままでそういうものに触れずに生きていた彼と、永遠を信じない私と。彼が、はじめての何かに触れるのとおなじだけ、私も不信を塗りかえてきた。忘れてきた。ただひとつのことを見えないふりをして。
「ナマエ」
「うん」
その肩にすり寄る。幅が広くて、ぶ厚く安心できる温度を持つ。それを認めた彼は、するりと腕を私の首のしたにさしこみ枕にさせ、横むきになって片腕で私を抱き締める。その体にかじりついて、私は重たいまぶたをおろした。眠くてたまらないときのように、直視できない問題に向き合うときのように。
もしも永遠があるとして。私たちはどこまでゆけるのだろう。この世界は、どこまで続いているのだろう。この世に、他の誰もいなくて、ふたりきりなら良かったのにね。彼を知るたびにそう思う。彼をとりまく世界は、たぶんおそらく私を拒絶するだろう。私は、それが悲しくて、恐ろしくてたまらない。不意に太陽をさえぎる雲のように一抹の翳りを与えては、彼をみつめることでそれをふりはらってきた。
「イルミ、すきだよ」
なにもかもが諸刃だった。美しさも、やさしさも、愛おしさも。
永遠なんて、やっぱりなかった。信じて裏切られ、もう一度信じてしまった愚かさを私はかみしめる。みえないふりをして、どんどんそれはおおきくなっていってしまった。もう、見えないとは言えないくらいに。おおきく、膨らんで、圧迫して。
「私たち、いつまで一緒にいられるのかな」
「…どういうこと?」
「…どういうことだとおもう?」
彼はいつも通りの無表情で私を見つめる。一挙手一投足を見逃さず、視線のむきを捉え、私のどんな小さなみじろぎでさえもがなにか重大な意味を持つかのように、私を観察している。
彼を知れば知るほど、聞けば聞くほど、住む世界が違うと思い知らされる。けして私も素人ではないけれど、それが生業であり、一流のプロである彼とは、天と地ほどの差があるのは確かだった。彼の背中にはほんとうに白い羽根が生えているけれど、私のそれは肌から飛びでたものでなく蝋でできているような、そういう感覚だった。どこまでもどこまでも、遥かとおくへ飛んでいく彼と、近づくことすらできない私と。
「べつに、結婚すればいいじゃん」
彼の熱で揺れるシーツの海におぼれていた私を、彼はいきなり現実に引きあげる。驚いて黙ったままの私に、彼はようやく眉を動かしてめんどうくさそうな表情を見せた。
「結婚て、そんな、簡単なものじゃないでしょ」
「婚姻届だすだけでしょ」
「いや、それはそうだけど、ご両親にあいさつ、とか、どこに住むかとか、仕事はどうするとか、いろいろあるじゃない、」
「そんなこと? ナマエは両親いないし、オレは跡取りじゃないからそんなにうるさくないだろうし、ナマエがうちに引っ越してくれば良いし、仕事なんて辞めれば良いよ。べつに好きで働いてるわけじゃないんだろ」
「…そりゃ、生活費のためだけど…」
「ほら、問題ない」
「でも、でも…ご両親に反対されるよ」
「なんで?」
「私、毒飲んだら死んじゃうし、体力ないし、フツーの一般人だもん」
「毒飲んだら死ぬのはだいたいみんなそうでしょ」
「でもイルミは…」
「こんなことしてる家のほうが少ないって」
「やっぱりそうなのかな」
「そうだよ。なんか勘違いしてるみたいだけどさ、オレと結婚するっていうのは、オレの宝物になるってことだよ」
「え?」
「ん?」
宝物になる。まったく意味が分からない。
察した彼は、私の髪をなでつけながら口を開く。それは、眠たい私をさらに眠たくさせる。彼に抱かれて眠る夜ほど、幸せな時間はないだろう。あとにもさきにも。
「宝箱にとじこめるんだ」
「…私を?」
「そう。子どもは産んでもらうし、家の方針に従って育てるけど」
ナマエはオレの宝物だから、なんにもしなくて良いよ。彼は明瞭な声でそう言った。やっぱり、世界がちがう。なにを言っているか、よく分からない。分かるけれど、それを受けいれて良いのか、さっぱり分からない。
それでも、彼はちゃんとあたたかい。生きている。彼も、私も。触られるところがあたたかくて、触れているところがあたたかくて、のぼせそうになる。くらくらする。それは、彼がどうしようもなく好きだからだ。触れあうところからなじんでいってしまうせいだ。熱にうかされ続けるせいで、私は正常な判断能力をうしなっていく。彼の言うことを無条件で聞いてしまう。ぼんやりした頭で。
「ナマエと出会って、思ったんだよね。オレの世界を完成させられるのはナマエだって」
「…分かんないよ」
「ひとりで世界を拡げるには、限界があるんだ。よく分かったよ」
「分かんない、ってば」
「大丈夫、分かるよ」
よいしょ、だなんてしらじらしい言葉とともに、彼は腕枕を自然にひき抜き私に覆いかぶさる。夜の空よりも暗い瞳が、私を射抜く。その彫刻のようなくちびるで、彼は、もう一回やろう、などと俗なことを言う。形式上のそぶりで横をむいた私の顎をとらえた指先に、私は私の輪郭をうしなっていく。どこまでが私で、どこからが彼か、分からなくなっていく。そしてそれは、これからもっとそうなる。この体の、ありとあらゆる部分の熱を私たちは流しこみあい、分けあうのだから。
こんなにも、私たちは引きあう。磁石のように。地面とリンゴのように。でもきっと、彼が地面で私がリンゴなんだと思う。私はもう強制的に、彼のもとへ落ちてしまう。まっすぐ、すみやかに。彼が望んだ、そのとおりに。