するすると落ちた。じゃぼん、と背中のほうから音がして途方もない量の水に抱かれる。海だ。うごかせるのは眼球だけだった。からだはやっぱり、するすると落ちていく。冷たい液体をかきわけながら、じゃぼじゃぼ、ばしゃばしゃ、じゃぷじゃぷ、沈んで、沈んで、海のそこ。
オレンジに光ったり、ピンクに光ったりする、トパーズの世界で、錆のいろをした泡がぶくぶくぶく。だれが吐いているのだろう。ああ、あの魚だ。背中にゼンマイがついている。ぎこちない動きでからだを左右にふりながら進んでいく機械仕掛けの魚。動くたびにゼンマイがきしんで、その口から錆を吐きだす。ぶくぶく、ぼこぼこ。
そこからさらに沈んで、沈んで、黒い鳥が羽根を広げて水をかく。エラもないのにおぼれないのだろうか?泡だつ黒い羽根にまとわりつくのは白くにごったくらげたち。真珠のような泡をつくりだしながら、たのしそうに踊っている。ぶくぶく、ぼこぼこ。
そんな美しい海の底で、神さまみつけて、
「こんにちは」
「…やあ」
「久しぶりだね」
「そうだね」
「こんなところに珍しい」
「ちょっと仕事でさ」
ここいい?と聞かれ私は頷いた。開いていたノートパソコンを閉じ、端によせていたメニューを広げるも、イルミは見もせずに店員と目を合わせる。コーヒーをブラックで頼んだあと、彼は私に向き直る。
「そうだ、読んだよ。新作」
「ほんとう? ありがとう」
「いつにも増して幻想的だったね。あの海のはなしとか特に」
「ああ、ちょうど海辺の街に長いこといたの。とても良いものが書けそうで」
「そう。まだあちこち行ってるんだね」
「うん。自由業だからね」
笑って、アイスのミルクティーに口をつけた。自宅ちかくのこのカフェを私はすっかり気にいっている。少し高いところにあるので、上から下までガラス張りの壁からはせわしない街の景色を楽しむことができた。うるさくない音量でそのあたりを行き来する、客や店員やその話し声。ゆるやかに流れる時間を体現しているようなクラシックミュージックは、ぜったいに自分じゃ選ばないもので、私の感性を泡だたせてくれる。そんな場所だった。
自由業なのは、殺し屋である彼も同じだ。私は作家である。はじめは、宝石店の受付の仕事をしながら、この世界から逃げるように文字の世界を作っていた。なるべく美しく、なるべく正しく、なるべく楽しく、最果ての楽園のように、ありもしないユートピアのように。
ノートパソコンの中にたくさんの話が詰まってきた頃、たまたま新聞の広告を目にした。大手出版社が、新人や無名作家の小説を集めて雑誌にするというものだった。相手になんかしてもらえないだろうと思いながらも、推敲を重ねた何本かを送ったら、しばらくしてから掲載したいという旨の連絡がきた。紆余曲折をへて、私は受付の仕事をとうに辞め、空想作家としてあちこちに出かけ、新聞や月刊雑誌に短編小説を書いたり、それらや書き下ろしをいくつもまとめて本を出す身になった。
店員が音もたてずにやってきて、ことりと彼のブラックコーヒーをテーブルに置いた。ふわりと落ち着いた香りがこのあたりを満たす。
「しばらくぶりだけど、どこか行ったりした?」
「仕事で飛んだりはしたけど」
「どこかおすすめのところない? 景色がきれいなところとか」
「あんまりそういうの興味ないからな…」
たくさんの空想をするために、私は世界各国を旅する。海のむこうの大陸にも行く。かばんにはノートパソコンと財布とポーチと、そのくらい。着の身着のまま飛行船に乗って、上等そうなホテルにしばらく滞在する。観光をしたり、部屋に何日もこもって文章を打ちつづけたりして、担当編集者に新作をメールで送る。たぶん彼のようにとても自由で、少し悲しい。
「あの海に沈んでいくのはね、夢でみたの」
「夢?」
「そう。その日は海底観光船に乗ったの。あれ、すごいね。船に乗ったら、まず飾り気のない螺旋階段をひたすらぐるぐるおりるの」
「うん、それで?」
「それで、まるい窓がいくつもついた船底に着くんだけど、そこからね、覗けるの。すごいよ」
「へえ」
「見たこともないかたちの魚がいっぱい泳いでるし、海の底なのにきらきらしてるし、ずうっと眺めてたから、そんな夢をみたんだと思う」
「ずいぶん面白い夢だね」
「そう。しかも、沈んでたのは私じゃなくてあなただったのよ」
「オレ?」
「そう。きれいだったよ。長い髪がふわあって漂ってて、海のなかをね、まっすぐ落ちてくの」
「なにかの暗示かな」
「さあ。記憶の整理をしていただけかも」
ひとりで生きていると、ひとと話すということがあまりない。今日は偶然にも、彼に遭遇してたくさん話したせいでやけに喉がかわく。こんどはチョコレートミルクを頼もうかなと考えていたとき、視界の端で彼がカップに口をつけようと動く。
「ていうことはさ、海のそこで神さまをみつけたのはオレってこと?」
「そう。でも神さまをみつけたっていうのは私の解釈」
「ナマエの解釈?」
「うん。イルミはそこでなにかをみて、すこし目をほそめたの」
「…」
「私からは、なんにもみえなかったんだけど、まぶしいのか、それか、なにかなつかしそうな顔をしてたようにみえて」
「オレが?」
「そう。みえたの。それで、神さまをみつけて、こんにちはって言ったことにしてみたわけ」
「ふーん…」
その人形のような端正な顔立ちは、まったくと言っていいほど感情を反映しない。だから、まぶしそうな、なつかしそうな顔だって、気のせいだったのかもしれない。ただちょっと、そうみえただけで。
起きたとき、ぜったいに忘れたくないと思って、ベッドサイドのペンを取ってメモ用紙に走り書きをしたのをおぼえている。じゃぼん、うみのそこ、トパーズ、錆色、ゼンマイの魚、からすとくらげ、まぶしいもしくはなつかしい顔。顔もあらわず、スリープモードだった相棒をたたき起こして、私はその夢のなかの一節をひとつ残らず文章にした。私の世界に大いそぎで組みこんだ。
「ナマエをみつけたんじゃない?」
「え?」
「オレ。海のそこで」
「ああ、」
記憶のなかから顔を上げたら、光がとどかない黒目が、私をじいっと見ていた。そうか。その発想はなかった。イルミは気づいたんだ。おなじものをみていた私に。それで、あんなかおを。
「ごめん。私、神さまにしちゃった」
「いいよ。夢のなかのことだし」
「そっかそっか、イルミは私をみつけたんだあ」
「でも顔にだすなんて、そんなことしないけどね」
「そう?」
「そうだよ。さっきだってそんな顔しなかったよ」
「え…」
「ナマエを見て、まぶしそうになんか」
すこし、ほんのすこしだけ、いま、彼は目をほそめている。それに気づいた私はなぜか動けなくなって、口をあけたままその顔を見つめた。彼が小首をかしげて、私ははっと瞬きをする。
「いま、いましてたよ」
「…え?」
「さっきは確かにいつも通りだったけど、いま、まぶしそうにしてた」
「…ほんとうに?」
「ほんとうだよ! 夢のなかとおなじだ、」
神さまみつけて、こんにちは。
診断メーカー「うみのなかに おちていく」より。
「沈む。沈むイルミはじゃぼんと沈んでうみのそこ。錆色の泡とゼンマイ仕掛けの魚がトパーズの世界で揺らいでる。沈む。沈む。うみのそこ、からすとくらげが踊ってる。うみのそこでイルミは神さまみつけてこんにちは。」