はちみつトラップ【前編】
その日、私は通称ゼロと呼ばれる警察庁警備局警備企画課の掲示板の前で立ち尽くしていた。それはもう瞬きも忘れて呆然と。貼り出されていたのは各自の行動予定や指名手配犯の顔写真だけではない。辞令が下りたのだ、それも重要な。

(まただ…)

ぐっと拳を握りしめながらそこに書かれた一人の名前を睨みつける。

数日前、直属の上司の話では私に回ってくるはずだった潜入捜査。本来ならばそこに書かれているはずの私の名前はすっかり別の男のものに変わっていた。まるで最初からそこに書かれるのが当然のように存在する名前にふつふつと怒りが湧き上がる。

────降谷零。

いつも私から仕事を奪っていく公安の若きエリート。警察学校時代から何かと競ってきた彼は私にとって同期、同僚、上司である前に憎き相手だった。

(あいつ…絶対許さない…)



***



ダンッとグラスが割れるんじゃないかと思うほどに強く叩きつけるとカウンター越しにシェーカーを振っていたバーテンダーの哀れみを帯びた視線が突き刺さる。彼はきっと心の中でまたか…と思っているに違いない。そうだ、またなのだ。

あの後、しばらく掲示板の前で放心していた私はようやく我を取り戻すとその足で上司の元へ直談判に行った。ノックもなしに勢いよく扉を開けた私を見て上司もやはりまたか…という顔をした。弁明しておきたいがいつもこんなに礼儀知らずなわけではない。警察という規律の厳しい組織の中でもちろんそれを蔑ろにしたことはないが、こう何度も任務を横取りされちゃあこちらも限界だった。

自分が就くはずだった任務になぜ彼の名前があるのかと問いただすと、上司はやはりそのことかと面倒くさそうにため息をついてから経緯を説明してくれた。辞令が下る数日前、降谷零は暴漢に襲われかけた警察のお偉い方を助け、まんまと私が就くはずだった任務に就いたらしい。そんな馬鹿みたいな話あるだろうか。

「降谷ァァァ…」

グラスの中身を一気に煽るとそのままダンッと叩きつける。憎しみを込めて名前を口にしてみたが、得意げに笑ったヤツの顔がまざまざと浮かぶだけだった。

「あいつ…また私から仕事を奪った…」

今度こそ出世できるチャンスだった。公安が数年前から目をつけていたのは世界各国に拠点を持つといわれている極めて大規模な犯罪組織。そこに潜入して手柄をあげれば出世街道を突き進む降谷の背中にも追いつけるかもしれないと、そう思っていたのに…

「あいつ、とは俺のことか?」

気配もなく隣の席に腰を下ろしたのは先ほどまで脳内で嫌な笑みを浮かべていた男だった。

「なっ…なんで降谷がここに」
「悪いか?ここは俺もお気に入りの店なんでな」
「だからって隣に座らないでよ。空いてる席なら他にもあるでしょ」

ホテルニュー米花のバーラウンジはこの辺りじゃ珍しく遅い時間までやっているため仕事終わりの同僚と顔を合わせることもあったがまさかこの男まで通っているとは思わずあからさまに顔を顰める。振り返れば案の定、こんな時間に飲んでる客などほとんどおらずテーブル席には空席が目立つ。カウンターがいいにしろわざわざ隣に座ることないじゃないかと苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。

「…風見から聞いた。警視監の元に直談判に行ったらしいな。いい加減、みっともない真似をするなよ」

目の前に琥珀色の液体が運ばれてくるころ、降谷は前を向いたまま無表情にそう言い放った。まるでこの公安の恥さらしめと、そう続きそうな言葉に思わず視線をそらす。自分だってみっともないことをしているのはわかっていた。それでも今回ばかりは引き下がれなかったのだ。

数年前から目をつけていた組織への潜入、その糸口を見つけたのはつい数週間前のことだった。捜査員の一人は既に決まっており、もう一人は女性がいいのでは…と、そんな理由から私にまわってきた今回の任務。男だからとか女だからとか、そんな理由で回ってきたことには多少思うところはあったがそれでもこれまで自分が積み上げてきたものを存分に発揮するチャンスなのは間違いなかった。危険な任務ではあるが虎穴に入らずば虎子を得ず。あらゆる覚悟を済ませ、あとは辞令が下るのを待つだけだった。それなのに…

ギリと唇を噛みしめて隣に座る男を睨むと降谷は私の考えていることなど全て見透かしているかのように呆れた様子でため息をついた。

「お前にはまだ潜入捜査は早い」
「そんなの降谷が決めないでよ。ちょっと出世したからって偉そうに」
「俺はお前を心配して言ってるんだ。思ったことがすぐ顔に出るやつに諜報活動なんて出来ると思うか?」
「うっ…」

それは心当たりがありすぎた。だが、そうなるのもいつも降谷の前だけで仕事となれば話は別だ。

「大体、組織に潜入することになれば体を使って情報を聞き出さなきゃならないことも出てくるんだぞ。その辺、経験のないお前にできるのか?」
「なっ…できるし…経験だって、あるし…」
「大学と警察学校時代、俺に夢中だったやつが?」

一瞬にして顔を赤く染めた私を見てどこか気分を良くした降谷はグラスを持ち上げるとくすっと笑ってみせた。

「…あのねぇ、誰かに聞かれたら誤解されるような言い方はやめて。確かにずっとあんたから一位を奪うのに必死だったけど好きな人がいなかったわけじゃないから」

というのは全部嘘である。大学時代は勉強に明け暮れていたし警察学校というのは朝から晩まできっちりスケジュールが組まれており土日の外出も申告制で出会いなどもちろんない。空いた時間には刑法暗唱、恋愛そっちのけで訓練に没頭していた私にもちろん彼氏などいるはずもなく。もちろん同じ学校で訓練に明け暮れていた降谷がそのことを知らないはずもない。ちらりと視線を向けてみたが不思議と追及されることはなかった。

「へぇ…」

代わりに口端をあげて意地悪く笑った降谷に嫌な予感がする。彼がこんな風に笑う時はろくなことが起こらないと昔からよくよく知っていた。

「だったら今ここで俺を誘惑してみろよ」
「はぁ?」
「できるものならな…」

…カチン。その言葉には反応せずにはいられなかった。学生時代から幾度となく繰り返されてきたやりとり。同期の松田や萩原からはいい加減大人になれと注意されてきたがこればかりは私も我慢ならない。売られた喧嘩は買わなきゃ女がすたる。

ぐっと拳を握りしめると心を決めて降谷との距離を詰めた。できるだけさりげなく寄り添うようにして降谷の肩に頭を乗せると、甘えるように彼の太ももに手を置いた。そのまま上目使いで見上げればおそらく完璧だろう、堕ちろ降谷零───。

「あの、さ…上に部屋をとってあるんだけど一緒に…」
「おいおい、まさかそんな古い手に引っ掛かる輩がまだこの時代にいるとでも?」
「え…」

完璧だと思った色仕掛けをどこか呆れた表情で遮られたことに固まっていればさっきよりも悪い顔をした降谷が耳元で囁いた。

「ハニトラってのはこうやるんだ」

瞬間、ぐっと肩を引き寄せられる。グラスの氷がカランと音を立てた。

「ねぇ、ナマエさん…僕、少し酔ってしまったみたいなんですが、部屋まで送ってくれません?」

そう言って顔を覗き込んできた降谷は見たこともない顔で柔らかく笑ってみせた。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。なんだこれは。この男は香りまで自在に操れるというのかとそんな意味不明なことを考えながらも体は動けずにいた。間抜けにも大きく目を見開いたまま想像以上に近い距離に瞬きも忘れて目の前の顔をじっと見つめる。

「……………」

微動だにしなくなった私を見て降谷はにこりと笑って小首を傾げた。どこか潤んだ瞳、上気したような頬、これが演技でできるものなのだろうか。経験の差というより実力の差をひしひしと感じてしまい、普通だったら赤面してしまうであろうこの場面で悔しさから俯いた。

(ずるい…顔面スキルが違いすぎる…)

そんな私に手を伸ばした降谷はするりと頬を撫でると追い打ちをかけるように続けた。

「なんなら上の部屋でその先もレクチャーしてやろうか?」

俯いたままの私から降谷の顔は見えなかったがその表情は容易に想像できた。きっと勝ち誇った顔をしているに違いない。警察学校の頃からいつもこの繰り返しだった。凡人がどんなに頑張ったところでこの男に勝てる日なんて一生こないのかもしれない。そう思うと無意識のうちにボロボロと大粒の涙が溢れだしてさらに深く俯く。目の前に座っていた降谷の手が止まり、はっと息を飲むのがわかった。

「お、おい…泣くなよ…これだから女は…」

それもまた散々言われてきた言葉だった。私の地雷だと知っててこいつは繰り返す。だから降谷だけには負けたくなかったのだ。

「わたしはっ…女の武器を使いたくて公安に入ったわけじゃない。大学で必死に勉強してきたのも警察学校で訓練に明け暮れてきたのもそこで得たスキルで犯人を追い詰めるためで…」
「甘いな」
「ッ……」
「甘い。そんな考えだからお前をこの任務から外したんだ。そんな生半可な気持ちでこの国を…」

降谷が最後まで言い終わる前に私は激しい音を立てて椅子から立ちあがった。

「もういい…例えそれを学ぶとしてもあんたからじゃない」
「え…」
「あんたなんかにレクチャーされるくらいならどこぞの見知らぬ誰かに教えてもらった方が何百倍もマシよ」
「お、おい…」

最後に降谷の間抜けな声が聞こえた気がしたがすべて無視して机にお金を叩きつけるとそのまま一目散にラウンジから飛び出した。大股でズンズンとエレベーターホールに向かいながら両手をぎゅっと握りしめる。

バカ降谷…
やっぱりあんな奴大っ嫌いだ…

だけど本当はわかっていた。降谷の言うことは間違ってはいない。あの男がいつもどれだけ自分を犠牲にしてどれだけの覚悟と矜持を持って任務にあたっているかも。そんな降谷に比べたら自分はまだまだあまちゃんで、馬鹿みたいなプライドなど時には捨てて任務にあたらなきゃならないということも。

それでも負けたくはなかった。降谷にだけは守られたくなかった。警察学校時代からなんだかんだと言いながらも最後まで訓練に付き合ってくれたのは降谷だ。いつか彼を越えたいと思いながらも圧倒的な力の差を見せつけられているようでどう頑張っても近づけない距離を感じてしまうのだ。

そんな遠い日のことを考えながら足早に進んでいたため、目の前に突然立ちふさがった人物に気づくことができなかった。


(2017.6.27)
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